群馬:太田市今昔物語…昭和13年躍進太田に環状電車計画:平成19年住民の16%が外国籍の大泉町

「地方記者の原稿録」シリーズは、一朝日新聞地方記者が、送稿続けた戦前:戦中:戦後の地方発ニュ-ス原稿を今あらためて読み直し、平和を願い平和を壊され、しかし確実に生きていく地方の市民生活の一コマを少しでも窺うことが出来ればと発信するものです。

1、昭和11年~16年 群馬県太田通信部時代 


第6話 昭和13年8月  躍進太田を中心に環状電車計画  大川の他更に新工場も


記事

太田を中心とする6町村の町村合併は順調に進捗しているが、大川村に40万坪の第二工場を建築することになった中島飛行機会社では、更に30万坪の工場を近隣に建設で内定した。
これにより太田製作所の規模は約2倍に飛躍する。
またこの計画と平行して6カ町村、尾島、小泉、大川等10町村を回遊する延長10里の環状電車を敷設することになり東武電車当局と折衝、おおむね了解と伝えられ太田中心に新田市実現は有望になって来た。


計画の実行経過

(昭和16年)6月1日に中島飛行機小泉製作所への輸送を行うため、太田~(現)東小泉間が開通したことを受け、小泉信号所(現・東小泉駅)が設けられた。同駅は翌1942年4月に東小泉駅と改称し、旅客営業を開始している(代わりに小泉町駅での旅客営業を中止)。同年12月1日には仙石河岸貨物線に西小泉駅が開設され、中島飛行機小泉製作所の玄関駅となった。

軍の要請によって仙石河岸線の新小泉駅から分岐させて熊谷線と接続する予定であったが、第二次世界大戦後に工事は停止され、また仙石河岸駅と新小泉駅も相次いで閉駅され、西小泉駅以南は廃線となった。熊谷線は、1983年(昭和58年)5月31日に廃止されている。



小島の飛行場新設

軍都太田の躍進状況が伝えられるが、中島飛行機会社拡大の決定版が隣接小島町への新飛行場建設であろう。これにより一層の飛躍が期待されたが、当時の町民の目に「太田の飛行場から飛行機が何機も何機も飛んでいく、行き先は小島の飛行場だった。小島の飛行場に飛行機を隠すためだ。必ず飛行機が逃げていくと空襲になった…太田駅前ふたば写真館談」
と映っていた。躍進の陰で悲劇も進行していのだ。

日本初のジエットエンジン橘花

さて,尾島は中島飛行機の設立者・中島知久平の故郷ながら,終戦間もない昭和20年には日本初のジェット戦闘機「橘花」が製作されていた.

『(昭和二十年)六月二十五日,「橘花」第一号機が藁葺屋根の養蚕小屋で完成した.ただちに分解され,米軍による爆撃の跡も生々しい小泉工場に持ち込まれ,二十七日には,ネ20が搭載された.

そして,六月三十日,小泉工場内の飛行場にエンジン音が響きわたった.それは,喜び沸き上がる関係者の歓声をも吹き消すほどの力強さであった.』(ジェットエンジンに取り憑かれた男,前間孝則)

昭和19年7月19日にドイツから秘密裏に持ち込まれたジェットエンジンに関する資料(メッサーシュミットMe163,Me262ジェット戦闘機設計説明書,BMW003A型ジェットエンジンの断面図写真など)が,日本のジェットエンジンの開発の推進力となった.

それまで独自で研究が続けられていた日本製エンジンであったネ12Bに変わり,BMW003Aを基盤とした設計変更を行い,最終的に完成したのが上記の「ネ20」とされる.一枚の図面から約1年の歳月だけで試作機が完成.

この試作第一号機は小泉から千葉県木更津基地に運ばれ,非公式ながら8月7日に初飛行に成功した.その夜にはささやかな宴会が開かれたものの,水を差すニュースが入った.前日に広島に投下された新型爆弾(原子爆弾)であった.

8月10日,第二回目に予定していたフライトは激しい空襲のために中止.翌11日に実施されたが,この日の試験では離陸推進用ロケットを装着させるものの,滑走段階でトラブルがおこり,機体は滑走路をオーバーランして海岸の砂地へと機首を乗り上げた.そして8月15日の玉音放送とともに終戦を迎え,日本のジェットエンジンの開発が中断されることになった.

ジェットエンジンの再開発はその後に石川島播磨重工(株)に引き継がれていったが,戦後GHQの指令によって解体の憂目にあった中島飛行機では二度とジェットエンジンに火が灯ることはなかった.(中島飛行機の糸川英夫氏は,その後にロケット開発に従事.ジェットエンジンはロケット開発の礎ともなった.


【参考文献】
中島知久平 高橋泰隆,日本経済評論社,2003
尾島町誌 尾島町誌専門委員会,尾島町,1993
大泉町誌 大泉町誌刊行委員会,1978
ジェットエンジンに取り憑かれた男 前間孝則,講談社,1989
私の履歴書(2003.9) 井植敏,日本経済新聞,2003
ぐんま100年物語(1999.8.25記事) 上毛新聞,1999

軍需都市から平和産業の町へ…昭和32年、小泉町と大川村が合併して「大泉町」が誕生。 

昭和16年(1941)に太田・小泉飛行場が完成、翌年中島飛行機小泉製作所が開所してから軍需都市として隆盛を極めました。
激しく展開した一つに時代が過ぎ、昭和32年、小泉町と大川村が合併して「大泉町」が誕生。
昭和35年には首都圏都市開発区域の指定を受け、以来積極的に工業団地の造成を行いました。
その後の工業化は目ざましく、電機機器・輸送機器などを中心に多数の優良企業が進出。
現在、年間製造品出荷額は県内市町村第2位です。
 また、昭和32年大泉町スタート時には約1万9千人だった人口は昭和48年には約2万8千人で県内町村第1位になり、現在(平成15年3月末現在)は4万2千人を超えています 。


小泉飛行場と三洋電機:中島飛行機と富士重工

群馬県大泉町の西小泉駅前には国道354号と直交する形で日本の道百選に登録されているハナミズキ通りがある.南北に伸びる工業道路で両脇には三洋電機東京製作所(旧東京三洋電機)が立地する.ここは関西の大手電気メーカーであった三洋電機の初の関東拠点となった.

