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年金・医療・失業・労災困ったときの助かるブログ
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年金、医療悩み相談クリニック金丸社会保険労務士事務所の金丸亜紀雄です。
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身長160cm、48インチ長尺ドライバーの杉原輝雄プロ逝く

2011/12/31 15:19
身長160cm、48インチ長尺ドライバーの杉原輝雄プロ逝く

平成23年12月29日朝日新聞23面:34面
23面スポーツ面 「通算63勝 小柄なドン 杉原さん 勝ってなお練習」
34面社会面 「杉原輝雄さん死去 74歳 ゴルフ現役貫く」


…28日プロゴルフ50年、ドンとも呼ばれた杉原輝雄さんが前立腺がんのため死去した。

160cmと小柄ながら体いっぱいを使ったショットを工夫し克服。
勝負師、まむし、スッポンとも比類なきしぶとさから異名をとり、まさにプロ意識に徹したプレーぶりで一目置かれていた。
シニア6勝を含みプロ通算63勝。
選手会の初代会長も勤めた。中日クラウンズには第1回から51回連続出場し世界記録を樹立した。
勝つために努力を惜しまず五角形打法など取り入れ、長尺ドライバー48インチ(約122センを杖代わりにラウンドする姿は水戸黄門様をほうふつさせた。
死ぬ時が定年、まだ稼ぎ足らないと現役で踏ん張り続けたいぶし銀、74歳の生涯だった。


評伝


小学5年のころ、自宅近くの大阪・茨木CCでキャディーのアルバイトを始めた。
中学卒業後は、高校の定時制に通いながら同CCの洗濯係として働いた。
ようやくコースに出られるようになり、名門コースの会員とのラウンドで小遣いをもらうことが“プロゴルファー”としてのスタートだった。

 「ゴルフで銭を稼ごう」。決意してからの練習量の多さは、ゴルフ界では突出していた。
その背中を見た、後輩で関西出身のプロゴルファーは数多い。
20歳での日本プロゴルフ協会(PGA)入会後は、「茨木の杉原」と「宝塚の島田(幸作=前日本ゴルフツアー機構会長、08年11月没)」という、関西2大派閥を形成。関東のAON(青木、尾崎、中嶋)らと切磋琢磨(せっさたくま)した。


KKベストセラーズ発行  杉原輝雄著 「30歳からでもシングルになれる」 207ページ 1991年初版本

自分で語る通り本書は技術論とは一味違う、杉原流らしく精神論から切り込んでいる…


@上達の秘訣は…2つある。一つはゴルフに取り憑かれていてうまくなりたくて夢中の人、もう一つは時間がつくれること

A、並みのプレイヤーに最も有効な練習方法は「素振り」。単調で苦痛だ。これを継続しやり遂げられる情熱が絶対必要

B、自分の型を持て。人の良いところを取り込むこと。

C、どんな時も攻めること。池を逃げる、避けるの気持ちではなく池の方に絶対行かない技術を身に着けるよう日頃から磨け。

D、確率とか頭を使って3番で行くのではなく、あくまでドライバー、頭先行でなく気持ちだ。攻めが基本方針、それを貫徹させるには技術が必要で、練習ということになる

E、スイング模範例は岡本綾子である。何回も見ること。目で学べる。

F、軽くスイングしているように見えるがどのプロも精一杯全力投入している。体勢が崩れない範囲で目いっぱい振るのだ。下半身がしっかりそれを支えている。盤石の土台をつくり強く叩けるように鍛えるのだ

G、意地を張り勝負強さを。8番の借りは8番で返せ。勝負の世界は負けん気とか意地が肝要。当った時大勝出来るのはこの意地の強さである。

H、アプローチは事前の素振りで決まる。ただ素振りをするのではない。本番を想定し、芝生の状態、抵抗状況、距離に合わせるスイングの大きさ、足はば、腰と手の使い方等それらを頭にインプットして素振りする。もう始まっているのだ。

I、パットの練習=うまい人は止まりそうで止まらない。下手な人は初速は早いが先で延びない、いい転がりを身に着けろ。長い球足はやや左に球を置き、ヘッドが上がり始めたら打つのだ

…最後に70歳過ぎまでプロでゴルフがやれたのは、運、性格、スイング、そして体に恵まれなかったことと最後を決めていた。
貧乏で稼ぐ必要があったこと、体の劣勢を補うため小技や長尺を使えるように必死で技術を高めたことであり、体が優勢で、お金もあったらとてもここまで頑張れなかった…
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桜美林大学と東海大学でボランティア活動の充電 第2部東海大学

2011/12/05 17:43
第2部 東海大学湘南キャンパスにて…

平成23年11月29日(月) 午前10時から午後3時30分まで「大学における学生納付特例の手続き促進の為の制度普及周知活動を展開
日本年金機の近隣構年金事務所の職員と地域型年金委員及び大学当局との連携事業であった。

午前9時30分に集合し活動の具体的方法の説明を受けた後3班に分かれ行動開始。
私は6号館チームに配属された。


配布文書

「学生が、申請するだけで保障がある制度ってなんでしょう」パンフ
「国民年金保険料免除制度の申請手続きを!」パンフ
「国民年金保険料学生納付特例申請書」
の3種類を配布する。

効果

当日申請の受付総数は約100人に達した。我が6号館チームは最高の50人に及ぶ受付数だった。

免除制度:学生納付特例とはこんなにお徳。何故学生は皆申請しないのか?

申請すれば、保険料を支払わずに加入と認められるこの上ない制度であり、万一身体に障害が発生し、障害年金が認められれば年間1級で986、900円。2級で788,900円障害がある限り一生支給される。

申請せず加入していない場合もちろん無支給であり、生涯の受取額は何千万円に達する。
保険料を全く支払わずにこの待遇である。
このような制度は民間には全くない。

一般対象の免除制度に至っては、免除された場合半額の年金が支給される。
免除された保険料は税金で賄われる。
つまり一般国民が税金で年金を補填しているのである。
免除申請しない方で年金が受給出来ない方も税金は支払う。消費税。
保険料を支払えないなら免除申請しなければ損な訳である。
一生涯でどの位損得が発生するか分からない。ぜひ免除制度の活用を。


11月が何故年金月間なのでしょうか?

 日本年金機構では、毎年11月を「ねんきん月間」として、年金相談の充実、国民年金保険料のご案内など各種取組を行っております。


 ●平成19年 10月31日に公表された総務省年金記録問題検証委員会の報告書を受け、年金記録問題への反省を組織として受け止め、(社会保険庁当時)改革への決意を新たなものとするため、今後、毎年11月第1週(今年は11月1日(木)から7日(水))を「年金記録を確認する週間」となった。

この中では、今般の年金記録問題への反省に立って、年金記録を確かなものとするために社会保険庁(当時)が自ら点検するとともに、国民の皆様にも積極的な記録の確認を呼びかけて、充実した年金相談に取組むこととしています。


1 年金相談の充実

11月の「ねんきん月間」においては、毎週月曜日の受付時間延長や休日の年
金相談を次のとおり行います。

○ 毎週月曜日の年金相談の時間延長
原則として午後7時まで年金相談の受付時間を延長します。
○ 休日の年金相談
11月10日(土)、11日(日)、24日(土)、25日(日)にすべての社会保険事務所と一部の年金相談センターで年金相談を行います。
開庁時間は、午前9時30分から午後4時までです。



東海大学湘南キャンパス


508,102平方メートル
理工系から情報系、社会・人文科学、そしてスポーツまで、文理融合型総合大学ならではの多様な8学部、大学院が併設された湘南キャンパス。
起伏に富む丘陵地のロケーションをそのまま活かした広大で緑濃い校地は、大学というよりも自然環境に恵まれた公園都市のイメージ。多士多彩な学生が“共生”する、自慢のキャンパスです。

