盤寿の奇跡…奇跡の不沈艦゛響゛に乗員した男の奇跡の物語

盤寿…
span>盤寿(ばんじゅ)とは、数え年の81歳のこと。

将棋盤の桝目が「九」×「九」=「八十一」になることから名づけられた。
語源が将棋に由来することもあり、将棋関連で81年という年数は特に大きく祝われる。

盤寿を迎えることのできた棋士一覧
引退棋士(2009年7月1日現在 存命)
加藤博二、丸田祐三、大村和久、西本馨、浅沼一
物故棋士
金易二郎、金子金五郎、木村義雄、坂口允彦、板谷四郎、小堀清一、加藤治郎、萩原淳、吉田六彦、佐藤豊、高柳敏夫、原田泰夫、廣津久雄、五十嵐豊一
木村義雄は盤寿の将棋の日に死去している。

また、現役で盤寿を迎えた棋士は近代将棋史上ではまだ存在しない。(2009年現在の現役最年長記録は丸田祐三の77歳)。
近代将棋以前では十二世名人の小野五平が盤寿の時点で名人という史上ただ一人の記録を持っている(ただし当時はいわゆる襲名制で、一度名人になれば死ぬまで名人だった)。

大正5年昭和元年生まれは今年81歳

ねんきん特別便アドバイザー勤務で81歳の男性から相談があり対応した。
年金は寿命の長短が勝負と話したところ、得たりばかり逆にお話があった。
奇跡の81年である。

制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄



不沈艦゛響゛に乗員勤

その方は太平洋戦争で不沈艦と言われた響に乗船勤務されていた。

響艦暦…響の奇跡…驚くべき不沈艦である…

舞鶴工作部で1930年2月21日起工され、1933年3月31日竣工し、第6駆逐隊に編入された。
1934年11月から「暁」「雷」「電」と共に第6駆逐隊を編成し、1940年11月、第1艦隊第1水雷戦隊に編入され太平洋戦争を迎えた。

1941年12月からカムラン湾方面哨戒、リンガエン湾上陸作戦支援に従事。
1942年2月からはジャワ作戦船団護衛、バタビヤ沖海戦、比島攻略作戦に参加。
5月に北方部隊所属となり、キスカ島占領作戦中の6月12日、キスカ湾において米海軍機PBYからの至近弾により艦首に損害を受け、僚艦「暁」の護衛を受けて大湊に帰投した。

1943年2月、「大鷹」を護衛し横須賀・トラック間を4往復した。
4月に第1艦隊第11水雷戦隊に編入、内海西部で訓練に従事し、5月に再び北方部隊に加わり千島方面の対潜掃蕩に従事した。

7月、第1次、第2次キスカ島撤退作戦に参加。

8月には、上海・ラバウル間のT2号輸送作戦に参加。12月には陸軍部隊をトラックからクサイ島まで輸送し、12月20日に連合艦隊付属となり、さらに空母「飛鷹」「龍鳳」を呉まで護衛した。
1944年1月から3月まで空母「海鷹」「千代田」などの護衛にあたった。
4月10日、呉に入港し修理を受け、5月3日に呉を出港しマニラまで船団護衛に従事。

5月10日、第1機動艦隊補給部隊に編入され、6月、マリアナ沖海戦に参加、速吸船団を護衛し、7月17日、呉に入港した。
8月から内地・台湾間の船団護衛に従事。

9月6日、高雄からマニラへの船団護衛中、高雄南方で米潜の雷撃を受け艦首に損傷を受けた。
戦死者は10名で、馬公、横須賀で修理を実施。
1945年1月25日、第2艦隊第2水雷戦隊第7駆逐隊に編入。
3月29日、周防灘で触雷し航行不能となり、「初霜」に曳航され呉に帰投し、呉工廠で修理を行った。

第1一の奇跡…戦艦大和と響の奇跡span>

この後、第2水雷戦隊は戦艦大和の水上特攻に出撃、壊滅している。
修理中でなければ本艦も参加していたはずであった。
81歳のかの方はこのとき響に乗員勤務19歳。

修理完成後、響は5月に舞鶴へ、6月に新潟へ回航された。

第2の奇跡…呉軍港大空襲と響の奇跡

呉軍港空襲(くれぐんこうくうしゅう)は、1945年の3月19日 7月24日、7月28日の三度に渡って行われたアメリカ海軍を中心とした連合国軍空母機動部隊航空隊による呉軍港および瀬戸内海西部への空襲作戦。
なお、この空襲とは別に、呉市街地は7月1日深夜から2日未明にかけて戦略爆撃を受けている。

3月19日はアメリカ海軍のマーク・ミッチャー提督の第58機動部隊約350機、7月両日はウィリアム・ハルゼー提督率いる第38機動部隊約950機による空襲。
日本側は高角砲や艦艇の対空射撃により激しく抵抗を行ったがほぼ全ての艦が着底、航行不能などの被害を受けた。

