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zoom RSS それも平塚で一局  木谷一家と平塚と朝日記者の盤縁

<<   作成日時 : 2017/03/13 05:53   >>

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水耀社発行 内藤由起子著「それも一局」239手(ページ)

1、木谷門下塾頭 大竹英雄

小学校3年で平塚に来た。
昭和26年12月。
北九州から電車で20時間。
木谷美晴はクリスマスプレゼントと思った。

この頃既に大竹少年は「人前ではきちんと遊び、勉強は隠れてするものだ。
メリハリを作って生活していればいい人に出会える」人生哲学を確立していた。
集中力が群を抜く恐るべき早熟小学生だった。

その大竹が語る。
木谷先生の大きさ=人には一生懸命忠実に努力する能力が備わっている、人は皆それぞれ社会から必要とされている。一億総先生、相手が素晴らしければすばらしいほどこちらも負けないように努力する。
限りない頂上目指し人間を磨く、囲碁を通してそういう育て方をしていただきました。
何百万年たってももう現れないような稀有のお二人(木谷先生とお母さん)、そんなすごいところに入門出来、自分は幸せ過ぎています。
大竹は今や木谷門下塾頭から日本囲碁界の塾頭として活躍中だ。


2、木谷の宿願果した若き内弟子石田芳夫

昭和32年囲碁を覚えてまだ1年足らず、9歳の石田は木谷に誘われ平塚に来た。
2年後昭和34年には加藤正夫も木谷道場に入ってきた。

碁は教わって覚えるものでない、大勢いた方がお互いに強くなる…それが木谷の考えだった。
内弟子を取っていたのは木谷道場しかなく、他は通いだった。
内弟子は朝から晩まで碁漬けだったから強くなって当たり前と石田は思ったという。

木谷がどうしても欲しくても手に出来なかったビックタイトルが本因坊。
昭和46年石田は史上最年少22歳で本因坊を獲得、木谷の宿願を門下生で最初に果たしそのまま5連覇を成し遂げた。
その2年後には名人位も獲得した。

昭和47年の本因坊初防衛戦、必死で挑戦者林海峰と戦い4勝3敗で勝って石田は独立を許された。
道場を出る石田を美晴夫人は見えなくなるまで見送ってくれた。
そして昭和50年12月19日、石田と大竹は木谷危篤の知らせを受け平塚に向った。
弟子達はほぼ全員が集まり木谷を看取った。

3、趙治勲 6歳で海を渡り平塚へ来たこちらも怪童

昭和37年8月1日わずか6歳で韓国から渡来し木谷道場に入門。
翌日、産経ホールでの公開碁で林海峰と5子で対局。
14石勝ち喝采を浴びた。

10歳でプロになる目標を立て実際11歳で入段を果たした。
四谷道場では小林と同室、のち趙小林時代を築く永遠のライバルが枕を並べた。
かれらは夏は平塚で過ごし病気の木谷を看ながら碁では自分で考え勉強し切磋琢磨した。
昭和58年棋聖、名人、本因坊三大タイトル独占。
昭和62年7大タイトル独占。いずれも史上初の快挙。

趙は病で伏す木谷のためにベットを購入するなど物心両面から支えた。
木谷から受けた恩を自分も弟子を育てることで返そうと決意した。
自宅敷地内に弟子たちの寮を作り修行の場を提供した。木谷の思い、囲碁の心をつないでいる。


4、武宮正樹は万能…だから宇宙流が生れた。

新小岩育ち、8歳で碁に出会い、浅草橋の碁会所に通った。
10歳で田中三七一に師事、13歳でプロ合格
中学3年の時、田中の立っての願いで木谷は武宮を内弟子とした。

木谷が病気で倒れると梶原武雄が代わって指南役となった。
梶原の指導に対しても他の内弟子と違って平気で自分の意見を述べる。

3人の師匠に恵まれ、、それぞれの講評を聞き、内弟子同士の朝から晩までの碁詰め。
皆と一緒だからやれた。勉強も人間関係も…。
万能だった。麻雀、将棋、ゲーム、ダンス何でもこなしトップクラスになる。
囲碁の大模様、宇宙流は変わらず、趣味は今ダンスに集中。