所在地 〒259-1292 神奈川県平塚市北金目四丁目1番1号

大学の沿革

東海大学は1942年に学園を創設。翌1943年静岡県清水市に、東海大学の前身である航空科学専門学校を開設したことに始まります。
その後1946年に旧制大学令により東海大学が認可されました。
当時の文部省に提出された大学認可申請書には、人文科学と自然科学の融合による確固たる歴史観、国家観、世界観を把握せしめるとあります。

これが本学の「文理融合」の教育理念となっています。
創立者松前重義が掲げたこの建学の理想、建学の精神に基づき、知識偏重教育を取らず幅広い視野と柔軟な発想力を持つ人材の育成を目指しています。


松前重義
は熊本県上益城郡大島村(現在の嘉島町)生まれ。
生まれ育った農村と違って、熊本市内では夕方になると一斉に電灯がともり、重義少年はその美しさに驚き、「なぜつくのだろう」とその不思議さに素朴な疑問を抱きました。後に松前は、この少年時代の体験が「電気」の分野を学ぶきっかけになったと語っています。

そして県立熊本中学校(現・熊本高校)から熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)、東北帝国大学(現・東北大学)工学部へと進みますが、松前の青春時代は、中学時代に兄の影響から始めた柔道などのスポーツに熱中する日々でした。その一方で、大学では電気工学を学び、卒業研究は電磁気学の権威である抜山平一教授のもとで、後のトランジスタやICへと発展する真空管の特性などについて研究しました。

日本の科学技術発展のために──技術者運動を展開

大学を卒業した松前は、国の事業に携わりたいと希望して逓信省(後に郵政省と現在のNTTに分かれる)に技官として入省しました。
しかし、役所の生活は無味乾燥で事なかれ主義が蔓延していました。
当時の日本の社会は指導者として法学部出身者を最優先する風潮が根強く、一般的に文科系と理科系の人との間には理解のうえで深い溝がありました。
松前はこうした社会の現実を憂え、国家の正常な発展のためには文科系と理科系の相互理解が不可欠であるとの思いを強くします。同時に、世界や社会の動向に無関心になりがちな技術者の意識改革と地位の向上を訴える技術者運動を展開しました。

また、松前は当時の日本の科学技術が外国の技術に多くを依存していることに対し、国産技術開発の重要性を説き、自らもその研究に努めました。

情報化時代への曙──無装荷ケーブル通信方式の発明


20世紀はじめの通信技術の課題は、より遠くへ、より速く、より大量に情報を送ることにありました。
電話通信の分野では、アメリカ・コロンビア大学のピューピン教授が開発した装荷ケーブル方式が世界の主流でした。

これは、電流の減衰を防ぐため電話ケーブルの途中に装荷コイルを挿入するものでしたが、この方式は音声が不明瞭、一回線で一通話しかできず不経済であるなど、さまざまな欠点がありました。

そこで松前は、篠原登らとの研究成果をもとに、既成概念にとらわれることなく装荷コイルを使わない新しい通信方式を開発します。
これは、長距離ケーブルの途中に増幅器を設置して電流を増幅させ、高周波の電流に音声を乗せて送る搬送方式で、装荷ケーブル方式の欠点を一気に解決し、しかも一回線で複数の通話ができる多重通信を可能とするものでした。これが世界的にも有名な無装荷ケーブル通信方式です。

やがて国と民間企業が協力する国産プロジェクト研究によって実用化が進み、1939年日本と中国、約2,700キロの間が無装荷ケーブルで結ばれました。
その後、この通信方式は世界の主流となり、今日の情報化時代を開くきっかけとなりました。

教育への志を立てる──内村鑑三との出会いとデンマーク体験

逓信省時代に松前重義は、新しい通信技術の開発に従事するなかで「人生いかに生きるべきか」について思い悩み、内村鑑三(1861〜1930)が主宰する聖書研究会や講演会などに通いました。
内村は無教会主義を唱えたキリスト教思想家で、その『デンマルク國の話』、『後世への最大遺物』などの著書は当時の青年たちに大きな影響を与えました。

そこにおいて松前は、内村の思想と人類の救済を説く情熱的な訴えに深く感銘しました。また、そのなかで松前は、プロシアとの戦争に敗れ、疲弊した国を教育によって再興させた近代デンマークの歩みを知ります。
とくに、その精神的支柱となったN.F.S.グルントヴィ(1783〜1872)が提唱する国民高等学校(フォルクホイスコーレ、国民大学とも訳す)の姿を知り、そこに教育の理想の姿を見出します。

「生きた言葉による学校」「民衆のための大学」といわれた国民高等学校の教育は、教師と学生が生活を共にし、自由に社会を論じ、哲学を語り合う活気に満ちた学校でした。1934年に松前は、その教育事情を視察するため、デンマークを訪問しています。

そこで得たものは、後に松前が述べているように、学校とは「歴史観、人生観、使命感を把握せしめ、以て個々の完成に努力することにある」べきだということでした。
そして、この教育こそが豊かな酪農王国デンマークを築く原動力になっていることを目の当たりにしたのです。この体験を通して松前は「国づくりの基本は教育にあり、教育を基盤として平和国家日本を築こう」と決意しました。

東海大学の原点──望星学塾の開設

松前はかねてから妻信子や松前の理想に共鳴する友人の篠原登、大久保真太郎など数人の同志とともに教育研究会という小さな集まりをもち、シュバイツァーやペスタロッチなどの人生・思想を研究していました。

そして松前は、無装荷ケーブル通信方式の発明により、電気学会から「浅野博士奨学祝金」を受けると、これを基金の一部として念願の教育事業を開始するため、1936年に東京・武蔵野に望星学塾を開設したのです。

そこでは、デンマークの国民高等学校の教育を範としながら、対話を重視し、ものの見方・考え方を養い、身体を鍛え、人生に情熱と生き甲斐を与える教育をめざすもので、聖書の研究を中心として日本や世界の将来を論じ合う、規模は小さくとも理想は大きく、活気ある学習の場でした。
この塾が今日の学校法人東海大学の母体となったのです。

平和への信念を貫く──二等兵として激戦地へ
やがて第二次世界大戦が始まると、松前はわが国の生産力などの様々な科学的データをもとに戦争の早期終結を唱えたため、通信院工務局長(当時のわが国における通信部門の最高責任者)という国の要職にありながら、42歳で兵隊の位で一番低い二等兵として南方の激戦地に送られました。

そのため望星学塾の活動も停止せざるを得なくなりました。
しかし九死に一生を得て帰国すると、やがて技術院参議官となり、原爆投下の翌日には広島の現地調査に入って、原爆の惨状を目の当たりにしました。
そして終戦後すぐ逓信院総裁に就任し、廃墟となった日本の通信事業の復興に努めます。一方、1943年に開設した航空科学専門学校を前身とし、文科系と理科系の相互理解と調和を基本に掲げて東海大学(1946年旧制東海大学、1950年新制東海大学となる)を開設しました。

世界の中の日本を思う──科学技術立国をめざして

松前は、日本の科学技術政策の貧困を憂え、技術者の地位向上や国産技術の開発を訴え続けてきました。その成果の一つが戦前の無装荷ケーブル通信方式の発明であり、また、戦後の科学技術庁の設立です。

松前は、天然資源に恵まれない日本が世界に貢献していくには、独創的な技術開発による科学技術立国の道を歩むほかはない、と考えていました。しかもその科学技術は人類の幸福のためにあるべきものだ、との思いは広島の原爆調査などの体験からますます強くなっていました。