3月19日の第58機動部隊に対しては松山基地の三四三航空隊が呉を攻撃中のアメリカ海軍艦載機を迎撃し58機(アメリカ海軍側の記録では14機)を撃墜した。
更に、銀河が高知県沖に接近していたアメリカ海軍空母フランクリンを攻撃し大破させ、神風特攻により護衛空母及び駆逐艦1隻に損傷を与えた。

7月24日の空襲では三四三航空隊が再び迎撃に向かい16機を撃墜。
一連の戦いで日本の乗組員約780人が戦死、約2000人が戦傷した。上記のように連合国軍にも大きな損失を与えたものの、工廠施設も破壊され呉軍港は母港としての機能を完全に失った。

響はいずれの呉空襲の際も港を離れ空襲には遭遇しなかった。
81歳氏は響とともに新潟へ。


しかし新潟も歴史上空前絶後の大悲劇が待ち受けていたはずだったが…。

7月10日、第1海上護衛艦隊第105戦隊に編入され、日本海での船団護衛に従事し、8月15日にも米軍機との戦闘を行った。

第3の奇跡…響新潟寄港と原子爆弾の奇跡…span>

米軍最高機密計画で原子爆弾投下命令書が交付されたのは7月25日のことである。
正に原子爆弾が投下される直前のことであった。

こうして、最終的に原子爆弾投下候補都市は、広島
新潟小倉、長崎の4都市に決定された。
原爆投下候補地はB29空襲がはずされたのは一体何だったのだろうか?
それは未だかつて無い原子爆弾の実戦投入に際して、その威力を正確に把握するには通常兵器による被害があっては本当の破壊力が検証出来ないからである。
残酷な言い方になるが、生きた実験台が必要だったのだ。それも無傷な。

新潟が原子爆弾投下候補からはずされた。
 最後まで残った4都市のうち、新潟は工業密集地域と小工場と住宅が混在した地域とが離れているという理由から、真っ先に候補から外された


残された3都市の中で広島は極 めて重要な工業目標であり、B29の焼夷攻撃を受けていない都市として京都に次ぐ大都市 であった。

小倉および長崎の近くには捕虜収容所があることが確認されていたが、広島に関してはそれは存在しないと考えられたため、第1目標は広島に決定された(実際には広 島にも捕虜がいたがアメリカは事前にこの情報をつかんでいなかった)。

 小倉と長崎の優先順位を決定するにあたっては長崎市街地の配置および地理的条件(市 街地が東西の山に囲まれ爆風が南北に拡散してしまう)がネックになり、長崎は小倉に次 ぐ第3目標となった。

 目標選定の理由を示す上記の部分は、原爆関連の資料が機密解除されて一般に公開され
た時には削除されていた。
その理由は捕虜収容所の存在を知りながら敢えて原子爆弾を投下したという衝撃的な内容であったからである。
 1971年12月8日になってこの削除部分の機密も解除された。
この文書の余白に誰かが 手書きで付け加えた次のような一文がある。
Sensitive to mothers whose sons were P/O's and never returned.
(捕虜収容所から二度と戻らなかった息子の母親達には刺激的である。)

 長崎の幸町には200名余りのアメリカ人捕虜がいた。
その他にも、イギリス、インドネ
シア、オーストラリア、オランダの捕虜がいたことが判っている。
 小倉の企救町にもアメリカを始めとする連合国の捕虜がいた。
これら2つの捕虜収容所
の存在は目標選定を左右するものではなかった。何故なら、捕虜収容所があるという理由 で目標から除外すれば、日本側は攻撃を避けるために捕虜を盾として重要目標に捕虜収容 所を移すだろうと考えられたからであった。
 
戦争遂行のためならば自国兵士の命をも犠牲にするというアメリカの冷徹な考えを知れば、アメリカが文化財を守るために京都を救ったと云う有りもしない話や姫路城を残すた めに爆撃しなかったと思っている日本人の考えの甘っちょろいことが痛感される。

 ついでに付け加えておくと、日本全土をB29によって焼き尽くしたルメイ、いわば日本 の仇敵とも言える人物に対して1964年12月6日、当時の首相であった佐藤栄作より勲一 等旭日大綬章が贈られた。
その理由は、航空自衛隊の育成に尽力したからという。
太平洋 戦争が終わってから19年、この年月が長いか短いかは人それぞれであろうが、未だ記憶に生々しいはずのかつての憎むべき敵に感謝の意を込めて勲章を授与するという日本人の精 神構造は、世界から見ればどうにも理解し難いものであろう。

 広島に次いで原子爆弾の洗礼を受けたのは、小倉ではなく、それよりも優先順位が低い 長崎であったのは何故だったのだろう。
長崎に原子爆弾が投下された1945年8月9日の前 日、小倉の西に位置する八幡はマリアナ基地の3つの航空団(第58、第73、第313)によ る白昼焼夷空襲を受けている。

