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zoom RSS 男たちの経営が女たちを魅了する…花王石鹸のすごさ

<<   作成日時 : 2011/11/14 09:12   >>

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@花王工場見学…

平成23年11月11日(金)神奈川県社会保険労務士会総務委員会研修が花王東京工場見学をテーマに開催された。
約80名の県下各地の社労士が参加。
冷たい雨の一日だったが、案内する職員、見学生ともに熱心且つ和気藹々の雰囲気の中研修は粛々と進められた。

誰もが花王の経営のすごさ、扱う製品のすごさを、日本近代史の1ページに花王の果たした役割のすごさを承知しているからであろう


Aすごさの分析…

T、島崎藤村著「東方の門」と花王創業者長瀬富郎の話


  この未完の大作に「花王石鹸」創業者長瀬富郎が牡丹石鹸の巣山千十郎という名で登場する。
  「儲けさえすれば言いというような人たちとはおよそ行き方を異にする産業人」として期待し、これからの実業は千十郎のような行き方でなければならないと述べ、新しい夜明けを担う新しい人間像を長瀬富郎によって描こうとしていた。

 「こんなに早く子供を作ってしまった、これは夜なべ仕事に候」など長瀬のユニークな実話も作中で採用している。
藤村は新しい時代の新しい人間の可能性を長瀬の上に見ていたのは確かである。
藤村はまた、石鹸を新しい日本を作る生産品の一つであり、時代を象徴する文明史的な意味でも強調している。
石鹸業界…それは一つの夜明け前の世界とも言えた。

城山三郎はその著「男たちの経営」の文頭で、『藤村は「東方の門」の本当の主役として長瀬を大切にしたいといった語り口なのであり、作品の展開はそういう息づかいなのである』と語り、それ程藤村が興味を示した長瀬富郎に当然のことながら興味を持ったと述べている。

U、城山三郎著「おとこたちの経営」 角川文庫 221ページは現存する大企業「花王」の実名実録小説である。

花王石鹸と長瀬一族。
多彩な人材が集まり、同族会社から近代企業に生まれ変わるすさまじい過程:実録ドラマが展開する。
「おとこたちの経営」は高度成長期の真っ只中昭和45年に発表され、角川書店から昭和56年発刊された傑作である。

城山は語る「人間は組織に支配されると同時に組織を作る。
企業に組み込まれた人間を掘り起こし、人間たちの積極的、創造的な面を中心に、人間ドラマの場として企業を捉え直したい」と。

孤立感のあった城山文学がこの作品を境に、急速に広範な読書を獲得する転換期でもあった。
日本にとっても高度成長期と石油危機、挫折と回復…日本産業世界が劇的な体験を経て、成熟感覚を身につける転換期でもあった。

V、長瀬富郎

☆創業

日本橋馬喰町の小物問屋に入店、経営を任されるまでになるが自分の店を持ちたいという夢を捨てることができず、1887年(明治20年)23歳で独立を果たし「長瀬商店」(のちの花王)を馬喰町2丁目に創業する。
長瀬商店は洋小物問屋・小売店であり扱う商品の中に石鹸があった。

外国製の石鹸に比べ国産の石鹸の品質がおとっていることに不満を持ち、石鹸の自社製造を決意する。そんな折、知り合いの石鹸職人村田亀太郎が独立したのを聞きつけ村田を口説き落とし二人で石鹸製造の道を歩み始める。
1890年(明治23年)満足できる品質の石鹸製造に成功。最初「香王石鹸」と名付け商標登録まで行ったが発売直前に「花王接見」に名称変更を行い花王石鹸の商標登録もする。

狙いは当たった。桐箱入り花王石鹸は贈答用に重宝されたのだ。
石鹸は今に至るまで中元・歳暮の主役のひとつとなっている。
むろん、その成功は販路拡大と宣伝に力を注いだ結果である。
当時は、上方と関東とは独立した商圏になっていたが、富郎は関東に特約店を広げるだけでなく、大阪にも特約店を置いた。
この大阪の特約店が5年後に花王石鹸の44%を扱うまでに発展するのである。
また、富郎は、100ダース以上1ダース0.5銭、1,000ダース以上同1.5銭などと割り戻し(ボリューム・ディスカウント)を採用した。景品販売にも着目し、風呂敷、うちわなどを配布している。