5、小林光一と小林禮子と張泉美と心澄

光一
旭川出身。長男だけど小学校卒業後上京を許してもらった。
木谷56歳。2回目の脳溢血で倒れた。木谷は現役はもう無理、だけど内弟子は取ろうと考えた。

それで最後の内弟子と言われた小林、20人以上の内弟子との四谷での共同生活が始まる。
美晴の説教の最後の切り札は「国に帰す」だった。これは怖かった。
道場ではほとんど内弟子同士が打って切磋琢磨した。
気が抜けず負けていい碁がない経験は以後の成長に役に立った。
内弟子時代を小林は黄金時代と言う。そして木谷の娘禮子と結婚した。

禮子
木谷の8人の子で碁の道を歩んだのは禮子一人だった。
昭和14年12月23日、禮子誕生の日は木谷と呉清源10番碁2局目の日でもあった。
昭和囲碁史に残る名勝負の一番を木谷はわが子が誕生すると延期を申し出る。主催の読売新聞は快諾。

女流棋士第一人者になる。
小林光一18歳からプロポーズされ結婚。
美晴は結婚したい人がいるという禮子に更に相手は小林と聞き絶句した。
禮子が13歳も年上。
木谷夫妻はこの話を許さなかった。
18歳の小林は修行中の身。
強烈に反対した。
親を見殺しにするか。
勝手なことをする。
親のことなど考えてないのだ。
小林は退かなかった。
3年間の苦闘。
木谷を説得したのは子供たちだった。
昭和49年ついに二人は結婚。
禮子34歳、小林21歳。

後の木谷は反対したのは謝りだったと反省している。
小林も禮子もその後立派に成長し、大活躍している。
泉美と太平、二人の子供を育てる。
平成8年 癌になり56歳の生涯を閉じた。
碁は5代続けたいが彼女のよく言っていた言葉だ。
泉美はその通りタイトルも10を越えるなど超1流の女流棋士となっている。
禮子は棋道家を目指していたのだ。
囲碁は世界平和に繋がると…

泉美は棋士の張羽と結婚、子供は心澄という。
禮子が良く色紙に書いた言葉が「澄心」であった。


6、ご縁のはじまり

平塚市立浜岳中学校の校長先生が朝礼で「我が校の卒業生大竹英雄さんが囲碁の日本一の名人になりました」と紹介された。
著者の内藤由起子が同校生徒だった。
内藤氏はその後県立平塚江南高校に入った。
木谷禮子もそうである。

木谷道場は平塚市桃浜町にあった。
内藤氏の家はそこから5分位だった。
本ブログの発信元小生も桃浜町に住み木谷道場からほんの3分位だった。
中学は浜岳、高校は江南だった。

木谷の長女和子さんとは文化行政の仕事を通じて知り合い、今も顔を合わすと声をあげ合う。
内藤さんは朝日新聞の囲碁名人戦観戦記欄を担当する。

私の家は桃浜町の朝日新聞平塚通信局だった、父は朝日の記者だった。
私は平塚市役所文化行政勤務時代、市谷の日本棋院に通い、木谷一門と連携して日本一の500面打ちなど開催し囲碁のまち平塚、湘南平塚囲碁文化振興事業の推進を担当した。

中学生の頃木谷道場内弟子たちと近所の悪がき仲間と近くの羽衣公園でソフトボールの試合をした思い出もある。皆頭を丸くして坊主頭できびきびすばしっこく恐ろしくチームワークが良かったと記憶している。
木谷道場とも、内藤由起子氏とも不思議な縁で結ばれていると感じている。

木谷道場のみんなと内藤さんは湘南平に登ったと書かれている。
181メートルと記載されているがそんなに高くない。
108メートルが正解。
今私は湘南平のふもとに住む。30分足らずのウォーキングで頂上に着く。
自宅には分厚い碁盤もあるが飾ってあるだけなのが残念なことか・
この本に棋譜があるので並べてみよう〇●