日本経済新聞に掲載されている「私の履歴書」の2003年9月版には,その三洋電機(株)の会長である井植敏氏が執筆しているが,9月11日の欄にはその東京三洋電機の成り立ちについて記されている.

『悩み抜いた末,「メーカーは何より供給責任を果たさなければならん」と新たな生産拠点の確保に乗り出した.リスク分散である.その第一の条件は関東地方だ.

それが群馬県大泉町の旧中島飛行機の工場跡地であった.戦後は米軍に接収されてキャンプドルーとなり,主に兵器修理工場として,朝鮮動乱時は軍の病院として使われていた.近く返還されるということで,自衛隊の誘致が地元では浮上しているらしい.

土地はざっと百万平方メートル,建物二十万平方メートル.当時の三洋電機の土地は全部合わせても四十二万平方メートル,.建物十六万平方メートルだ.おまけに,三千人収容の劇場まである.最終的に地元に大量の雇用が見込める三洋に決まった.こうして,一九五九年七月,東京三洋電機が設立され,父が社長を兼務した.』(私の履歴書,井植敏・三洋電機会長)

富士重工群馬製作所

ここ大泉町を含め,隣接の太田市は旧中島飛行機の城下町であり,現在は中島飛行機から戦後になって富士重工(株)へと変貌を遂げた.

見渡すだけでも,太田駅北側にある群馬製作所・本工場,および北工場,また太田駅の南側の国道407号に近い矢島工場,そしてその矢島工場から東には大泉工場と拠点を構える.

現在,富士重工のスバルブランドとして人気を博しているレガシー,フォレスター,インプレッサなどの乗用車は,ここ群馬製作所(矢島工場)で製作されている一大拠点となっている.

広大な敷地を誇る富士重工・大泉工場は,製作された乗用車のモータープールとなっているが,中島飛行機時代はここは小泉飛行場滑走路として使用されていた区画.

先の三洋電機の工場では,中島飛行機時代においては主に設計・開発が行われ,ここで組み立てられた戦闘機は上記の「ハナミズキ通り」を辿り小泉飛行場へと誘導された.

一方の国道354号も,地元の話では旧滑走路として使われていたという話が残っている.小泉から西に眼を放てば,尾島町岩松に立地する三菱電機群馬工場(中島飛行機・亀岡工場)がある.ここも旧中島飛行機時代の製作所であったが,やはり同じ国道354号が滑走路としての機能を有していた談話が残るという.話を総合すると緊急着陸を想定した代替滑走路であり,かならずしも離着陸のために使用されていたわけではなさそうだ.


民生委員:児童委員の情報誌「ひろば」8月号から

群馬県大泉町は北関東屈指の工業地区です。
平成2年の出入国管理及び難民認定法が改正されると、製造業における労働力確保のため、安定雇用の出来る中南米から合法的に雇用を促進する動きが全国的に高まりました。

大泉町でも中小企業での雇用が高まり、外国人人口が劇増しました。
現在町人口4万2096人、外国人登録者数は16.14%を占めています。

大泉町民生児童委員は日頃からこうした外国籍の方々に対し、地域で暮らすための情報を提供し、その家庭を見守りを行っている。
月2回は訪問、
最も多いブラジル、ペルーの人々は朝から晩まで働いているで生活実態は把握がなかなか難しい。町では今後彼等も高齢化が進み、必然的に民生児童委員との関わりも増えるだろうと予想している。

スペイン語やポルトガル語の看板のある町

町の中にはポルトガル語やスペイン語の看板を掲げた食料品店やレストラン、雑貨店なども珍しくありません。
 大泉町では、言葉や文化、習慣の違う人たちが共に安心して、快適な生活が送れる「秩序ある共生のまちづくり」を目指しています。(日本語講座の開設/大泉国際交流協会)


大泉町では、ポルトガル語版広報紙「GARAPA」などを通じて、外国人住民に町の情報や日本での生活ルールをお知らせしているほか、地震のない国から来た人たちを集めた防災訓練なども実施。外国人ボランティアや、学生、地域の皆さんが活躍しています

昭和14年12月  第7話  親日一色のタイ国  須永代議士の土産話

衆議院議員須永代議士はタイ国視察団の一員としてこのほど帰朝。
バンコクに10日滞在、タイ官報では「日本国民公の代表議員団は、我がタイ国民が旭日の国
志の琴線に相触れる国民に対し抱ける友誼友情を示したのである。と報じ国賓待遇の接待を受けた。どこへ行っても学生、青年団が国旗を振って歓迎してくれた。
タイ国には日本人が600名ほどいる。商店主もいるが最近は新興産業の指導技術者が多くなっている。日本への信頼が非常に深まっている。

群馬県から戦後4人目の総理大臣が誕生しそうである。
それも北上州から。昔の軍都の繁栄、今の近代工業の発展、そして日本有数の外国籍労働者数。…地味な県ではあるが生活の足取りは日本の近代化の歩みと歩調を合わせ確実に進展している。谷川岳、榛名3山そして利根川の厳しい自然に育てられた気性激しい骨太な県民性の賜物であろうか。



制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄
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