時代は幕末、舞台は彦根、テーマは起業、近江商人と井伊直弼と幻の高級焼き物湖東焼き物語

幕末混乱期の彦根藩を舞台に、近江商人絹屋半兵衛夫婦の起業創業物語と藩主井伊直弼が大老に駆け上がる疾風の時代がテーマの経済歴史小説であり滋賀県人の著者独特の故郷を思慕する傑作でもある。

新潮社発行、幸田真音著「藍色のベンチャー」上345 下344ページ

起業のテーマは湖東焼きである。
吸い込まれるほどの透明感、それでいて濃く深い藍色。
作者の心根を思わせる品の良さが感じられる。
歴史に翻弄され数奇な運命をたどる湖東焼きと魅せられる者の物語  京都新聞連載。


第1章が起業と題されている。

絹屋半兵衛の新しい生涯が決まりかけている。
再婚相手に自分から「貰ってください、絹屋には自分の器量が必要です」と見合いの席で自分を売り込んだ留津を再婚相手にしたものかどうか…
その留津に「男は一生に一度は清水の舞台から目をつぶって飛び込む時があるものだ、焼き物を始めたい」絹屋半兵衛は一途にまっすぐ見つめて言った。
留津は「観音様になりましょう。でも約束してください、焼き物は大きな元手がいる商い、ぜったい乗り合い商いでやるように、儲けも乗り合い、でもリスクも乗り合いになります」

絹屋半兵衛の有田にも瀬戸のも負けない、驚くような焼き物起業は始まった。
窯作りと同時に共同出資者探しに取り掛かる。
事業計画書、販路開拓試案書、予算勘定予定書、乗り合いスキーム図案を説明して歩く。
幕末期、焼き物、石物を扱う商いは京ではずいぶん流行している。
いや京だけでない江戸でも、東から西までいまや潮が満ちるように広がってきている。
みすみす今を逃すことはない。
それが商いの王道です。
他に先んずることが肝要。


第2章
絹屋窯は、絹屋半兵衛の隙のない地道な人脈を活用しての根回しもあり、文政12年10月藩の許可が下りた

一度は大きな失敗もあったが、この反省から学び、ついに文政7年7月絹屋の窯は成功した。
藩主井伊直亮が直々に訪れた。「気に入ったぞ、この色艶たしかに魅せられる」
彦根藩から正式なご用命を受けることになる。

第3章
若き日の井伊直弼との出会いが物語られる


出会いとは不思議なものだ。
様々な出会いはすべて意味を持っている。
後の大老井伊直弼若き日の鉄三郎を誰とも知らず商いにかける熱い思いを語る半兵衛との出会い。
どれほど鉄三郎の身が救われたか。
文武の道であれ何であれ出来る限りのことを試すことだ、たとえ世に出ることはなくとも
自分を信じ、自らを磨くことだ。



第4章
絹屋窯は召し上げる。


今後彦根藩窯となる。
「あなた、これで終りなの」
「これは賭けや、おきな賭けが向こうからやって来たのだ」
「清水の観音様が授けてくださったのじゃ、わしの商いはびっくりするほど大きくなる」
半兵衛は目をいっぱいに開き留津を見た。
「侍が怖くて商いが出来るか、わしは近江商人や、こっちにも考えがある」


第5章 
彦根藩の国産仕法、政策がはっきり大きく転換している


国産品の専売保護による運上から、一歩踏み出し、藩自ら経営に乗り出す。
その第一弾が絹窯すなわち彦根藩湖東焼きであった。
その名前の存続や年貢の免除などこまごまと様々な角度から窯の発展を祈り嘆願書をしたためこれも許可された。
湖東焼きを立派に成長させ、力強い国産品として藩財政に貢献させなくてはいけない。


第6章
鉄三郎は施主になった。
35万石彦根藩主。


鉄三郎32歳。14男だったが藩主の子供には違いはなかった。
自分になにが出来るか。
弘化3年、江戸出府に際し彦根をしのぶものとしてこれ以上はない、湖東焼き。

直弼の目は高かった「赤が濃すぎてもあかん」
それだけ思いが深かった。
釉薬より低い熱で融けるガラス質に、金属得塩を入れ色ガラスにする。
素地に釉薬をかけ1,200度の高温で焼き、その上に絵の具で絵付けを施す、再度800度の低温で焼く。
「赤が映えるように素地は白うないとあかん」直弼が言う。赤をきれいにするため素地を白くするのを望まれる、至極当然だ」半兵衛は難題が課せられる。