もはや科学技術は、扱い方を間違えれば人類を破滅に導くほどの力を持つに至ったのです。
そして、国の行方も人類の将来も、これに携わる人間の思想に左右されることを身をもって体験した松前は、かねてからめざしていた「思想を培う教育、文科系と理科系の相互理解をめざした教育」を東海大学のなかで実践していきます。

新しい出発──公職追放など様々な苦難のなかで

戦後の松前の歩む道は多難でした。当時日本を占領していた連合国総司令部(GHQ)の命令で、戦時中に国の要職にあったという理由で1946年には公職追放(重要な公職から除外する処置)になります。

このため、発足したばかりの大学の運営に携わることもできなくなりました。ここに至り東海大学は、戦後の価値観や社会的・経済的・思想的混乱のなかで松前という柱を失い、一時は廃校の危機に瀕するほどになりました。
しかし、松前の理想に共鳴する多くの人々によって大学は支えられ、再建への努力が続けられます。

そして1950年追放から解除されるや、松前は直ちに学園に復帰すると、獅子奮迅の活躍で理想の学園づくりに邁進し、今日の総合学園を築き上げてきたのでした。
希望を星につなぐ

松前が教育に託したものは、人類の幸福と平和の実現に向かって、明日の歴史づくりを担う人材の育成にありました。
そして松前はすべての若人に向かって語りかけます「若き日に汝の希望を星につなげ」と。この希望とは、高い理想や大志を表しています。
そしてこの言葉は、内村鑑三の心の師であるクラーク博士の有名な「少年よ大志を抱け」と同じ精神の表現であり、若人への時代を超えたメッセージです。
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桜美林大学と東海大学でボランティア活動の充電 第1部桜美林大学

2011/12/01 17:46
第1部 桜美林大学プラネット淵野辺(神奈川県相模原市中央区)キャンパスにて…

平成23年11月27日(日)森林文化講演会がNPO法人かながわ森林インストラクターの会主催で開催された。

講師 林業家:元京都大学教授 岩井吉弥氏

テーマ 人と森林との関わり …日本と欧米との比較…

講演要旨

国立大学は62歳定年。
民間だと67歳。
給料も段違い。
人材が民間に流れている。
定年から2年経た。もともと家業が林業だったので今は林業専門。
給料は安いが国立大学は自由で良かった。好きな研究に明け暮れていた。
だから興味を持った事項の研究を正に雑学をやっていた。

今日のテーマのような大それた研究などだからやって来ていない。
しかし人と森林の関わりには興味を持っていたので少なからずの体験談なら話せます。

@森林とのかかわりとはすなわち森林からの恩恵でもある。

◎建築材:燃料
◎紙の原料
◎線香
◎森林浴:森林セラピー
◎景観=京都では円通寺が穴場。素晴らしい東山の借景。

A森林の短所

△土石流:崩落…でもこれは土質や傾斜の問題で森林の欠点ではない。
△落ち葉対策
△大木の危険性;森林そのものの存が問題
△森林火災

B、森林率(国土と森林の占める割合)=1位はフィンランド。2位はスエーデン。3位が日本
  林業の歴史はダントツ日本が最古。
  すなわち日本は森林大国である。木編の字は600もある。木の文化国でもある。


C最近の状況 

☆住宅に木材を使わなくなった
☆燃料に木を使わない
☆山野の木々の実を食べなくなった
☆シカ肉なども食しなくなった
☆山奥にゴミを捨てるようになった

D欧米との比較

☆欧米では家屋に木材を多用する。健康上良い。
☆鉄材より木材の方が火災に強く、持つので安全上利点が多い
☆燃料に木材を多く使用する。
☆森林の産物を多く食する。
☆ハイキング、散策に親しむ。

E森林大国日本が余りにも森林の効用を無視しむしろ距離を置いている。

  昭和以前の日本は森林利用が欧米並みだった。高度成長はこれと実現させてきた。
  しかしあこがれの西欧生活は森林から離れてこそ実現させてきた誤りの変化でもあったのではないか。
  非常に日本が高いと言われる環境意識…森林を見直してこそ本物に。
  幸福度も森林との関わりを見直して考えるべき。
  お集まりの森林インシトラクターの活動はその意味で非常に重要である。

※神奈川県での全国植樹祭と岩井吉弥氏

神奈川県で初めての全国植樹祭が5月23日、天皇、皇后両陛下ご臨席のもと開催された。
 北山杉の林業経営者で、昨年まで京都大学で林業経済学の教授であられた岩井吉弥氏の基調講演があった。

 日本の森林は気候風土に恵まれ、過伐採してもすぐ回復するが、林業生産コストは世界的に最も高く競争力がない。
林地は急峻で植林、下刈、間伐、伐採に機械を充分利用出来ず人手がかかる。
欧米をはじめ世界の林業国は地形が平坦で機械が有効に利用出来る上に、熱帯地方を除き気温が低く少雨で、日本のように下草が繁茂しないので下刈の必要がない。コストは日本の4分の1である。

 日本一の山林家は王子製紙であるが、大手製紙会社は紙の原料チップを国内の自社林ではコストが合わないので、原生林を伐採した跡地、熱帯地方やオーストラリアに8~10年で伐期を迎えるユーカリ、アカシアを植林している。
 大径木材、ラワンや米松、日本の桧も含め天然木は切りつくされ枯渇。
林業は自然依存度が減少、農業と同じく資本主義的生産に移行してきた。
一方日本では林業は農業と共に補助金なしでは成り立たない。
 ここで歴史的建造物を見てみると、日本の自社仏閣はさておいて、ヨーロッパの城郭、寺院、はたまたモダンなレストランに至るまでむくの大径木が梁に化粧材に使われている。
 伊勢神宮は20年毎の遷宮のために、150~300年伐期で森林を育成してきた。

ヨーロッパでは歴史的建造物の修復は常に行われている。
 世界的に大径木材が枯渇、貴重化している現在、日本の林業も長伐期150~200年の大径木材生産に切り替えていくことが望ましい。貴重材として高く売れるため高コストも吸収出来る。
 工業製品でも安い大量生産品はわが国は競争力を失っている。
林業も工業、農業同様に高品質、高付加価値製品への転換が望まれる


※林業家速水亨

地球上に存在する生物のうち、人間が地球資源の7割を使っている現実、そこで今必要な2つの持続性は(1)資源の持続性、(2)環境の持続性
 加えて、4つの平等(1)民族間の平等、(2)地域間の平等、(3)世代間の平等、(4)生物間の平等 が重要と説明されました
日経ビジネス次代を創る100人に林業家として取り上げられる唯一の方です。

最も美しい森林は、また最も収穫多き森林である。

アルフレート・メーラー(ドイツの林学者、1860〜1922)
「恒続林思想」
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男たちの経営が女たちを魅了する…花王石鹸のすごさ

2011/11/14 09:12
@花王工場見学…

平成23年11月11日(金)神奈川県社会保険労務士会総務委員会研修が花王東京工場見学をテーマに開催された。
約80名の県下各地の社労士が参加。
冷たい雨の一日だったが、案内する職員、見学生ともに熱心且つ和気藹々の雰囲気の中研修は粛々と進められた。

誰もが花王の経営のすごさ、扱う製品のすごさを、日本近代史の1ページに花王の果たした役割のすごさを承知しているからであろう


Aすごさの分析…

T、島崎藤村著「東方の門」と花王創業者長瀬富郎の話


  この未完の大作に「花王石鹸」創業者長瀬富郎が牡丹石鹸の巣山千十郎という名で登場する。
  「儲けさえすれば言いというような人たちとはおよそ行き方を異にする産業人」として期待し、これからの実業は千十郎のような行き方でなければならないと述べ、新しい夜明けを担う新しい人間像を長瀬富郎によって描こうとしていた。

