1,000年の古都が生き残りに選択した道は、欧米先進国の制度と科学技術だった…鎌倉が見習うべき開化伝

Ⅰ、1868年 東京奠都

慶応4年:明治元年10月13日(1868年11月26日)
明治維新を行った人々は、天皇居住地を京都御所から東京城(直前の江戸城、直後の皇居)へ、時の政府を京都から東京へ遷した。
これを東京奠都と言う。

新政府中枢大久保利通は新政をスタートさせるのに、都の京都は一筋縄でいかない社寺勢力、公家衆、彼らと微妙に繋がる民衆、もつれあったしがらみ…複雑な都:京都を脱失してこそ、新政が創業出来る、それには親政にふさわしい新天地への遷都が必須と考えた。

京都は穏やかではなかった。
市中は不穏の空気に包まれた。
数千人のデモが発生した。

その為新政権は奠都とは言わず東幸と最初表現した。
奠都ともなれば単に永年伝統的に親しんできた天皇を失う。
都の誇りを失う。
生活さえ失うことも意味していた。


しかし明治5年天皇の西国巡幸の際、京都行幸と称され、ここに実質的に京都は廃都となり、東京が新しい都となった。

Ⅱ、没落

公家(華族)や有力商人・市民が大挙して東京へ転居した。

京都が一千年以上もの間保持してきた天皇の住まう「王城」という地位の剥奪である。
武士の世にも力を保持した公家社会も存在意義を否定され解体される。


まだ京都はまだ政争の戦火から立ち直っていなかった。故に衰退に拍車がかかった。
京都は精神・経済的拠り所を失い、人口は35万人から22万人にまで激減する。
富と権力の集中化により興隆する「東京」。
対する京都は「西京」と呼ばれ、没落感が漂い始めた。



Ⅲ、京都を生き返させるにはまず教育、そして西洋の先進科学技術導入を

全国初の小学校創設

1869(明治2)年、全国に先駆けて市中に64の「小学校」を建営、更に特殊系学校など多くの府立学校を設立し、次代を担う人材育成はもちろん、町組織の中心として、集会所・区長役場・消防署・時報諸々の機能を持たせ、学校を近代化の拠点とした。


板垣国道の登場

天保7年(1836)、但馬国生まれ。開拓権判事、元老院少書記官などを経て、京都府知事に着任。北垣知事も勧業政策に重きを置いたが、前任槙村知事時代の強権手法と異なり、府会や府民も巻き込みながら老練に府政を推進した。在任11年の間京都商工会議所創設など数々の実績をあげた。

北垣が京都府知事に着任した頃の京都の街は、東京遷都などにより東京や大阪などへの人口流出、産業衰退により、都市としての活力が失われつつあった。
北垣が京都府知事に任じられたとき、江戸時代には57万7000人いた京都市民が、22万7000人まで減っていた。半分以下である。 

☆琵琶湖疎水建設、京都復活は水だ、琵琶湖の水で京都を蘇らそう…

京都を甦らせるにはどうすればいいか。産業を振興させればいい。 
京都に大量の水を引き込み、水車工場を作り、その動力を利用すれば、産業が発展する。
北垣はそう考えた。

水は、近隣にある巨大な水瓶、琵琶湖から引いてくればいい。
そうすれば、物資を舟で安く大量に輸送することもできる。
灌漑、精米水車、防火、井戸水の補充、衛生にも役立つ。
この発想は、なにも北垣独自の発想ではなかった。
あの平清盛や豊臣秀吉も、日本海から琵琶湖と京都の間に運河を引こうとした。
だが硬い岩盤に阻まれて、工事を中止している。
その後も計画こそ浮上してきたが、工事に踏み切る者はいなかった。 


当時の滋賀県知事は北垣の申し出を拒絶する。 
大阪府知事からも突き上げがあった。京都を流れる水は大阪へ続いている。
大阪はただでさえ水没しやすい土地だったため、「これ以上水を流してくれるな」というのだ。

京都市民もまた増税されることを憂えて反対した。
まさに四面楚歌だった

しかし北垣は、精力的に説得に努め、新聞に告諭書を掲載した。
「疏水工事は、京都将来のため未曾有の大工事である。
もしこれに疑惑を抱くのなら私の家に来てくれ。
喜んで説明しよう」と。こうして周囲の雑音を壊柔して、日本史上、未だかつてない巨大土木工事が実現へと動き始めていく。