彦根、会津、高松御三家は常溜。
しかもこの中でも井伊家は筆頭旗頭だ。


第7章
藩主直弼は彦根に久しぶりに帰国した。


出来る限り改革は避けた。
可能な限り前例を踏襲した。
代々引き継がれてきた彦根藩を引き継ぐ、引き渡す役割だ。
なにより守らなくてはいけないことは、領民の人望だった。
信じるところ、拠り所を揺るがせてはならない。

半兵衛と直弼の再会。
良いものを求める者と作る者の苦悩。話は尽きず、春の宵は静かに更けて言った。
世の中は米本位制から貨幣経済へと移行しつつあった。
彦根藩は国産奨励でも他の藩より早く、経営意識は高かった。
先見性に富んだ彦根藩の体質が他藩に先駆けて経済統制を緩め、その結果商人の間に自由な活動の可能性をもたらし、彦根藩から近江商人を広く世に出すことになる。
絹屋半兵衛は苗字御免となり伊藤半兵衛となる。


第8章
直弼は国学を学ぶ者として基本は尊王の立場に立った


幕府に勤めるうちに開国の重要性も知った。
通商こそ国を守り発展させれる。
大老就任2カ月後安政4年6月日米修好通商条約調印。

藍色から白へ。この世のものとは思えないほどきれいな藍色。
涙が出るようだった。その藍色から赤絵を作るため素地の藍色を白くする。
「ほんとに真っ白」「直弼様に届けたい。江戸までどのくらいで届くかしら、間違いなくお手元に届くでしょうね」
半兵衛は気持ち悪い予感を振り払った。


安政7年3月3日 桜田門。直弼は駕籠の外で起った異変を瞬時に悟った。
「来たか、愚か者」


この事変を伝えた商人の手による仕立て便は言わばビジネス特急レターの形で公式な藩の便より半日も早く国元に到着している。緊急時の資金、注文品の用意に至るまでこと細かく記載されていた。しかも簡潔に。
直弼を失って幕府崩壊への凄まじい流れが加速する。

万延元年6月
半兵衛は70歳:夢中で駆け抜けた人生だった。
「留津おかげで面白かったよ」「旦那様うちのほうこそ面白い毎日でした」
半兵衛死後文久元年伊藤の永代苗字御免が与えられた。


直弼死後2年で湖東窯の廃窯が決まった。
払い下げである地元での存続と半兵衛の悲願を継いで京でも湖東焼きが再現された。
日本のものづくりの原点もここにある。



幻の湖東焼き


湖東焼の黄金時代を築いたのは直弼です。
嘉永3年(1850年)、直亮の後を継いで13代藩主になるや、窯の規模を拡大します。
直弼は「埋木舎」での青春時代から、楽焼をたしなむなど焼物には強い思い入れがありました。
湖東焼の経営システムを改革すべく、最良の原料や燃料を使わせ、各地から優れた職人を招き、新たな人材育成にも力を注いでいきました。

白く焼き締まった磁器を主体に金襴手、色絵、染付、青磁など細やかで美しい逸品が数多く焼成されたのが、直弼の時代の湖東焼の特徴です。
江戸時代後期の日本の焼物を代表する高い完成度を示し、直弼は、優品を彦根を代表する特産品として、他の大名などへの贈答に用いました。
また、直弼が自ら下図を描いて細かく注文し、制作させた直弼好みの湖東焼も存在します




佐和山・餅木谷の窯場跡は現在、近江鉄道本線が走るトンネルを彦根側に出た西側一帯に相当します。
道路に立つ「湖東焼窯跡」の石碑を目印にあぜ道を進むと、竹林や畑が広がっています。わずかに残る煉瓦積みの痕跡や、土置き場の石垣などに当時の面影が残されるばかりです。
足元には焼物の破片も残りますが、明治の民窯時代のものと推測されています。

所在地:彦根市古沢町

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