絢爛たる北条の女たち第四話 北条の運を開いた早雲姉北川殿

絢爛たる北条の女たち第四話 北条の運を開いた早雲姉北川殿


① 北川殿 今川家に

北川殿は、伊勢新九郎長氏伊勢宗瑞(後の北条早雲)の姉である。
父は京都にいた伊勢盛定、母は伊勢貞国の娘。
父盛定が室町幕府において今川義忠の申次衆を務めていた関係から、応仁元年(1467年)頃に義忠の正室となru.

長女栄保(正親町三条実望室、北向殿)、
嫡男龍王丸(今川氏親)を生む。

②北川殿の子龍王丸が今川家当主に…

1476年4月、夫今川義忠が、斯波義良に通じた遠江の国衆・横地四郎兵衛と勝間田修理亮を塩買坂での戦いにて破った帰りに、残党によって襲撃を受け、矢に当たって討死する。
その跡目争いで、嫡男・龍王丸(6歳)がまだ幼かったことから、家臣の三浦氏、朝比奈氏らが擁立した小鹿範頼の子・小鹿範満との間で競いが起こる。

北川殿は9代将軍足利義尚の申次衆であった弟の盛時に頼り、さらに幕府の命令も受けた盛時の調停により、龍王丸が成人するまでは、範満に駿府館で家督を代行させることになった
この決着を受け、北川殿は龍王丸と共に斉藤氏居城丸子城(静岡市)に移っている。

関東大名の力が駿河国にまで及ぶことを警戒した将軍義政は、早雲と早雲の父である伊勢盛定(もりさだ)、さらに北川殿の叔父で将軍の側近であった伊勢貞親(いせ さだちか)を駿河へ向かわせ、「龍王丸が成人するまで後見人として、一時的に範満に家督を代行させる」ことで話をまとめ、この騒動を決着させたのでした


③北川殿と呼ばれる

文明11年(1479年)には前将軍足利義政から龍王丸の家督相続が認可されたが、龍王丸が15歳を過ぎても範満は家督代行を退かず、文明19年(長享元年(1487年))、龍王丸が諸公事免状の発給等を遂行する独立状態になると北川殿は再び弟に要請し、これを受けた宗瑞早雲が駿府館の範満を討ち滅ぼしたことにより、龍王丸(氏親)は駿府館に帰還し、龍王丸は2年後に元服して氏親(うじちか)を名乗り、正式に今川家当主となる。

北川殿も共に帰り、駿府館付近の阿部川支流北川沿いに別荘を建て移り住んだため北川殿と呼ばれるようになる。



④早雲 興国寺城主に


この功が認められた早雲は、伊豆との国境に近い興国寺城を与えられ、一城の主となりました。
その後、今川氏の家臣として、甥である氏親を補佐すると同時に、駿河守護代として働き続けた。

⑤早雲 知略を武器に伊豆、相模を獲得 大飛躍

まず狙いを定めたのは伊豆でした。
伊豆は堀越公方と呼ばれた室町将軍の一族が治めていましたが、早雲は1493(明応2)年、自らの手勢200人と甥の今川氏親から借りた300人を率い、伊豆の堀越御所を急襲し、伊豆を平定します。

伊豆・韮山城を本拠とた伊勢盛時(北条早雲)と、今川氏親(早雲姉北川殿の子龍王丸)は以後も緊密に協力してお互い領土拡大を図って行く。

次の狙いは伊豆の東側にある相模(神奈川県南部)。1495(明応4)年
相模の小田原城には大森藤頼がいましたが、たびたび進物を贈り、親しく懇談する仲になったうえで、領内で鹿狩りをするために兵を入れさせてもらう。
大森藤頼は親しくなった早雲を警戒していなかった。
その隙に早雲は小田原城へ進撃、箱根山には火をつけ、兵が鬨の声を上げ、大軍の攻撃と勘違いした大森藤頼は慌てて逃げだし、小田原城は早雲の手に落ちた。


戦国武将の先駆けとして広大な領土を制圧した早雲はまた、領国経営においても大変先進的な取り組みを行う。
五公五民(収穫の五割を納める)が当たり前だった年貢を四公六民に引き下げる一方、検地を初めて行い公平な税負担を確立させたを始めた。

『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定めましたが、これは各地の分国法の原型になる。

民を大切にする彼の政治を他国の農民が羨んだくらい。

⑦北川殿は北条と今川の運を開いた数奇な運命の人であった。

弟北条早雲、我が子龍王丸(後の今川氏親)が戦国時代に生き残り、そして大飛躍していくのを、をしっかり目にして1529年5月26日に死去。
戒名は徳願寺殿慈雲妙愛大姉で、菩提寺は得願寺と桃源院の2ヶ所となっている




初代早雲姉北川殿は正に禄壽応穏の人だった。


参考資料
甲斐市ホームページ
新人物往来社発行 黒田基樹著 北条早雲とその一族
教育社発行 江西逸志子原著 岸正尚訳 小田原北条記
新紀元社発行 相川司著 戦国北条一族

ブログ発信  金丸亜紀雄


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