北垣にはもうひとつの大英断があった。
若干23歳の田邉朔郎という人物を工事主任に抜擢したのである。
大学卒業したての若造になにができるという声にも、北垣はただただ、「絶対大丈夫だ」と言い放ち、頑として翻心することはなかった。


南禅寺水路閣
南禅寺にヨーロッパ調の建築がある。
長さ93.18m、幅4.06m、レンガ造りの水路橋だ。
水路には、琵琶湖から引いてきた水が流れる。
もちろん今でも水が流れている。建築当初、福沢諭吉は「そんな西洋かぶれのものを作ってどうする」と批判したそうだが、いまでは日本を代表する近代遺産として国の史跡に指定されている


工期途中で視察のためアメリカ合衆国を訪れた田辺は、当初の計画になかった水力発電を取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設し、1895年には京都・伏見間で日本初となる路面電車(京都電気鉄道)の営業運転が始まることとなった。
かくて日本最初の市街電車「チンチン電車」が京都中を走り、輸送路が大変革された。


琵琶湖疏水建設は、国や京都府の財政支出のみならず、市債や寄付金などのほか、市民に対しての目的税をも財源とし、府民と一体となって取り組んだ。
さらに、京都商工会議所などの創設などに尽力し、近代産業都市としての京都建設に大いに貢献した。
田辺と二人三脚で挑んだ琵琶湖疏水工事の物語が大阪書籍の小学校社会科教科書に掲載されていた。
現在の京都の政財界において、歴代京都府知事の中で北垣を高く評価する人々が多い。

インクラインと琵琶湖疏水

なぜ舟を運ぶための鉄道が必要になったのか。
このインクラインは、琵琶湖の水を京都に引き込む疏水工事(明治18~23年)の一環としてつくられた。
インクラインの全長は587m。
疏水工事以前、京都と大津の間の輸送は人馬に頼っており、大規模な輸送を行うことは難しかった。
琵琶湖疏水工事によって水路を開き、舟運による輸送を可能にすることが、遷都後の京都を発展させる道であると期待されていた。

この疏水事業は、琵琶湖から京都市内まで、山々を貫いて20kmを水路で結ぶという壮大な工事であっただけでなく、舟運の向上、水道用水の確保、灌漑、発電などを目的とする総合開発事業でもあった。
疏水は、琵琶湖のある大津にはじまって、長等山などに掘られたトンネルを抜け、さらに山麓をめぐって蹴上に出る。
この蹴上から、インクラインを利用して高さ35メートルの急勾配を下り、鴨川経由で京都市の中心部に入っていく。

舟は自力では急な傾斜を下れないから、この勾配を下るために舟を運ぶ鉄道(インクライン)が必要になったのである。
「船頭なくして舟山に上るの奇観は此処に見ることを得べし、物質的文明の進歩驚くに堪えたり、疏水工事中最(も)人目を惹くもの亦之れなり」という右の写真に付されたキャプションからは、インクラインを見た当時の人々の驚きが伝わってくる。

疏水工事の構想は江戸時代にもあったが、125万円余という、当時としては破格の支出を乗り越えて工事を推進したのは、第3代京都府知事・北垣国道(1836~1916)であった。
一方、北垣知事に見出されて工事を任されたのが、土木技術者・田辺朔郎(1861~1944)である。

明治16年(1883)、京都府御用掛に採用されたとき、田辺は弱冠21歳。構想の原型は、工部大学校の卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」にあったといい、その早熟さに驚かされる。

21年(1888)にアスペン(Aspen:アメリカ合衆国)で世界初の水力発電が成功すると、田辺は早速視察に訪れている。
琵琶湖疏水工事での水力発電の採用を決めたのも田辺の影響が大きい。
ここに蹴上において、日本初の水力発電所が営業を始めることになる。


レールを支える盛土や石積みの技法、英国製や八幡製鉄所製のレール。
インクラインは、往時の土木技術のありようを伝える貴重な遺産である。
レールの両脇には桜が植えられ、今日、この地区は桜の名所となっている。