当ブログ2007年9月3日、4日、5日では日本一囲碁の町平塚の何故を特集した。
その一部、5日発信分を以下再掲載する。



日本放送出版協会発行 木谷美晴著「木谷道場と70人のこどもたち」を読んで

第1章 怪童丸との運命の出会い

信州地獄谷温泉
昭和4年木谷實は信州湯田中上林温泉山間の地獄谷温泉を訪れた。何回かの訪問後の昭和5年1月雪に埋もれた地獄谷温泉に来て、美晴の両親に向かい「ぜひ娘さんをいただきたい」と頭を下げた。木谷は美晴に向かい「嫌なら嫌とはっきり言ってください。それならあきらめます」「争いのない家庭を作りたい」と言った。父も美晴も同意した。当時木谷實は東京日日新聞の企画で10人抜きを達成するなど気鋭の若手棋士として鳴らし怪童丸とさえ呼ばれる後世恐るべき天才児とも言われていた。

新布石
地獄谷温泉では木谷と呉清源9段が対局し、二人で新布石の研究を行ったことでも知られる。囲碁に因縁ある聖地ともなっている。

第2章 苦難の平塚木谷道場
桃浜町の道場
昭和12年木谷一家は平塚に転居して来た。
木谷は自身が沢山の師や先輩にお世話になって今日がある。自分も弟子を育成したいとの強い意志に美晴も賛成する。
自分の子を育てつつ以後多くの内弟子を育てることとなる。
趙南哲、本田幸子、小山嘉代らが入門し自身の子供と一緒の生活が始まる、昭和20年7月16日平塚大空襲、焼夷弾家屋が焼失してしまい、残った物置での生活を余儀なくされた。戦後の混乱、食糧難…自分の子供たちだけでも大変なのに多くの内弟子をその後も引き取る。

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 桃浜町木谷道場跡地には今マンションが建つ  木谷道場跡の碑

内弟子入門相次ぐ
筒井勝美入門、21年加田克司、26年戸沢昭宣、大竹英雄、31年柴田寛二、32年上村邦夫、石田芳夫、、34年加藤正夫、佐藤昌晴、小林千寿、宮沢吾朗などが続々内弟子入門。道場は本当ににぎやかな家となる。常時10人は寝起きし、多い時は23人も。

ソフトボール
学校に通学し午後帰って来て近所でソフトボールに興ずることもあった。夜は囲碁三昧。
羽衣公園が私の自宅近所で近所仲間とソフトを楽しんでいたが時々道場の連中ともここで試合を行った。今思えば大変な子供たちと遊んでいたことになる。3振なしの攻撃型で強かった思い出ばかりだが。本には山登り、海岸で地引網、相撲、カルタなど子供たちが楽しく入門生活を過ごす工夫をご夫婦で考えられていたことが分かり感激。

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  桃浜町羽衣公園 木谷門下生でなくともすぐホームランが出た

美晴の子育て信条
自分の子供も弟子も全て公平
甘やかさない
好き嫌いなしに何でも食べさせる
けんかはいけない

浜岳中学校
1軒からこんなに大勢の子供を通学させたが学校は極めて好意的だった、温かい雰囲気で受け入れていただくとの記載に自分の母校でもあり大変うれしく感じた。開放的な学校だった。

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   大竹、加藤、石田など 後の超一流棋士が学んだ平塚市立浜岳中学校

第3章 四谷道場と花開く才能

昭和36年東京四谷に転居。37年趙治勲が6歳で入門。生まれてからまるまる6年間碁をやってきたとのあいさつ。韓国からの入門、美晴オモニになる。
武宮正樹、小林光一(後に木谷一家の次女禮子と結婚)小林覚、小川誠子など入門。

44年間争いのない家庭どころか70人の子どもを育てた家庭を作った。
怪我や病気に当たるなら、美晴はためらいなく自分の子供を差し出したろうと長女和子と長男健一は今も信じている。70人の子育ては苦労でなく楽しくてたまらなかった母親がいたのである。この本は木谷美晴さんの長女和子さんから頂いた。和子さんは平塚フィルハーモニーを率いて練習場などご苦労していた。文化振興の立場から私ども文化行政推進室はこの話を聞き強力に練習場確保に奔走した。その後研鑽され今や平塚フィルハーモニー演奏会はいつも満員で市民から親しまれる存在になった。お元気な方で美晴さんはこのような明るい前向きな方だったのかなと偲ばれる。


