池田屋騒動と同じ頃、幕府派遣の欧州使節団は視察も行い、三角山と巨大首塚の観光も楽しんだ

昨年は母校早稲田が125周年だったが、本年、平成20年も色々な記念の年である。
お世話になっている社会保険労務士会では40周年であり、神奈川SR経営労務センターでは設立20周年。2月5日に記念講演会や懇親パーテイも予定されている。


さて、これも家族がお世話になっている東京大学附属病院だが、創立150周年である。
先に本ブログ6月22日発信で、150周年を記念した「赤ひげの小石川養生所再建計画」を紹介したが、今回は医学博物館構想の中でも貴重なコレクションになると言われる三宅医学コレクションを残した西洋医学の三宅家について発信したい


三宅家4代と医学

三宅艮斎(ごんさい)(1817-68)は、安政5年(1858)の江戸神田松枝町の通称お玉ケ池種痘所(現東京大学医学部の起源)の創設に際して、前年8月に大槻俊齎宅へ集まった、当時の有力な蘭方医家の1人である。

 三宅秀(ひいず)(1848-1938)は艮斎の子で、東京大学で最初の博士(医学)・名誉教授となった人物で、文久3年(1863)の遣欧使節の随行者としても知られる。

帰国後は横浜でヘボンに英学、ウェッドルに医学を学び、慶応3年(1867)に金沢藩に仕官し英書翻訳や英学教授に従事する。
明治3年(1870)に大学へ出仕、中助教、大助教、文部少教授となり、明治7年(1874)に東京医学校長心得となる。

明治9年(1876)に渡米し万国医学会の副会長に推された。
帰国後、東京大学医学部教授・医学部長、医科大学教授・医科大学長を歴任、明治21年(1888)に本学最初の医学博士、明治36年(1903)に本学最初の名誉教授となっている。
明治24年(1891)から貴族院議員をつとめ、昭和13年(1938)まで92年間生きた。

三宅 秀 みやけ ひいず1848,11、 江戸本所 生~1938,3,16 東京 没
 医学者・医博
父は蘭方医・三宅艮斉(ゴンサイ・肥前、現長崎県・代々医業・後江戸に出る)。
幼少から高島秋帆の塾に学び、1863年遣欧使節に従い渡仏。
帰国後、横浜でヘボンにつき英語を学び、また当時横浜在住の米国軍医ウォットルの内塾生となって3年間医学を修めた。
1870年大学に出仕。はじめ中助教。翌年大助教、爾後文省教授。東京医学校長心得、1876年フィラデルフィア市万国医学会に参列。
その副会長を勤め、帰国後は東大医学部教授兼医科大学長、病理学、診断学、法医学、医史学を講じ、我国医育制度の基礎を作った。
1885年私費で渡欧して、さらに医学を研修。帰国後1888年我国最初の医博、1891年貴族院議員、東大最初の名誉教授。学問の面では病理学、医史学、裁判医学、衛生行政、理化学に造詣が深く、当時の学界の指導者だった。
[著書]「病理総論」/「病理各論」/「治療通論」/「病理剖観示要」/


日本で最初の医学博士

徳川時代の末にオランダ医学が我国に到来し、多くの新進気鋭の士が学んだ。
その後イギリス医学が導入されたが、新興国ドイツ医学の価値を認めてその導入企画がたてられドイツ医学が我医学界を風靡するに至った。
この間オランダ医学やイギリス医学よりドイツ医学に転向する者が続出した。三宅先生もそのお一人で、先生ご自身も転向され、又学部長を勤められていた東京大学医学部も同時に転換に成功できたのは先生の学問的根源にある。

 安政5年、先生が11歳の時漢籍、オランダ語を主に学び、13歳で高島秋帆塾に入門、英語・及び算術を修め、その後オランダ語・英語或いは翻訳書で数学・物理化学・歴史・薬学・解剖・内科等の諸学を修め、文久3年フランスへ1年余り留学。

元治元年帰国、横浜で米医・へボンに師事し数学・物理化学を修めた。また英医ウール診療所にて臨床診断を学び、米国海軍軍医ウエッドルに3年間師事、慶応3年金沢壮猶館翻訳方を命ぜられ仕官した。
明治3年大学出仕を命ぜられ物理化学の講義を分担された。これが大学との最初の関わりであった。

先生は僅か23歳で大学教授となり、明治7年大学が廃止され、大学東校が独立して東京医学校となると教授。
明治9年校長。明治10年東京開成学校と東京医学校とを併せて東京大学を設置、東京医学校を改めて東京大学医学部となると先生は医学部教授に。

明治14年医学部長兼任、明治19年帝国大学設置となると帝国大学医学部教授に就任。
医史及び裁判医学を分担し、医科大学長に着任。明治36年昇進の路を退け退官された。

明治9年米国フィラデルフィアで開催の万国医学会に参列して副会長に列挙されたことは先生の名声がつとに海外にも馳せていることは承知の通りである。著書には医学書数種があるが、その学問の最高権威と言われるている。

先生は天性の温厚・平易安泰、日頃から平生心を修行され奇をてらうことなく精神修養をなさったもので、今年九十歳の幸寿にまで昇られた。先生は今でも読書を好み、耳目聡明、なお健康は倍旧し、百寿を待つばかりである。煕朝<キチョウ=江戸漢詩=約千5百名、1万5千首の漢詩を収める>に詳しく、学界の至宝というべき存在である。学士院には五十有余年尽力され現在の会員をまとめて子弟の業績をあげた。引退後も先生の学徳を慕い敬う者が長寿の賀宴を設けて杯を挙げ讃えることとなった。