宣伝については、アメリカ人ジャーナリストに欧米の化粧品宣伝の実情を聞き、全国の新聞に積極的に広告を掲載した。広告コピーからレイアウトまですべて富郎がこなしたことはいうまでもない。
鉄道沿線に設置する野立看板の広告利用も花王が最初とされる。
鉄道網が全国に広がると、東海道線を皮切りに、関東沿線、東北本線、信越線へと次々に野立看板を立てていった。劇場のどん帳、広告塔、電柱広告、浴場への商品名入り温度計配布なども精力的に行っている。
また、瀬戸の指導のもと、歯磨粉、ろうそく、練歯磨などの製造販売も開始した。さらに、化粧水『二八水』を明治33年に発売した。これが花王化粧品の嚆矢ということになろう。

☆石鹸と清潔な国民性

石鹸は、織豊時代に「しゃぼん」の名で日本に入ってきたものですが、庶民が手にできるようになったのは明治になってからのことです。

ちなみに信長の時代にやってきたスペイン人たちが、なによりも驚いたのが、日本人の清潔さだったそうです。

それまで訪れたアジアの国々ともまったく違う。
人も町も清潔であることに驚いた。

この時代、イザベラ女王といえば、コロンブスの新大陸発見のスポンサーとなった女王として有名ですが、この女王の自慢が、生涯に二度、風呂に入ったということだったそうです。

生涯で二度です。

一回目が生まれたとき。
二度目は、結婚するとき。

イギリス女王、のエリザベス一世は、無敵艦隊でスペインを凌いぎ、世界一の文化の高さを誇った人ですが、この女王の自慢が、三か月に一度、風呂に入るとこと。

この頃の世界は、「お風呂に入る」ということは、とてつもなく洗練された行いであり、贅沢だったのです。

ところが、日本に来てみたら、一般庶民に毎日の入浴は、あたりまえ。

このことが、スペイン、ポルトガル人をして、この国には敵わないと思わせた一因だったとか。

ついでにいうと、韓国には近代になって日本が統治するまで風呂も入浴の習慣もありません。

話が脱線しましたが、とにかく日本人はお風呂が大好き。

もっとも、江戸時代までは石鹸は使われず、もっぱらヘチマなどでの垢すりが中心だったようです。

ところが、明治時代にはいって鎖国が解かれると、またたく間に石鹸が庶民の間に浸透します。

ただし、輸入モノです。爆発的な人気を得るけれど、値段が高い。

そこで、明治三年には大阪と京都に官営の石鹸工場が建設され、民間でも明治六年に横浜で和製石鹸の製造が始まったけれど、この石鹸の出来が悪い。

化学技術がまだ未熟だったころに加え、原料となるやし油や苛性ソーダ、香料が入手難だったのです。
このため、国産品は洗濯石鹸くらいにしか使えなかった。

長瀬富郎は、ここに眼をつけます。

奉公先の荒物屋「若松屋」を一年あまりで退職すると、郷里に戻って資金を工面し、明治20(1887)年に、馬喰町の裏通りに間口二間(3m60cm)で「長瀬商店」を開き、石鹸と文房具の卸売を始めます。

このとき富郎、24歳。

商売は順調で、馬喰町の升屋旅館の三女なかとも結婚もし、商いは帽子、ゴム製品などにも広がって行き、一年後には表通りに店を構えるまでに発展します。

富郎のおもしろいのは、この時すでに複式簿記による詳細な損益計算書も発行していること。とかく信用はこうした金銭に対するまじめさが必要です。

長瀬商店は、おもにアメリカ製の石鹸を扱っていたのだけれど、これがなかなか入手できない。
圧倒的な需要過多だったのです。
仕入れることさえできれば右から左に売れるけれど、肝心の品物がない。