 「こんなに早く子供を作ってしまった、これは夜なべ仕事に候」など長瀬のユニークな実話も作中で採用している。
藤村は新しい時代の新しい人間の可能性を長瀬の上に見ていたのは確かである。
藤村はまた、石鹸を新しい日本を作る生産品の一つであり、時代を象徴する文明史的な意味でも強調している。
石鹸業界…それは一つの夜明け前の世界とも言えた。

城山三郎はその著「男たちの経営」の文頭で、『藤村は「東方の門」の本当の主役として長瀬を大切にしたいといった語り口なのであり、作品の展開はそういう息づかいなのである』と語り、それ程藤村が興味を示した長瀬富郎に当然のことながら興味を持ったと述べている。

U、城山三郎著「おとこたちの経営」 角川文庫 221ページは現存する大企業「花王」の実名実録小説である。

花王石鹸と長瀬一族。
多彩な人材が集まり、同族会社から近代企業に生まれ変わるすさまじい過程:実録ドラマが展開する。
「おとこたちの経営」は高度成長期の真っ只中昭和45年に発表され、角川書店から昭和56年発刊された傑作である。

城山は語る「人間は組織に支配されると同時に組織を作る。
企業に組み込まれた人間を掘り起こし、人間たちの積極的、創造的な面を中心に、人間ドラマの場として企業を捉え直したい」と。

孤立感のあった城山文学がこの作品を境に、急速に広範な読書を獲得する転換期でもあった。
日本にとっても高度成長期と石油危機、挫折と回復…日本産業世界が劇的な体験を経て、成熟感覚を身につける転換期でもあった。

V、長瀬富郎

☆創業

日本橋馬喰町の小物問屋に入店、経営を任されるまでになるが自分の店を持ちたいという夢を捨てることができず、1887年(明治20年)23歳で独立を果たし「長瀬商店」(のちの花王)を馬喰町2丁目に創業する。
長瀬商店は洋小物問屋・小売店であり扱う商品の中に石鹸があった。

外国製の石鹸に比べ国産の石鹸の品質がおとっていることに不満を持ち、石鹸の自社製造を決意する。そんな折、知り合いの石鹸職人村田亀太郎が独立したのを聞きつけ村田を口説き落とし二人で石鹸製造の道を歩み始める。
1890年(明治23年)満足できる品質の石鹸製造に成功。最初「香王石鹸」と名付け商標登録まで行ったが発売直前に「花王接見」に名称変更を行い花王石鹸の商標登録もする。

狙いは当たった。桐箱入り花王石鹸は贈答用に重宝されたのだ。
石鹸は今に至るまで中元・歳暮の主役のひとつとなっている。
むろん、その成功は販路拡大と宣伝に力を注いだ結果である。
当時は、上方と関東とは独立した商圏になっていたが、富郎は関東に特約店を広げるだけでなく、大阪にも特約店を置いた。
この大阪の特約店が5年後に花王石鹸の44%を扱うまでに発展するのである。
また、富郎は、100ダース以上1ダース0.5銭、1,000ダース以上同1.5銭などと割り戻し(ボリューム・ディスカウント)を採用した。景品販売にも着目し、風呂敷、うちわなどを配布している。

宣伝については、アメリカ人ジャーナリストに欧米の化粧品宣伝の実情を聞き、全国の新聞に積極的に広告を掲載した。広告コピーからレイアウトまですべて富郎がこなしたことはいうまでもない。
鉄道沿線に設置する野立看板の広告利用も花王が最初とされる。
鉄道網が全国に広がると、東海道線を皮切りに、関東沿線、東北本線、信越線へと次々に野立看板を立てていった。劇場のどん帳、広告塔、電柱広告、浴場への商品名入り温度計配布なども精力的に行っている。
また、瀬戸の指導のもと、歯磨粉、ろうそく、練歯磨などの製造販売も開始した。さらに、化粧水『二八水』を明治33年に発売した。これが花王化粧品の嚆矢ということになろう。

☆石鹸と清潔な国民性

石鹸は、織豊時代に「しゃぼん」の名で日本に入ってきたものですが、庶民が手にできるようになったのは明治になってからのことです。

ちなみに信長の時代にやってきたスペイン人たちが、なによりも驚いたのが、日本人の清潔さだったそうです。

それまで訪れたアジアの国々ともまったく違う。
人も町も清潔であることに驚いた。

この時代、イザベラ女王といえば、コロンブスの新大陸発見のスポンサーとなった女王として有名ですが、この女王の自慢が、生涯に二度、風呂に入ったということだったそうです。

生涯で二度です。

一回目が生まれたとき。
二度目は、結婚するとき。

イギリス女王、のエリザベス一世は、無敵艦隊でスペインを凌いぎ、世界一の文化の高さを誇った人ですが、この女王の自慢が、三か月に一度、風呂に入るとこと。

この頃の世界は、「お風呂に入る」ということは、とてつもなく洗練された行いであり、贅沢だったのです。

ところが、日本に来てみたら、一般庶民に毎日の入浴は、あたりまえ。

このことが、スペイン、ポルトガル人をして、この国には敵わないと思わせた一因だったとか。

ついでにいうと、韓国には近代になって日本が統治するまで風呂も入浴の習慣もありません。

話が脱線しましたが、とにかく日本人はお風呂が大好き。

もっとも、江戸時代までは石鹸は使われず、もっぱらヘチマなどでの垢すりが中心だったようです。

ところが、明治時代にはいって鎖国が解かれると、またたく間に石鹸が庶民の間に浸透します。

ただし、輸入モノです。爆発的な人気を得るけれど、値段が高い。

そこで、明治三年には大阪と京都に官営の石鹸工場が建設され、民間でも明治六年に横浜で和製石鹸の製造が始まったけれど、この石鹸の出来が悪い。

化学技術がまだ未熟だったころに加え、原料となるやし油や苛性ソーダ、香料が入手難だったのです。
このため、国産品は洗濯石鹸くらいにしか使えなかった。

長瀬富郎は、ここに眼をつけます。

奉公先の荒物屋「若松屋」を一年あまりで退職すると、郷里に戻って資金を工面し、明治20(1887)年に、馬喰町の裏通りに間口二間(3m60cm)で「長瀬商店」を開き、石鹸と文房具の卸売を始めます。

このとき富郎、24歳。

商売は順調で、馬喰町の升屋旅館の三女なかとも結婚もし、商いは帽子、ゴム製品などにも広がって行き、一年後には表通りに店を構えるまでに発展します。

富郎のおもしろいのは、この時すでに複式簿記による詳細な損益計算書も発行していること。とかく信用はこうした金銭に対するまじめさが必要です。

長瀬商店は、おもにアメリカ製の石鹸を扱っていたのだけれど、これがなかなか入手できない。
圧倒的な需要過多だったのです。
仕入れることさえできれば右から左に売れるけれど、肝心の品物がない。

