米国史上初空襲は日本の女学生が…日本発風船爆弾が恐怖に晒らす…本音は北朝鮮よりはるかに日本が怖い

新聞を読んで
平成19年8月15日~8月21日 神奈川新聞 26面  「風船爆弾東に」
上毛新聞、埼玉新聞、神奈川新聞、千葉日報、茨城新聞共同企画7回シリーズ


導入:平成19年8月12日神奈川新聞12面文化欄 私の平和

終戦記念日を前にした企画として、現代物理学の父「仁科芳雄博士書簡集」から戦争と科学者の良心について、及び長崎で被爆された作家林京子氏の「私の平和」が特集された。仁科博士は国家総動員体制化原爆開発2号作戦に奉じ、戦後は核の国際管理を強く提唱し平和主義者として生きた。苦悩の博士の生き様は湯川博士、朝永博士に比し人生の悲哀も帯びる。林氏は学徒動員で長崎の兵器工場で被爆した。治療薬もない非常時に母親は懸命に連日、野草雪ノ下を50枚、100枚と貼ってくれ命拾いした。

この特集に神奈川新聞の終戦記念日への強い意欲と平和への姿勢を感じていたところ、8月15日号で期待以上の企画が登場した。しかも関東5紙共同企画で。地方は健在であった。

特集 風船爆弾東に 7回シリーズ

15日手漉き和紙
埼玉県小川町伝統の細川和紙は薄くて強いと全国の見本であった。
小川町の工場に風船爆弾の気球に使用できる特別な紙の特注軍令。
30人の女性工員は徹夜もしばしば、「私らに娘時代はなかった」

16日 こんにゃく糊
下仁田こんにゃくは軽くて機密性が高く粘度も高かった。全国シェアー9割だった。気球の紙をはる糊として使用する軍令に町民は必死で栽培、製粉した。食糧難の時代全国の食卓からこんにゃくが消えた。こんにゃく粉3、水97の割合で混ぜた。

17日 高度保持装置
横浜共立女学校学生は東芝川崎工場に勤労奉仕させられた。15歳の女子学生に風船爆弾の機密事項は知るわけもなく、使命感に高揚しながら、工場内密室で風船気球の高度保持装置の開発製造に奉仕する日々だった。
この工場で動員中の生徒5名と教師1名が空襲で亡くなった。
製造した風船爆弾により米国で戦死6名の被害を与えたと女学生達が分かったのは戦後ずっと後のことだった。
このことは共立女学校の一人の教師をして戦争のむなしさを、むごたらしさを伝える衝動になった。…「風船爆弾秘話」の執筆につながっていく。


18日 放球試験
北茨城市、いわき市、千葉一宮町に風船放球基地が置かれた。
重大軍事機密であり、海岸線を走る列車の窓は鎧戸が常に降ろされていた。
打ち上げは夜明けか夕方のわずかな時間だった。
コンクリート製のドーナツ型放球台は12基設置された。

風船爆弾は上空12000mを吹く時速250キロの偏西風に乗り2日前後をかけ米国本土に到達し、搭載した焼夷弾と爆弾を落とし、自動的に引火燃え尽きる仕掛けであった。
人間が操縦しない無人の秘密兵器として重要な位置付けが今日されている。  

19日  放球基地
北茨城市大津基地。1944年完成し兵士1500人が動員された最大規模の風船爆弾放球基地となった。山に囲まれ見つかりにくい立地で、常磐線大津駅のそばにあった。 
1944年11月から45年4月まで、朝なぎ、夕なぎに青い風船が一列になり東の沖に飛んでいった。
放球9000個、北アメリカ大陸西海岸に約1000個が到達されたと推定されている。ワシントン州ハンフオード原爆製造工場にも落下している。長浜海岸に「風船爆弾放流地跡、忘れじの平和の礎碑」が建つ。

20日 米国オレゴン州ブライ
1245年(昭和20年)5月5日、風船爆弾が飛来し爆発、牧師夫妻、日曜学校の子どもたち5人が爆発に遭遇し6名が死亡。
現場の森林公園には「第二次世界大戦で米国が直接攻撃にされされ死者を出した唯一の場所」の言葉と死者6名の氏名が刻まれた碑が建立されている。

この被害に国防省は驚愕し風船爆弾に細菌・科学兵器の搭載を非常に恐れたとされる。
50年後の1995年6月、風船爆弾制作に関わった女学校学徒動員仲間15人はオレゴン州ブライを訪れ、碑前で手を合わせた。
村人は戦争を恨むが、あなた達を恨んでいないと暖かく迎えてくれた。


21日  秘密兵器の全貌

最終回、7枚の写真で風船爆弾製造の全貌が伝えられている。
想像以上に大きな気球だ。飛び出す様子は不気味に感じられる。
夜を徹し灯りの中、女子挺身隊員に指導され原紙作りに精出す女学生の姿も壮絶だ。
風船爆弾は国内でも米国でもむなしい悲劇を生んだ。
戦後62年、足元の歴史に耳を傾け、平和と未来を見据える確かな目の必要を説き企画は終了した。2007年8月、5紙企画に敬意を表したい。
   

明日は、風船爆弾心臓部製造を担った共立女学校の元教諭櫻井誠子さんの著作「「風船爆弾秘話」を読んでです。

文中から…
10mにもなる巨大な風船爆弾はたった10センチの小さな高度保持装置により操作された。
手のひらにも乗るわずか10グラムにも満たないこの高度に精密な機器はわずか15,6歳の少女たちにより作られていた。
 工場が空襲されても防空壕に入るな、作り続けろとの厳命に怯えもいとわず敢然と任務を果たし少女たちの背中は壁のようになっていく。

米国政府、軍部は、建国以来初めて敵に直接本土を攻撃された事実に恐怖に包まれた。風船爆弾の迎撃に延べ500機の戦闘機を出撃させた。細菌科学兵器搭載を最も恐れた。

そして東京、大阪、名古屋など日本本土への反撃の空襲が始められた。
特に風船爆弾製造に関わった各地、小倉、川崎、平塚などは徹底した空襲にさらされた。
いかに米国が風船爆弾を恐れたか:小倉では風船爆弾の大部分と細菌科学兵器も研究されていた。川崎は高度保持装置を製造:平塚では火薬と化学兵器研究も進められていた。
原爆投下は長崎ではなく小倉が当初の目標だった……



制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄

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