食育と三宅秀博士と味の素

東京大学の母体のひとつである東京医学校の三宅秀(ひいず)校長は、「佳味は食物の消化を促進する」と唱えた方でした。

池田菊苗博士は三宅校長の説に心服し、「佳良にして廉価なる調味料を造りだし滋養に富める粗食を美味ならしむることが、国民の栄養不足を矯救せしむる」と考え研究した結果、アミノ酸の一つであるグルタミン酸が昆布のうま味成分であることを突き止めました(1908年)。

この発明がもとになって世界初の調味料「味の素」が生まれました。
長い間、味覚は舌で感じるものと考えられてきました。
さらに舌の先端部分で甘みを、舌の左右で塩辛さを、少し奥の左右で酸っぱさを、喉に近い一番奥でにがみを感じていることも分かっていました。

ところが最近の研究で、胃でも腸でも「うま味」や「甘み」を感じているらしいことが分かってきたそうです。100年以上も前に提唱された「おいしいものは消化を助ける」という、三宅秀博士の論理が証明されつつあります。

  三宅鑛一1876-1954(精神科学)は秀の子、仁1908-1969(原爆症と肝臓の病理学研究)は秀の孫で、ともに医学部名誉教授となった。

三宅コレクション

三宅コレクションは艮斎―秀―鑛一―仁の4代にわたるもので、資料の形態・内容とも多岐にわたっている。
 幕末期の写真類は貴重なものの1つである。
中浜(ジョン)万次郎撮影と伝える三宅艮斎の写真、ナダールが撮影した三宅秀らの写真などがある。
明治初期の旧東京医学校本館(現小石川分館)の写真もある。
文久3年パリで医療用電気器など購入したものが残される。

幕府が派遣した欧州視察団:三宅はドイツ医学を学ぶ


文久3年(1863)12月、徳川幕府の使節団34人がヨーロッパに出発した。
欧米諸国との通商が開始されてから5年、物価の高騰と攘夷運動により国内が大きく混乱した時期である。
幕府は開港した横浜を再び閉ざす交渉団として彼らをパリに派遣したのである。
そんなことが実現できるわけもなく、要は朝廷と攘夷派にむけたポーズだったのだが。

代表は池田長発(ながおき) という26歳の幕臣。
この人物はもともと攘夷思想の持ち主だったが、パリ滞在中に彼我の国力の差を痛感し、開国派に転じている。
フランス側と会談をすすめるうちに、さらに日本に不利な通商条約を結ばされ(ひどい話だ) 精神を病んだという。大変な秀才で、生真面目・繊細な人物だったらしい。

エジプトでピラミッドやスフインクスを見学


1863年、文久3年、使節団の43人の武士たちは、パリからエジプトにたちよりピラミッドや スフィンクスを見た。
『写楽』 1981年2月号には、この遣欧使節団のメンバーがフランスの写真館で撮った顔写真が掲載されている。これがみないい顔してるんですね。羽織袴ですげの傘でスフィンクスと一緒に収まっている。
綱淵謙錠の遺作、『乱』 には、使節団の行動がかなり詳しく描かれている。
新撰組が池田屋を襲撃する4ヶ月前だった。

三角山と巨大首塚
三宅記

よくわからないので絵日記にしてみた。待望の三角山にいく。 7人が観光の不参加。
不参加の理由は、仕事できたのに観光とは何事だ・・
巨大首塚(スフィンクスのこと)を見る、山内が首にのぼり、私もついていったが
ずりおちそうになり、写真をとる時は落ちないように、必死にしがみついていた・・・
池田遣欧使節団については、内藤遂『幕末ロシア留学記』に、参加した横山敬一の話が記されていますので参考になります。山内六三郎のことが詳しく記されています。


今日の民法  自由国民社発行「口語民法」に学ぶ

第2章  人(自然人)


第17条「補助人の同意を要する旨の審判等」


家庭裁判所は、第15条第1項本文に規定する者又は補助人若しくは補助監督人の請求により、被補助人が特定の法律行為をするにはその補助人の同意を得なければならない旨の審判をすることができる。
ただし、その審判によりその同意を得なければならないものとすることができる行為は、第13条第1項に規定する行為の一部に限る。
2 本人以外の者の請求により前項の審判をするには、本人の同意がなければならない。
3 補助人の同意を得なければならない行為について、補助人が被補助人の利害を害する恐れがないにもかかわらず同意をしないときは、家庭裁判所は、被補助人の請求により、補助人の同意の代わる許可を与えることができる。
4 補助人の同意を得なければならない行為であって、その同意又はこれに代わる許可を得ないでしたものは、取り消すことができる。


解説
補助開始の際に定められる補助人の同意を必要とする行為は限定的なものである。
そこで、その後範囲を広げる必要が生じた場合には、補助開始の審判申し立て権者の請求により、その旨の審判をすることができるとした。

今日の労働基準法 労務行政発行「労働基準法:労働法コンメンタール」に学ぶ

第17条「前借金相殺の禁止」


使用者は、前借金その他の労働することを条件とした前貸の債権と賃金を相殺してはならない。

解説
金銭関係と労働関係は完全に分離をすることにより、身分的拘束の発生を防止する目的である。諸外国にも本条のような立法はない。前借りそのものは禁止されていない。相殺が禁止の対象である。

本条に違反した場合、6カ月以下の懲役又は30万円以下の罰金に処せられる。
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