一方で国産石鹸は粗悪で、納品しても苦情がきて返品されてしまう。
当時は返品は問屋が、かぶったのです。

富郎は考えます。

良質な石鹸を作ることができれば、それこそ右から左に売れるのではないか。

同じタイミングで、仕入先のメーカーから、石鹸職人の村田亀太郎が退職したのを機に、富郎は、亀太郎に、長瀬商店専属でやってみないかと話をもちかけます。

そして、知人の薬剤師、瀬戸末吉に分析の基礎を学び、原料や香料を調合に没頭した。

一年半の後、遂に製品が完成します。

絶対の自信作です。

知人の高峰壌吉博士(ジアスターゼを発見した世界的化学者)に分析結果も書いてもらった。


製品はろう紙で包み、分析結果の紙を添え、さらに自分で描いた「花王」月のマークの図案を印刷した上質紙で、ひとつひとつの石鹸を丁寧に巻き、これを桐箱に三個を納めた。

値段は、一箱35銭です。

アメリカ製の高級石鹸ですら、1ダース28銭だった。
国産で、しかも三個で35銭というのは、飛びぬけて高価です。

富郎は、自信作の石鹸を、高級舶来品のようなブランド商品として売り出そうとしたのです。

狙いは当たります。

桐箱入り花王石鹸が、贈答用に重宝されたのです。

石鹸は今でもお中元やお歳暮の主役だけれど、どうやらその週間の原点は、明治20年の富郎の35銭石鹸からきているらしい。


☆広告宣伝の妙

富郎はさらに、高級ブランド品販売に際しての景品にも着目します。
石鹸を売るために、風呂敷、うちわなどを配布した。

さらに宣伝には、全国の新聞に積極的に広告を掲載します。

鉄道沿線にある野立看板による広告も、花王が最初です。

鉄道網が全国に広がり、野立看板は、東海道線を皮切りに、関東沿線、東北本線、信越線へと次々に広がります。

また、劇場のどん帳、広告塔、電柱広告、浴場への商品名入り温度計配布などもした。

石鹸の大当たりから、薬剤師の瀬戸の指導のもとで、歯磨粉、ろうそく、練歯磨などの製造販売も開始する。

ちなみに富郎は、明治の末期(明治41年)には、広告に、稀代の美人芸妓とされた萬龍を起用しています。


☆志
人ハ幸運ナラザレバ、非常ノ立身ハ至難ト知ルベシ
運ハ即チ天祐ナリ
天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ

〜天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ
月のマークで知られる花王石鹸。
明治半ば、洋小間物商を営んでいた初代長瀬富郎は、粗悪な石鹸の蔓延を憂えて、自ら品質本位の化粧石鹸製造に乗り出した。
『天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ』
初代長瀬富郎の真っ直ぐな志は、花王110年の歴史を貫いて変わることはない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

成功というのは、たまたまの偶然にすぎない。

それはまさに、天の助けによる思いがけない幸運である。

その幸運を得ようとするなら、常に道を正して待ちなさい。


けだし名言だと思います。

花王の創業者、長瀬富郎ほどの幸運に見舞われた人生の大成功者ですら、自らの成功を「天祐」と言っている。

「天祐」とは、天の助けによる思いがけない幸運です。

そして天の助けは、正しい道を歩む者にしか、結果として微笑まない。

世界がスペイン、ポルトガルによって植民地化され征服された時代に、なぜか日本は世界で唯一、植民地化をまぬがれました。

それはもしかしたら、普通の庶民がお風呂にはいれる生活が、日本にあったこと、それを護ろうとする信長という強大な軍事力があったことによるのかもしれません。

花王の成功も、多くの人々がお風呂で垢を落としてさっぱりできること。
主婦の洗濯が、すこしでも楽になることが、まさに「天祐」を招いたのかもしれません。

もしかすると「正しい道」というのは、多くの庶民を護り、幸せにする道をいうのかもしれません。

「天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ」

大切にしたい言葉なのではないかと思います。


♂女性を虜に

☆顔も洗える石鹸花王…
    ¥安かろう悪かろうの時代に、1化学、デザイン、職人の技術を導入
個12銭で楊貴妃も好んだボタン色の高級感覚の営業戦略
☆新聞広告や鉄道野だけ広告を国内企業で初めて採用する積極的広告宣伝戦略
☆官庁等に納入注力し御用立ちつブランド確立
☆2代目富郎による「先代通り」から大胆な脱皮…社会の要求に応えれる企業に…
 純粋度99、4%、正価10銭の大衆価格導入新戦略   
☆フェザーシャンプは髪洗いの代名詞に…髪洗の習慣を定着させる…80%のシェアー
☆家庭用粉末中性洗剤エキセリン
☆合成洗剤花王ワンダフル…電気洗濯機の販売とドッキング 互いの効果を高めた


おとこたちの経営あとがきより


登場する人物はいずれも企業活動を通して自己実現に貪欲であった。
企業という組織はそういう自己実現の情熱を吸収して成長し、個人の生涯を越えて生き延びていく。
人びとは縁あって登った舞台でいっときの劇を演じて消えて行く。
城山氏はその無言劇に言葉を与えていく。
産業戦士たちは氏の作品に自分達の言葉を発見する。
この小説は企業の青春期を描く。正に青春小説だ。
企業は人間ドラマの世界である。おとこたちのドラマの場である。
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生誕200年 ピアノの魔術師フランツ・リストは今日が誕生日 うかい亭で聴くリストとショパン

2011/10/23 21:04
生誕200年 うかい亭で聴くリストとショパン:ピアノの魔術師フランツ・リストは今日が誕生日 

時は、平成23年10月22日土曜日の午後
所は、大和市つきみ野の「横浜うかい亭」

大和市稲門会ミニコンサートが開催された

出演  ピアノ演奏 小松原章子


プログラム

♪今日が誕生日で今年生誕200年のピアノの魔術師フランツ・リスト…
曲目
森のささやき
愛の夢
ラ・カンパネラ

♪昨年が生誕200年のピアノの詩人フレデリック・フランソワ・ショパン…
曲目
ノクターン作品9−3
エオリアンハープ
革命

終曲は皆で「もみじ」を合唱する。



大和稲門会のミニコンサートと懇親会は秋のひととき、快い音楽とフランスワインと県下各市稲門会員の交流で素晴らしい時間となった。大和稲門会に感謝。



T、横浜うかい亭を創業した巨人「鵜飼貞男」


こんな辺鄙な場所にお客は来るのかと思うが、大勢の来店客で大賑わいである。
何故だろう、どうして、その疑問は後の対談で解けていった…

ある対談が語られていた。
そのままである。
中央林間駅から20分は歩く。
つきみ野の静かな住宅街に突然現れた「横浜うかい邸」
明治時代のオランダ貿易商の迎賓館を移設。

駅そばでなくとも客は来る…鵜飼貞男の感動マーケティング
■1964年にうかい鳥山を創業したとき、その施設が100年間変らないことを最重視し、アクセスは多少悪くても、お客様に感動を与えられる質の高い空間・サービスが提供できれば、人は集まるとの100年経営論を話された。
また、本物の味覚を伝える役割があるという食文化を貫くための哲学があるからこそ、そのこだわりや感動を求めている顧客に支持され続けていることで納得できた。

■対談の中で、私が河口湖オルゴールの森で体験した二つの話をしてみた。
一つは、駐車場の係りの人の誘導の仕方が温かくとても親切で、その係りの方にお礼を述べたところ、「お客様がわざわざ遠方よりきて頂いたことに、ご苦労様というのを表現しただけです」と言われた。

この話に鵜飼さんは「皆さん社員ではないんですよ。河口湖周辺の警備の会社の人です。ただ、毎日働く人はみんな朝礼に出てもらうから、哲学が伝わったのかな」と言われた。

また、「庭園で座っていた女性が寒そうな仕草をしたとき、どこからかスタッフの方が飛んできてそっとひざ掛けを差し出しました」とのことには、「特別なことではなく、普通なことなんですね」との回答であった。その際、“お客様に言われてするのはサービスだが、察知してこうしたら喜んでもらえるのではと進んですることがホスピタリティーなんだ”という持論が私の中で創られた。
今でも、人にはその持論を話し、講演等でもすすんで話すようにしている。

■その他、ヴェネチア名誉市民であった鵜飼さんの文化・アートに対する文化論は熱と共に伝わってきた。
ご自身の収蔵品を中心にした新しい3つ目のミュージアムの構想をお話されたとき、もし実現するならばきっと多くの感動を世の中に送っていけるだろうと胸が膨らんだ。
そんなことで、私が感動マーケティングを真剣に探求しようとした動機づけが鵜飼さんであった。
モノが売れない時代にあって、人々の琴線に触れる感動業態づくりこそが次世代消費のステージになると信じている。「合掌」

■感動マーケティング視点⇒1.サービス業にて、相手に要求されてする行為はサービス、しかし、相手にとって喜んでいただけることを自発的にする行為はホスピタリティーという言葉になる。

それぞれの歴史のある場所に、私共うかいでは、店舗理念として「100年続く店づくり」を掲げているように流行に流されることなく、その土地の歴史や文化を踏まえて各々異なるコンセプトで作り上げています。

地方から歴史ある建物を移設したり本物だけが持つオンリーワンの店作りをすることを非常に大切にしてきました。


うかいグループの創業者である故鵜飼貞男氏はエミール・ガレの作品につき個人としては世界一の収集家であったらしい。それらの作品の数々もこの店のインテリアを引立てることに一役買っている。


うかい亭それぞれ…表参道、八王子、烏山、銀座、あざみ野、鷺宮ほか
箱根ガラスの森
河口湖オルゴールの森


U、フランツ・リスト

(ドイツ語:Franz Liszt, ハンガリー語:Liszt Ferenc, 1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリーに生まれ、ドイツやオーストリアなどヨーロッパ各国で活躍したピアニスト・作曲家。
両親の血統、母語、もっとも長い活躍地のいずれもドイツに属し、当時中東欧に多数存在したドイツ植民の一人だが、自身生地のハンガリー(当時はオーストリア支配下の形式的独立国としてのハンガリー王国の版図内、現在はオーストリアに帰属している)を祖国と呼び、死後もドイツ人(オーストリア人)よりはハンガリー人と記載されることが多い。

ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。
演奏会形式としての「リサイタル」を初めて行なった人物と言われている。
また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られる。
ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成した。

ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。
また多くの女性と恋愛関係を結んだ。
特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。
2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。

マリーと別れた(1844年のこと。原因は「リストマニア」と呼ばれる熱狂的女性ファンと多数の情事にふけったことと言われる。
[1])後、再びピアニストとして活躍したが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。
彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。
1848年にはヴァイマルから宮廷楽長として招かれた。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマルで作曲に専念した。


ピアニストとしてのリスト

リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれた。

演奏技術と初見に関しては、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、彼の死後100年以上経っている現在においても、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないと言われている。
その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていた。

「6本指」は誇張であるが、幼少時から指を伸ばす練習をし、10度の音程も軽々と押さえられたとされる。
彼の曲には両手を広げての4オクターブの音が多用された。また速いパッセージでも音数の多い和音を多用した。
ショパンの「12の練習曲 作品10」だけは初見で弾きこなすことができなかったという。
その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話がある。

また高い演奏技術で万人受けしたリストの演奏に、はじめはショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だった。
しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向が見られた。

当時無名であったエドヴァルド・グリーグが、書き上げた「ピアノ協奏曲イ短調」の評価をリストに依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、彼を褒め称えて激励したと伝えられている。き「手が足りない!」と叫んだという。また


V、ショパン - ピアノの詩人



ショパンは19世紀、ポーランドの作曲家です。
ノクターン、別れの曲、英雄ポロネーズ、幻想即興曲、子犬のワルツ、革命のエチュード、雨だれの前奏曲、華麗なる大円舞曲、軍隊ポロネーズなど数々の名曲を作曲し、ピアノの詩人と呼ばれました。

2010年はショパン生誕200年。世界各地で関連イベントが行われます。
ショパンウェブではタイムリーな情報を発信していきます。ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの特集ページをアップしました。ショパン生誕200年の年にふさわしい壮大な企画です。


フレデリック・フランソワ・ショパン(フランス語: Frédéric François Chopin 、ポーランド語:Fryderyk Franciszek Chopin[1] (フルィデールィク・フランチーシェク・ショペーン)[2] 、1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説もあり) - 1849年10月17日)はポーランド出身の前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。

当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。
その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。

ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人でもある。
また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地であった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。



W、小松原章子とピアノ「ファツィオリ」


ファツィオリは、昨年のショパンコンクールの公式ピアノに認定され使用されました。
これによりショパンコンクールの公式ピアノはスタンウエイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリの4種類になったのです。
実は、ベーゼンドルファは外れていることも知りました。
タッチが個性的すぎますね。たしかに。
このピアノメーカーは1980年に設立したばかりですが、響板、駒などに適した木材を選びぬいて使用するなど、最高の音をだすためにひとつひとつのパーツに徹底的にこだわりぬき、限りなく手作りで作られています。年間の生産量もわずかな量で、日本でもこのメーカーのピアノを所有するホールはまだわずかのようです。

そして、かの名著「パリ左岸のピアノ工房」(T・Eカーハート作、新潮社)にも「ファツィオーリ」に一章が割かれておりました。
さて、なぜ、ファツィオリなのかと申しますと、今月27日、調布市の仙川にある「仙川アベニューホール」で小松原章子先生が、オールショパンプログラムで、この「ファツィオリ」を弾かれるのです。

仙川アベニューホールは桐朋学園の持ち物だったものを2009年に別の運営団体がリニューアルオープンし小ホールとしたものです。
公式HPには建築音響学の権威・橘秀樹氏の音響設計によるとあり、ホールの音響も聴きどころです。
そのホールに、日本にたった1台しかない「4番ペダル」(4本目のペダル!)のあるファツィオリの中でも特に最新のピアノ技術の粋を集めた傑作があるのです。

小松原章子先生は、ポーランドのワルシャワ国立ショパンアカデミーで学ばれ、ヨーロッパ各地で演奏活動をなさったショパン弾きです。

とくに、ショパンの哀感や郷愁、内省的な思考、内に秘めた情熱を深い音色で演奏するのが特徴のピアニストです。
心の深いところに届き、しかも温かく包み込むようなショパンです。

幻のピアノで表現される「小松原ワールド」

兵庫県立西宮高校音楽科を経て、大阪音楽大学音楽学部器楽科ピアノ専攻卒業。
大学在学中、ピアノ特殊研究コースにおいて小森谷泉氏に師事。

第5回日本クラシック音楽コンクール(高校の部)全国大会入選。
第9回堺ピアノコンクール(大学・一般の部)銀賞。
大学卒業後、ポーランドワルシャワ国立ショパンアカデミー研究科に留学。
K・ギェルジョード氏に師事し、ディプロマを得て修了。

在学中、ポーランド各地にて演奏会に出演。
また、ザルツブルクをはじめヨーロッパ各地のマスタークラスにおいて、A・ヤシンスキ、A・v・アルニム、R・スメンジャンカの各氏に師事し、修了演奏会に出演。また2009年1月、エイランドアンサンブルとモーツァルトのピアノ協奏曲K.414を共演。

他にもジョイントリサイタル、ヴァイオリンとのデュオコンサートを開催するなどソロ、室内楽ともに積極的に取り組んでいる。これまでに米原真由美、牟禮美保、三森尚子、伊藤勝、干野宜大の各氏に師事。


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神奈川の創業経営者4人巨人プラス超巨人1名が熱い思いを語る 