一方で国産石鹸は粗悪で、納品しても苦情がきて返品されてしまう。
当時は返品は問屋が、かぶったのです。

富郎は考えます。

良質な石鹸を作ることができれば、それこそ右から左に売れるのではないか。

同じタイミングで、仕入先のメーカーから、石鹸職人の村田亀太郎が退職したのを機に、富郎は、亀太郎に、長瀬商店専属でやってみないかと話をもちかけます。

そして、知人の薬剤師、瀬戸末吉に分析の基礎を学び、原料や香料を調合に没頭した。

一年半の後、遂に製品が完成します。

絶対の自信作です。

知人の高峰壌吉博士(ジアスターゼを発見した世界的化学者)に分析結果も書いてもらった。


製品はろう紙で包み、分析結果の紙を添え、さらに自分で描いた「花王」月のマークの図案を印刷した上質紙で、ひとつひとつの石鹸を丁寧に巻き、これを桐箱に三個を納めた。

値段は、一箱35銭です。

アメリカ製の高級石鹸ですら、1ダース28銭だった。
国産で、しかも三個で35銭というのは、飛びぬけて高価です。

富郎は、自信作の石鹸を、高級舶来品のようなブランド商品として売り出そうとしたのです。

狙いは当たります。

桐箱入り花王石鹸が、贈答用に重宝されたのです。

石鹸は今でもお中元やお歳暮の主役だけれど、どうやらその週間の原点は、明治20年の富郎の35銭石鹸からきているらしい。


☆広告宣伝の妙

富郎はさらに、高級ブランド品販売に際しての景品にも着目します。
石鹸を売るために、風呂敷、うちわなどを配布した。

さらに宣伝には、全国の新聞に積極的に広告を掲載します。

鉄道沿線にある野立看板による広告も、花王が最初です。

鉄道網が全国に広がり、野立看板は、東海道線を皮切りに、関東沿線、東北本線、信越線へと次々に広がります。

また、劇場のどん帳、広告塔、電柱広告、浴場への商品名入り温度計配布などもした。

石鹸の大当たりから、薬剤師の瀬戸の指導のもとで、歯磨粉、ろうそく、練歯磨などの製造販売も開始する。

ちなみに富郎は、明治の末期(明治41年)には、広告に、稀代の美人芸妓とされた萬龍を起用しています。


☆志
人ハ幸運ナラザレバ、非常ノ立身ハ至難ト知ルベシ
運ハ即チ天祐ナリ
天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ

〜天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ
月のマークで知られる花王石鹸。
明治半ば、洋小間物商を営んでいた初代長瀬富郎は、粗悪な石鹸の蔓延を憂えて、自ら品質本位の化粧石鹸製造に乗り出した。
『天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ』
初代長瀬富郎の真っ直ぐな志は、花王110年の歴史を貫いて変わることはない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

成功というのは、たまたまの偶然にすぎない。

それはまさに、天の助けによる思いがけない幸運である。

その幸運を得ようとするなら、常に道を正して待ちなさい。


けだし名言だと思います。

花王の創業者、長瀬富郎ほどの幸運に見舞われた人生の大成功者ですら、自らの成功を「天祐」と言っている。

「天祐」とは、天の助けによる思いがけない幸運です。

そして天の助けは、正しい道を歩む者にしか、結果として微笑まない。

世界がスペイン、ポルトガルによって植民地化され征服された時代に、なぜか日本は世界で唯一、植民地化をまぬがれました。

それはもしかしたら、普通の庶民がお風呂にはいれる生活が、日本にあったこと、それを護ろうとする信長という強大な軍事力があったことによるのかもしれません。

花王の成功も、多くの人々がお風呂で垢を落としてさっぱりできること。
主婦の洗濯が、すこしでも楽になることが、まさに「天祐」を招いたのかもしれません。

もしかすると「正しい道」というのは、多くの庶民を護り、幸せにする道をいうのかもしれません。

「天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ」

大切にしたい言葉なのではないかと思います。


♂女性を虜に

☆顔も洗える石鹸花王…
    ¥安かろう悪かろうの時代に、1化学、デザイン、職人の技術を導入
個12銭で楊貴妃も好んだボタン色の高級感覚の営業戦略
☆新聞広告や鉄道野だけ広告を国内企業で初めて採用する積極的広告宣伝戦略
☆官庁等に納入注力し御用立ちつブランド確立
☆2代目富郎による「先代通り」から大胆な脱皮…社会の要求に応えれる企業に…
 純粋度99、4%、正価10銭の大衆価格導入新戦略   
☆フェザーシャンプは髪洗いの代名詞に…髪洗の習慣を定着させる…80%のシェアー
☆家庭用粉末中性洗剤エキセリン
☆合成洗剤花王ワンダフル…電気洗濯機の販売とドッキング 互いの効果を高めた


おとこたちの経営あとがきより


登場する人物はいずれも企業活動を通して自己実現に貪欲であった。
企業という組織はそういう自己実現の情熱を吸収して成長し、個人の生涯を越えて生き延びていく。
人びとは縁あって登った舞台でいっときの劇を演じて消えて行く。
城山氏はその無言劇に言葉を与えていく。
産業戦士たちは氏の作品に自分達の言葉を発見する。
この小説は企業の青春期を描く。正に青春小説だ。
企業は人間ドラマの世界である。おとこたちのドラマの場である。

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