無一物の男が医で天下を盗った…施薬院全宗の物語.火坂雅志を読む⑤

火坂雅志を読む⑤
無一物の男が医で天下を盗った…施薬院全宗の物語

小学館発行  火坂雅志著 「全宗」  542ページ

施薬院

奈良時代、光明皇后が病気で苦しむ者たちのために、無料で医薬を施したとされるのが施薬院である。皇后は同時に貧困にあえぐ孤児、老人などを救う非田院も創設している。
この純粋に弱者救済施設は平安時代半ばまで続いた。700年後、医道の基本は金儲けを度外視して人の命を救うことにある。
そして豊臣政権の安定に寄与しよう。秀吉の最高位参謀全宗の冷徹な計算でもあった。全宗自身は施薬院代なる官職を作り自ら就任した。天正13年7月秀吉は関白に叙任された。

午前6時から日没まで開院。重病者には往診さえ行った。無償の治療は大評判となり、200日間で延べ5万人が治療を受けた。秀吉の初期の軍事的参謀は竹中半兵衛、黒田官兵衛の二兵衛、そして後半治世参謀は施薬院全宗、千利休、安国寺の3名である。

大阪城侍医システム

全宗は大阪城三ノ丸に住み、侍医、奏者として近侍し、当代の名医9人が侍医となっているシステムを束ねた。治療は一人で責任を持ち、回復しなければ交代させた。完治させたものには多大な報酬が与えられた。

李朱医学


仏教医学全盛の戦国の頃、李朱医学という明から伝わる最先端の合理的な臨床医学たる李朱医学を学んだ曲直瀬道三は39歳で都に上がり、医者の看板を掲げた。数年の後足利義輝の治療を行い完治させ名声を上げる。その弟子800人なる一大勢力を築く。戦国医学界の革命とも言われる。木下藤吉郎と初対面した全宗は、この曲直瀬道三の弟子入りを藤吉郎から勧められた。この男とはともに仕事が出来る。昇りつめていく人間独特の光を感じた。「今以上の医術を磨け、そして私を助けてくれ」

足利学校

足利氏創設の本邦第一の総合学術センター。天文学、医学、兵学、易学などここで学んだ者は大名に重用された。弟子入りした全宗に曲直瀬道三は、「医者はいかなる貴人、武将に警戒心なく近づくことが出来る、この教養と身分はうまく生かさぬ手はない」と説いた。

秀吉からの密命①

織田家の仇敵である戦国最高の機動軍団を擁する武田信玄は軍事だけでなく経済力も蓄え、上洛を狙っている。信長は必死に信玄の機嫌をとるべく贈り物を示しているが相手にされない、どうやら決戦は避けられそうもない。そこでじゃ、この信玄の動向を探れ。

増富温泉

信玄は諸国からすぐれた医師を募ってきた。合戦の傷の治療にも医師は絶対必要である。最新の医学を学んだものといえば必ず興味をお持ちなはず…全宗は増富温泉でついに信玄に呼ばれる。信玄の周りの医師団は局方医学で固められている。効き目の早い峻剤で一気に治療効果を上げる。当然副作用も大きく体が強い薬に絶えず健康が損なわれる恐れもある。これに対し李朱医学は穏やかな効能の薬を用い、人の持っている自然治癒力を高め、病気を根元から断つ。信玄52歳。目の前にいる信長を恐れさす男は異常に痩せ、血色も悪かった。しかし眼光は炯炯としている。不動明王まさしく。

信玄

「全宗とやら、わしはあと5年いや3年もたぬか。わしの命を永らえて欲しい、我が病はどうだ」「拝察したところ隔病かと」全宗には信玄が胃がんと分かった。あと半年か。
報告を受けた秀吉は信長に伝えた。そして全宗は秀吉に信玄の病を武田と同盟を結ぶ諸大名に流すことを提案する。秀吉は竹中半兵衛もそう申していたとあらためて全宗を見た。
天正元年、信玄は執念で上洛を開始した。2万5千の本隊は全宗の調査報告通り信濃路から怒涛のようにと遠江国に入った。破竹の勢い。が、全宗のこれまた報告通りの結果か、三河までで進攻が止んだ。全軍が引き上げたのだ。信長は最大の危機を脱した。

長浜城

琵琶湖。近江長浜。秀吉の始めての築城。12万石城主になった。全宗も天守閣から見下ろしていた。信玄亡き後、同盟諸国をことごとく陥落させた褒章である。羽柴筑前守となっていた。
要塞城から時代は商工業繁栄の平城に移っていた。今浜から長く繁栄するよう長浜と町の名前も変えた。民に力なくば、これからの戦いは勝てない。竹中半兵衛は言った。「秀吉様の侍医兼相談役であるが、京に上り、諸大名の診立てをしながら動静を探って欲しい」
秀吉家臣千石以上は18人、家来が足らない、新たに700名を召抱えた。個性に富む雑多な寄り合い世帯。そして天正10年6月2日、本能寺の変が起こった。

秀吉からの密命②

密命を秀吉から授かった全宗は単騎備中から一足早く京に向かった。
明智光秀に秀吉が弔い合戦宣戦布告する命だった。
秀吉の天下取りへ、全宗の天下取りへ、、勝負と時だった…


医で天下を盗る。夢はかなった。秀吉という異能の人と巡りあい、夢の楼閣を築いた。
良い夢だった。慶長3年8月秀吉は数奇な人生の幕を終えた。そしてもう一人。
医で身を立て、波乱に満ちた男が人生を終えたのは翌年慶長4年12月10日。
全宗70歳だった。
彼は実在の人物である。戦国の世に彗星のように現れ、野太く生きた。
史上に残る権力者に取り入る怪医は多い。彼もその一人だったのだろう。熱海の美術館に彼の画像が残っている。容貌は端正にして透徹した眼差し、およそ戦国に生き抜く人とは見えないという。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック