勝てる道はたった一つ身内が固まることだ、壊れるのは必ず内から崩れる、中が脆ければひとたまりもない

江戸深川蛤町、大横川沿いの長屋
京から下ってきた永吉
仁王のように日焼けしたいかつい大男
しかしおふみには父親に似た律儀な気配が漂う感じをこの男に感じていた。


「この井戸から水をのませてもうてもよろしおますか」
「いいとも、すきなだけのむがいいさ、自慢じゃないがうちの井戸は深川一だよ」
「ほんまにうまい水ですわ


文芸春秋発行山本一力著「あかね空」365ページ

「12の時から豆腐屋で奉公してました」
京都南禅寺そばの平野屋で下働きしていたが25歳で決断、江戸で平野屋を創業する算段。

京の平野屋では水汲み、豆洗い、薪番の小僧だけで6人、更に絞り方、煮方、揚げ方の職人が9人という大所帯だった。
江戸では一人で、水も違う、出来るだろうか

おふみの父親源治は力強く言った「お前さんの心掛けは買ったぜ、長屋仲間だ」
源治始め長屋連中が応援して、店の造作も整った
宝暦12年9月3日午前6時豆腐の京や開店。
絹豆腐12文で販売開始


永吉のつくる豆腐は京風、やわらかい。
江戸の人の好みは硬い豆腐。
「わての仕込まれた豆腐は硬いもの、これの方がおいしい、分かってもらうまでがんばるしかない」
売れない京や豆腐だったが、同業相州屋さんの隠れた行為で自分の得意先永代寺さんを京や譲ることに。

相州屋夫婦の子供が幼い頃行方不明になり、生きていれば永吉と同年輩。
永吉がわが子のように感じた相州屋さんの妻は毎日京やの豆腐を買い続けていた。
長屋や深川の皆が京やの商売の行方を応援していた。しかし…

永吉はおふみと祝言をあげた。
栄太郎、悟郎、おきみの3人の子も成長。
13歳のおきみが賄い、洗濯、豆腐つくりは永吉、悟郎、おふみ、得意先周りは栄太郎、5人の力が合わさり京やの歯車は回り始めた。


天明から寛政に世は変る。
おふみは永吉に言った。
「勘定が帳面と合わない」
「栄太郎が100両近く使い込んだらしい、賭場に出入りしている」
永吉が言った「栄太郎、お前にはつくづく愛想が尽きた、わての目の黒いうちは京やの敷居はまたがせんぞ、どこなと好きなとこ行きさらせ」


永吉はこの日深酒を飲んだ。
翌朝冷たくなっていた。
享年52歳。

悟郎が京やの味をこれからは作るのだ。
不安で胃がきりきり痛んだ。
おふみが「お前に負けないよ」と割り込む。
見事な味だった。

悟郎が祝言をあげた。
世話になっている大店の広弐屋の娘すみだった。
おふみは「何不自由なく育った甘ちゃんだ、すぐ弱音を吐く」と思っていたが、すみは一向に弱音は吐かず、むしろ気働きがある子だと認めざるを得なかった。


そのおふみが倒れた。
心の臓の病。
栄太郎を病の床で呼んだ。
「京やはお前のものだからね」
最後の言葉だった。

おふみの通夜、葬儀が進行した。
残された栄太郎、悟郎、おきみ、すみはそれぞれお互いが行き違い、不信の極みにいた。
栄太郎の世話人政五郎が4人を集めた。

不器用だったおふみはすみに実はおしめを密かに手作りで準備していたのだ。
「京やの孫は栄太郎が生むよ、お前達は生まないで」
すみは嫌われていたと思い込み葬儀でも忘れていない言葉だった、そのおふみが実はすみの子を待ち望んでいた。
自分の晴れ着でおむつを作っていたとは。
何度でも詫びたかった


京やの豆腐の悪口をいったのがいたが、この榮太郎はそいつに殴りかかったことがあった。
「おれの親父が命がけで作った豆腐をぐしゃぐしゃだと。手前の豆腐はそんなに硬いのか、そんなに硬いのじゃどう食うんだ、鉋か鋸か、どっちでえ」と啖呵をきったら相手はどっかにふっとんだよ。
それに弟と妹の自慢ばかりだったが、今夜良く分かった、栄太郎の言っていた通りだ。
栄太郎は言った「お袋は俺を京やにと言っていたが、俺は悪いが鳶のほうが向いている、

悟郎とすみで頼んだよ、おきみは嫁に出してくれ、お袋を勘弁してやってくれ」

「かたぎが俺たちに勝てる道はたった一つだ、身内が固まることだ、壊れるのは必ず内から崩れるものだ。身内の中が脆ければひとたまりもないぞ」

悟郎とすみ二人はならんで本殿の前に立った。
深々と二拝し拍手を二つ打った。
目を閉じて願い事を済ませた。
栄太郎とおきみが後に続いた。
高野山の豆腐は真冬の寒さにさらされ、寒ざらしによって生まれ変わり、高野豆腐になる
お袋の葬式がきっかけで俺たちもそうなれたのだと思う


銀杏の葉が一枚玉砂利に落ちた。
西に空に向かい鳥が群れを組んで飛んでいた。


あかね色のひかりの帯が、木の葉の茂みを抜けて参道の石畳をまだらに照らし出していた。


山本の作品は、息をつかせぬ面白さもあるし、固唾を呑む物語の展開にやきもきもするし、今回は思わず泣き出しながら京やの豆腐作りに吸い込まれていく引力も持っている。
山本作品の原点は家族愛の物語であると今回も確信した。



京やは京都から江戸に下り勝負した。
高知からニールセダカのマイホームタウンに乗り上京したのが山本一力
家族の応援で成功したことも一緒。
2002年、一力53歳11カ月で本作品『あかね空』で第126回直木賞を受賞。


選考委員評

平岩弓枝
「宝暦十二年八月と、登場人物の生きた年代をはっきり決めている姿勢にこの作者の時代小説への意気込みを感じた。」
「第一部と第二部に分ける構成ミスということもいわれたが、山本さんの自作に対する姿勢は、すみやかにそうした点をクリアしてしまうと思う。
この作品に出会えたことは、今回の収穫だった。」

井上ひさし
「江戸深川とそこで生きる人びとをひたと見据える気合い、それが全編に漲っていて、その劇しい気合いがいくつかの欠点(時代考証の勘違い、都合のよすぎる筋立て、凹凸のある描写)をきれいに消してしまってもいる。」「家族間の愛情の微妙なもつれを、第二部でいちいち訂正して行く構成がとても知的だ。」「とにかくすてきに気分のいい小説である。」

宮城谷昌光
「山本一力氏には、内なる力があり、その力がおのずと求めた小説様式が、素直に展開されたことで、読むほうも素直になれたという事実がある。
私は氏の作品を読みすすむにつれて、良い人情噺が書ける作者があらわれたな、という実感を強くした。
作品が人の胸を打つということは、そこに真実がある、ということにほかならない。」

当日電話がかかり受賞の連絡を受けた山本は、冬の寒い夜、雪交じりの雨の中、自転車で受賞記者会見の会場帝国ホテルへまで家族皆でで駆けつけた。直木賞作家が自転車!?帝国ホテル係員は絶句した。
家族の山本ここにあり。

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