2011/10/17 22:01
神奈川新聞社発行  起業家支援財団編著 神奈川の創業経営者熱い思いを語る 203ページ


1、公益財団法人「起業家支援財団」とは、日本経済活性化のキイは、起業家精神旺盛な企業家によるイノベーションによって既存企業の変革:活性化を図り、より多くの人たちが事業創造のチャンスに挑戦できる社会環境を作ることが、現在の日本に何より必要との考え方のもと、株式会社アルプス技研創業者松井利夫氏の基金出損により2007年設立された財団である。


2、本書は、この財団の事業として、神奈川大学において学生を対象に寄付講座「神奈川の創業経営者熱い思いを語る」講義をいただいた講義録である。

3、総務省調査=事業所数が減少続く


平成8年から18年では、従業員10人以上事業所減少5%、10人未満14%減
神奈川の開業率と廃業率=平成13年から18年の5年間で開業26%、廃業30%
首都圏では27%開業で32%廃業である。
中国、インドなどは米国並みの開業率

4、「ようこそ」の株式会社エイヴイ=木村忠昭氏

◎横須賀の谷戸地区を同業スパーは進出して来ないのを見越しての開業

◎渥美俊一著「スパー時代の販促法」を読み昭和35年米国視察。数年後その視察先は存在していない激烈な競争世界を認識

◎チラシよりチラシハンターでなくいつものお客を大切に。深夜営業せず人件費削減。

◎目標は明確に紙に書くこと。障害を一つ一つ潰す。

…醤油を安く売ると同業からアソコハ薄い醤油だとか、融資が受けられそうになると政治圧力で駄目になったこともあったそう。特定人脈しか上等鮮魚売らない職人従業員より素人の方がアベマリアようこそを実現してくれるなど内輪話も面白い。

5、100人より20人の方が目が届く株式会社介護施設「サンフォーレ」堀井利修

☆26年に及ぶ家族介護の経験を社会に生かそうと介護開業

☆高齢社会の今こそ介護はチャンス、しかし事業展開には地べたはいつくばる頑張りが肝要、5年、10年がまんしやってやりぬく。志と夢があるから出来る。

☆福祉法人なら国から補助金が出る。しかし国の規則に従うことを要求される。
自分達の考えで自由に新しい介護の方式を実現させるには株式会社方式になった。

☆小規模で人間性豊かなシニアホームで街角ビジネス、テーマは「年老いても自分の人生貫き自らの手で完成させる」

6、建築→土木→下水道へ、時代のニーズに適格反応「松本建設株式会社」松本七郎氏

●民間個人向け建築からスタートしたが、細かく補修もある個人建築より、公共投資の時代を意識し官公庁の土木事業を狙い大変身を遂げる。横浜の区画整理事業展開に合わせ公共下水道に将来性に着目、下水道の維持管理業に更なる事業変身。
日本で始めて外国製の特殊車両高速汚泥吸引機導入などにより下水道の緊急事態に即応体制を整備。台風、大雨、地震の際のライフライン守る使命を意識し災害緊急時協定を横浜市と結ぶ。

●地域社会の格として「今社会は何を求めているか、この先何が伸びるか」を考え手を打つ。建設部、プラント部、下水道維持管理部の3本柱28名の社員体制。

●朝7時に社長自ら会社の鍵を開け、夜8時に鍵を閉めてきた。土光経団連会長を見習う。毎晩「不動明王」を拝み、読経し、自分を振り返る。

7、ガソリンスタンド多店舗化苦労の結晶(株)アイネット、池田典義氏

○セルフガソリンスタンドの20%はアイネット社プラグラム利用
 昭和38年高度成長の中、モービル石油入社、多店舗化の事務効率で苦労
 そこでコンピュータ活用:ビジネスモデル:効率化へ貢献。その成果を開業へ発展
 ガソリンスタンド経営事務に特化。大手と十分競争になる。選択と集中作戦。

○車で言えばレクサスには運転機能だけで100個のマイコン。銀行は正にATM装置産業。

○お客ごとの受託開発型から当方用意のパッケージ利用サービス提供型に変貌する。
  情報サービス産業18兆円は今後受託開発は半減、ハード微減、ソフト倍増、サービスが一番伸びるだろう。

石の上にも3年。7:5:3の就業率あきれた法則=なんと平成17年度卒業し就職下3年後は=中学卒7割、高卒で5割、大卒で3割が離職。これは社会に損失である。1年2年3年の辛い経験を活かして欲しい。1流のサラリーマンこそ1流の起業家に。
…朝早く起きて十分な朝食。感謝の気持ちと健康管理、メリハリつけた心身で仕事に向え。3Cと3K(挑戦:改善:好機:健康:感謝:継続)
氏は県の体育振興会の役員など地域貢献活動もこなす。

8、起業家支援財団


  2007年平成19年3月神奈川県より認可され設立した財団法人。
理事長松井利夫は1968年昭和43年相模原市において設計会社松井設計事務所創業。
1981年昭和56年株式会社アルプス技研設立。
2004年平成16年一部上場
成功した起業家は次世代の起業家を育てなければならない自説から財団を設立。
  
松井利夫氏創業の背景


1968年7月開業の「松井設計事務所」アルプス技研発祥の家

 私(創業者)は昭和18年(1943年)、新潟県に生まれました。
地元の高校を卒業後、品川のプラスティック工場に就職した私は、同時に夜学の専門学校で電気・機械を学び、その後信号機器メーカーに転職、設計技術者としての道を歩み始めました。
世の中は「いざなぎ景気」により、三種の神器を初めとする耐久消費財が急速に普及し、日本製品の海外輸出が拡大、経済大国の地位を確かなものとしていました。終身雇用・年功序列といった日本的な雇用慣行により、大量の「会社人間」「企業戦士」「猛烈社員」が出現したのもこの頃です。

 しかし、日頃父親から「男は何でもいいから親方になれ。
一生、人に使われてはつまらんぞ」と言われたこともあり、私はそうした世間の動きと逆行する形で、『俺は男の夢とロマンを求めるんだ!』と、心に誓っていました。

「アルプス技研」の前身である「松井設計事務所」を独りで相模原市に開業したのは、25歳のとき、4畳半一間からのスタートでした。
動機は、男一匹、一回限りの人生を青天井の世界で思い切り生きてみたかったことと、ビジネス面では不自由に感じていたことを事業化しようとしたことからです。
今思えば、顔が赤らむような無鉄砲さと、自己の無限の可能性に疑いを持たぬ自己陶酔の塊でした。

アルプス技研の歩み

 アルプス技研の軌跡は3つの期に分けることができると思います。
1968年(昭和43年)から1979年(昭和54年)に亘る12年間を、第一期:『苦難の創業期』、1980年(昭和55年)から1992年(平成4年)の第二期は「激動の変革期」、そして1993年(平成5年)から2005年(平成17年)の第三期は、当社が大きくステップアップできた『成長期』でしょう。

 ところで、社名に「アルプス技研」と命名したのは、開業から3年後、有限会社になったときです。
 夜学の終了と同時に、私は登山に傾注するようになりました。北アルプス、南アルプス、越後や南会津の山や道志の山などをよく歩きました。その後、社長退任後は、ヒマラヤやヨーロッパアルプスをはじめ世界の山々を登りましたし、現在では近くの山々を登るようになっています。「アルプス技研」の社名は、山をこよなく好きであることから名付けたものです。そしてアルプス山脈のような雄大な企業を目指そうと・・・


貧困と屈辱のスタート

1973年4月開設の旧事務所(町田市)
 アルプス技研は、こうして開業された『松井設計事務所』に端を発します。
私が不自由に感じたことを事業化した「機電一体設計」とは、電気設計と機械設計が別々に行われていた当時としては、極めて斬新なものでしたが、現実は実に厳しいスタートでした。
仕事は見つからない、やっと受注した仕事も不出来だと代金をまともに支払ってもらえない。