大竹英雄名人、王座、鶴聖、碁聖
石田芳夫名人、本因坊、天元
小林光一棋聖、名人、碁聖
趙治勲本因坊、鶴聖、十段、名人の四冠を制す。
加藤正夫本因坊、名人、王座
武宮正樹本因坊

昭和50年12月19日木谷實逝去
平成3年6月3日木谷美晴逝去  

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木谷の愛した平塚の海 道場から歩いて10分程で大島、江の島と富士、伊豆、丹沢を望む

囲碁文化振興事業

内弟子は成長し囲碁界のビックタイトルを独占している。オールスター戦で言えばセントラルリーグが全て木谷一門みたいな格好である。日本棋院の理事長に加藤正夫が就任した。
大竹英雄は木谷門下の塾頭格として、後輩の指導などでも評価が高い。
囲碁界を木谷道場が背負っているのである。
その木谷道場が平塚にあったのであった。

この貴重な文化資源を再認識しわが町の再活性化に寄与させていくべきである。
平成7年、新市長に吉野市長が登場し、新施策の一つとして囲碁の木谷道場の再認識を指示され、平塚市博物館で木谷實展が開催された。貴重な関係資料が紹介され衝撃を市民に与えた。
町の中心部紅谷町パールロードでは囲碁100面打ちが開催された。凄い人出だった。
平塚の囲碁の人気がそれこそ再認識され、今後の囲碁を通した街づくりの担当部局が庁内で調整され、我が文化行政推進室に決まった。行政主導から市民主導への時代潮流を受け、平成8年、地域、企業、専門軍団の集合した湘南ひらつか囲碁文化振興実行員会が結成された。実行員会での囲碁を通した地域振興の施策協議が密度濃く行われ、それらは次々に実現した。今や平塚は日本一の囲碁の町となったのである。



余談
文化振興とリーダー


平成7年新市長に就任した吉野市長の指示で全庁の課題点検、業務見直しヒアリンガが始まった。七夕まつりや美術館の見直しなど折からのバブル崩壊、大不況による財政ピンチでもあり徹底的に事業必要度などが分析された。
厳しい態度が職員に伝えられヒアリングを待つ職員は戦々恐々だった。文化行政推進室の持ち込みは文化財団の設立だった。
3億円の出損金が必要で予算化は財政難もあり厳しい状況で他の職員から同情もされた。
又怒られる課が出るぞと。


市長室でのヒアリングでの説明には、文化こそ市の活性化に必要で、今は中央の団体などがリードし指導しているが、地域の公民館で活躍する小グループを大切にする方向転換が望ましい、官と民が同じ立場で展開する財団方式のメリット、3億円のうち、すでに民が1億用意(文化振興基金に積み立て済みだった)してあり、官で2億拠出すれば良いことなど必死に且つ慎重に説明した。
市長の言葉は「これから設立に向け大変でしょうが、ぜひがんばってください、理事や評議員には人材を幅広く登用するよう、実際に活動されている人材は平塚には多くいます。埋もれている。これを発掘して活用出来るように」との指示であった。こうして文化界念願の財団が実現

設立後神奈川県の担当した幹部から「この財政難のご時勢一時無理かと思っていた。平塚の文化への意気込みには感動した。これからも全力で県は支援したい」旨の話を聞いた。

吉野市長さんといつか出張をご一緒したが電車で本を読んでいた。そっと覗くと囲碁定石の本だった。。早稲田大学囲碁部出身、与謝野官房長官も囲碁仲間とのこと。確か日本棋院5段の腕前。絵もたしなむ文化人。歴史への博識度も半端でない、ゴルフはいつも80台。何事にも熱心で向上心が強い。そういえば次の大蔵市長さんも絵をなさり、広報誌にも作品が紹介された。書画への造詣も深いと聞いている。文化に理解ある市長さんを持った平塚市の再活性化が見ものである。


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