 3航空団合わせて221機のB29とそれらを護衛する160機のP47戦闘機は最大努力をもって八幡を焼き払うことが命じられていた。
この八幡空襲こそが小倉と長崎の運命を決定する分岐点であった。
 原子爆弾の投下は目視爆撃法によることが予め決められていた。
レーダーは補助的手段 として使用が認められていたが、目標上空の気象状況によって目視爆撃の機会がない場合、 原子爆弾は投下せずに基地まで持ち帰る手はずであった。
 8月6日の場合、広島上空の天候が悪ければ、小倉か長崎のどちらでもいいから攻撃する ことになっていた。
 
八幡空襲から丸一日経った8月9日午前9時55分、原子爆弾を搭載したB29は小倉上空に 達した。
目標には雲量3/10、若干の「もや」と濃い煙がかかっていた。
攻撃機は第1目標 の小倉(2発目の原子爆弾投下候補都市は小倉と長崎であった。新潟は2都市から離れすぎ
ているために、第3目標にはならなかった。)に対して原子爆弾投下を3回試みるが、いずれの時も「もや」と煙が小倉市街地を覆い隠していたため、目視による爆弾投下の機会は 得られなかった。

 攻撃機より先に飛び立った気象観測機は長崎上空の視界ははっきりしていることを報告 していた。
そこで、小倉への攻撃は中止され、50分後に第2目標を攻撃することになった。

 長崎への接近はレーダーを使用し、最後の30秒間は目視によった。
午前10時58分、2 発目の原子爆弾は長崎へ投下された。
結果的に小倉を救ったことになった「もや」と濃い 煙の正体は、前日の八幡空襲で発生した火災によるものであった。
原子爆弾に関する情報 は最高機密であったため、マリアナの司令部は知らずに八幡を焼き払ってしまい、図らず
も原子爆弾投下を妨害したわけである。

昭和20年8月15日終戦。響の戦後物語

響は、終戦後、武装解除の上で復員輸送に従事し、1947年7月5日、ナホトカ(ソ連側の資料によると大湊)で賠償艦としてソ連に引き渡された。

7月7日にはウラジオストクへ回航され、ソ連海軍太平洋艦隊第5艦隊に編入された
7月22日には、「響」はヴェールヌイ(Верныйヴィェールヌィイ)と改称された。
これは、「真実の、信頼できる」といった意味のロシア語の形容詞である。

1948年7月5日には第一線を退き、練習艦に種別を変更された。
同時に、艦名もデカブリスト(Декабристヂカブリースト)に改められた。
これは、ロシアにおける革命運動の端緒となった12月党の乱の参加者のことである。

その後、デカブリストには他の旧日本艦同様に近代化改修計画が持ち上がったものの、政府の方針変更によりこの計画は中止された。
最終的に、1953年2月20日には老朽化を理由に除籍され、年末までに解体された。

響の奇跡まとめ

旧日本海軍の艦で、武勲艦と呼ばれた艦はいくつかありますが、「響」は何度も大きな被害を受けながら、その度に生還し、最後まで太平洋戦争を戦い抜いたことから「不死鳥」と呼ばれた。
 響は昭和8年に舞鶴工廠で竣工しました。
太平洋戦争の開戦後は、インドネシア方面の作戦に従事した後、昭和17年6月にキスカ攻略作戦に参加します。

 しかし、この作戦で米軍の哨戒飛行艇の爆撃による至近弾を受け、1番砲塔より前部が大破するという被害を受けましたが、無事に帰還し、修理後に戦列に復帰しました。奇跡①

 その後は、主に輸送船団の護衛任務にあたっていました。ところが、昭和19年9月6日、米潜水艦の雷撃を受け、艦橋より前部が折れ曲がり、垂れ下がってしまうという被害を受けてしまいますが、このときも何とか生還し、戦列に復帰しました。奇跡②

 そして、昭和20年には、戦艦大和とともに沖縄突入作戦に参加する予定でしたが、3月29日、周防灘でB29が投下した機雷により、重油タンクをはじめとする基部構造に亀裂が生じるという損傷を受けてしまいます。

 このため沖縄作戦には参加できませんでした奇跡③が、この損傷も克服し、終戦当日も、新潟港でB29の対空戦闘に従事する奇跡④など、最後の最後まで戦い抜いたのでした。

 戦後は、復員船として在留邦人の帰還事業に活躍した後、賠償艦としてソヴィエト連邦に引き渡されました。

81歳氏はこうして響とともに自身も不沈艦の人生を歩んだようだ。
いまなお矍鑠として年金の記録確認で社会保険事務所に出向いて来た。
大和の悲劇にも道ずれとならず、呉軍港大空襲にも遭遇せず、新潟原爆投下は幻に終わり、響は晩年ソ連抑留者帰還船として活躍している。
81歳氏はさすがにこの帰還作戦には参加していないが、お顔に刻まれた男の人生記録に私は圧倒されたのだった。声を絞って、盤寿を更に米寿、卒寿、白寿に向って年金を生かし下さるようお話した。最高のときはこれから来る!と。span>

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

  •  10 やまと  (2)  

    Excerpt:   ブログ小説             夕陽・少年隊               Weblog: ブログ人 racked: 2010-01-13 02:17