蹴上インクラインは、 蹴上舟溜から南禅寺舟溜までの斜面に舟を往復させるために敷設された傾斜鉄道のことで、明治23(1890)年1月に完成し、翌年12月から運転を開始しました。
全長約582メートル、幅約22メートル、高低差約36メートル、勾配15分の1の斜面に、枕木と鉄製のレール4本が敷設され、その上にワイヤーロープでつながれた台車を載せ、巻上機と滑車を回転させることにより、台車が昇降する構造になっていました。
昭和23(1948)年11月に運転が休止されましたが、当時をしのびインクラインを往来した台車と三十石船が復元されています。


Ⅳ、一変した古都

町中に電燈が設置され明るい京都が実現した。
市内交通網が電気電車で整備され、人の動きが一変し、観光客の利便性が飛躍的に向上。
水力発電、市電産業の隆盛で、雇用が抜群に増加した。
水路が東山一帯を細かく通り、「哲学の小道」など水を使う新しい古都の景観の魅力が増加した。

世界遺産として京都が発展続ける今日の姿を北垣国道はどう眺めているだろう。


京都観光客数と新しい課題

 平成21 年の観光客数は,世界的な景気の低迷や新型インフルエンザの影響から,前年(平成20 年)の5,021 万人を331 万人(6.6%)下回る4,690 万人となった。

 また,宿泊外国人客は,前年を16.4%下回る78 万人となった。
 修学旅行生は,新型インフルエンザの影響で5 月,6 月に大幅に減少したものの,その後大きく回復し,前年比4.6%減にとどまる96 万人となった。

 平成21 年は前年から減少したが,平成22 年1 月以降,市内主要ホテルの客室稼働率が増加を続けるなど,京都観光は,5000 万人を達成した平成20 年の水準に近づいてきており,力強い回復基調にある。

京都市産業観光局が発行している「京都市観光調査年報 平成21年」によると、2009年の入洛観光客数は4690万人。
これは、上で紹介した読売新聞記事が伝えるニューヨーク市の観光客数と、ほぼ同規模である。
京都市を訪れる観光客は、1996年以降、13年連続で増加。2009年こそ、景気低迷や新型インフルエンザの影響で前年(5021万人)より6.6%減ったが、それでも高い水準を保っているといえよう。

 ニューヨーク市は4日、2010年に同市を訪れた観光客が約4870万人となり、過去最高を記録したと発表した。
日本旅行業協会の「旅行統計 2010」によれば、2008年におけるアメリカの国際観光収入は110.1億ドル。
2位のスペイン(61.6億ドル)を大きく引き離して首位に立っている。

ちなみに、日本は外国人観光客数で33位、国際観光収入で28位。
「観光立国」を目指す日本にとって、アメリカは、何ともうらやましい存在だ。

しかし、ニューヨーク市に対抗できる観光都市は、日本にもある。
もちろん、それは京都市だ。


 ただ、京都市とニューヨーク市には大きな違いがある。
上の読売新聞記事によれば、ニューヨーク市を訪れた外国人観光客は970万人。
一方、京都市は78万人に過ぎない。
ニューヨーク市の12分の1以下。歴史の深さや他に類を見ない町並みなどを考えると、もっと外国人が集まってもいいと思うのだ。
 特に目を引くのが、京都を訪れるアジア観光客の少なさだ。

日本を訪れる外国人観光客のうち、韓国・台湾・中国国籍の観光客だけで半数以上を占める。
ところが、韓国・台湾・中国から京都にやってくるのは、京都を訪れる外国人観光客の2割弱に過ぎない。
 京都にとってお得意様である修学旅行客は、今後、少子化が進んで減少する。
そうなれば、外国人観光客の誘致は、ますます重要になるだろう。
アメリカだけでなく、アジアにも京都の良さを伝えることが必要……。



鎌倉と京都

幸いというか不幸にもか?鎌倉には京都の明治維新時の没落危機がなかった。
京都を救った西洋文明の早期吸収といった開化伝が鎌倉にはない。
危機意識の欠如が世界遺産にはずれた最大原因。
鎌倉を救う第二の北垣国道が、いつ出るか。
黙っていてもあの観光客ラッシュだ、これは難しいと見ている。


制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄



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