昼間は営業、夕方から設計、深夜が勉学という日々が続きました。
幾度サラリーマン生活に戻ろうかと思ったかしれません。貧困と屈辱、まさに”どろまみれ“の毎日でした。しかし、後には退けません。自分にあるのは「若さと努力することと夢と希望」だけだ、そう自分を奮い立たせ、普通の人の3倍勉強し、3倍働くことを心に決め、行動しました。

苦難の創業期

 オイルショックによる大不況をわずかな社員と共に耐え抜き、さらに身内の不幸から何とか立ち直った私は、そのとき体得した「忍耐力と広い思いやりのある心」を、「客先の要請により技術者を派遣する」というベンチャー事業への情熱と勇気へと昇華させていきました。

そして、発展と成長を遂げていくためには、まずなによりも「優れた正しい経営理念の確立」が必要であるとの思いから、当社の経営理念「Heart to Heart」を定めました。
経営理念とは、「この会社をどんな考え方に基づいて、何のために、どのようにやっていくか」という包括的な方針を明確にするものであり、組織においても個人においても重要なものです。
また、度重なる逆境を乗り越えた私は、この頃から「ウェルカム・トラブル」という言葉が好きになりました。

アルプス技研の歴史は「社員教育」の歴史です

 創業10年目を迎えるころ、『企業の器は、経営トップの器である』(故松下幸之助氏)を強く意識し、自己の修正、自己の確立のため、「経営や人の心」についての研修や訓練を受け始めました。

自分が体験し、感動し、すばらしかった訓練や研修は社員や妻や子ども、友人にも勧めてみました。
トップは率先して自らが行動し、後姿で示すことが肝要です。そして会社以外にも目を向ける心の余裕が生まれ、業界団体をはじめ青年会議所、相模原市青年工業経営研究会、技術交流研究会などの諸団体での活動を始めました。「企業は人なり」を肝に銘じ、人材育成にいっそう力を注ぎ始めました。「人材育成は中小企業にとって経営の要」であり、「会社は自己実現のための人生道場」でなければならない・・・アルプス技研の歴史は社員教育の歴史でもあります。

激動の変革期
1985年7月竣工の本社屋

1979年4月竣工の本社屋
 1981年には、有限会社から株式会社へと組織を改め、相模原市に本社屋を建設、以後各地に事業拠点を開設していきます。創業15年目の1983年に、私は21世紀に向けてのビジョンを3つにまとめた「長期事業基本計画」を策定しました。

 1985年には、2度目となる本社屋を相模原市西橋本に建設、さらに「技術研修センター」を創業し(現:(株)アルプスビジネスサービス)、この研修センターにおいて、後に神奈川県と協力して「神奈川経営者育成塾」を開設、起業家育成事業を開始しました。

この間、社会のニーズを追認する形で労働者派遣事業法が施行され、「派遣労働」が国によって公認されました。それ以前は、派遣事業は、職業安定法44条「労働者供給事業の禁止」に違反しているとの疑惑もあり、私は刑務所の塀の上を歩く毎日でした。新産業創造の道は険しく、規制と戦い続けること20年、人材派遣事業がようやく社会に認知されたわけです。
1988年(昭和63年)には、株式公開を決意、翌年には1989年(平成元年)には、長野県茅野市に蓼科テクノパーク(工場)を開設、中堅企業への道を歩みだしたのです。

株式の公開=成長期

 当時私は、社業の発展に伴い、会社とは、経営者の役割とは、組織活動についてなど、いろいろな経営上の悩みにぶつかったなかで、会社を「私個人の会社から脱却して公の企業」にするにはどうしたらよいかを真剣に考えていました。
また、時を同じくして経営者仲間が公開の準備をしていたり、株式公開を達成したことや、「株式を公開すると会社が大きく変わる。
公開している企業は未公開の会社とは内容がまったく違う」と教えてくれた友人の話も大きな刺激となっていました。
同時に、「企業のあるべき姿とは何か」を追究していた私は、「社会から認められる会社」にしなければという強い思いにかられていました。

「技術者の人材派遣や技術請負を行っているこの業界が、労働者派遣法の制定により認知されたいま、市民権を得てさらに発展していくためには、わが社の株式公開がその一助になる」と考えたからです。

 そこで、1988年(昭和63年)の春に社員に株式公開の計画を発表、翌年にプロジェクトチームを組み、全社を挙げてスタートしました。
私をはじめプロジェクトリーダーや役員は株式公開の参考書を買いあさって読んだり、すでに公開された会社の社長や担当者を訪問して体験談を伺ったりしました。そして株式公開セミナーを受けたりしながら、まず内部組織や各種規定の見直し、社員持株会社の開設、資本政策の研究をはじめました。
どこで情報を得たのか、証券会社や監査法人、キャピタル会社がひんぱんに来社するようになったのもこの頃からであり、マイカンパニーからアワーカンパニー、そしてユアカンパニーへと内部管理体制の整備を進めていったのです。

 しかし、プロジェクトのメンバーや経理など株式公開に直接関係する社員以外は、何をどうしていいかわからず、右往左往することも多かったのも事実です。
これまで是としてやってきたことのなかで、改めて監査法人や幹事証券会社に改善を指摘され大あわてすることも多々ありました。一番苦しかったのは、バブル崩壊後の大不況のなかで安定した右肩上がりの業績を上げることでした。また株式公開の公開基準を満たすためには、「私」の部分を『公』に変えていく必要があり、商法や証券取引法に従って資産や会計を処理し、人事面においても制約も受け入れなければなりません。さらに、発行株数や株主数も基準をクリアし、安定株主対策のための株主探しもやらなければなりませんでした。

2000年9月東証二部に上場

 株式公開を決意してから8年、1996年(平成8年)6月、念願の株式の店頭公開を達成しました。苦労した分、株式公開により得たものは大きいと肌で感じました。株式公開により信用力が増大し、受注、人材募集、資金調達を容易にしてくれたのです。
公開達成の要因を振り返りますと、まず「なに故に株式を公開するかの理念を明確にもっていたこと」、さらに「その理念にそった強い信念をもっていたこと」、またそれを「執念としてあきらめずに貫き通したこと」でありましょう。
 また、この時のキャピタルゲインやその後の役員退職慰労金などの私財は「社員教育のため活かしたい」との思いから会社へ寄付し、それにより基金(松井基金)が設立されるなど、「企業は人なり」であり人材育成に力を注ぐという信念に変わりはありません。

 その後2000年(平成12年)9月には東京証券取引所市場第二部に、2004年(平成16年)12月には同第一部に上場を果たしました。私自身は店頭公開を期に社長を退任、会長として後任養成と引継ぎをおこない、2006年(平成18年)3月には、経営の第一線を退き、創業者 最高顧問として大局的な視点から助言をしたり、相談に応じたりしています。

2004年12月東証一部上場

左:創業者 松井利夫
 その後、当社としては、2006年5月に、私が16年前に立案・企画しました新スタイルの老人ホーム「アルプスの杜(もり)『綾瀬』」がオープンし、高齢化社会への対応もスタートさせました。また、少子高齢化に対応するため、国境を越えた優秀な人材のグローバル化を目指し、日本国内にとどまらず、世界を視野に入れた人材ビジネスを展開しています。そのため、2004年(平成16年)には、中国青島科技大学と技術提携し、アルプス国際機械設計エンジニア教育センターを設立しました。ここにもまた、新たな規制との戦いがありますが、ウェルカム・トラブルをモットーに、希望、理想と勇気を持って挑戦していきます。

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保険料支払わないで給付が受給出来る:これぞ善政!雇用保険法「求職者支援制度」を活用すべき

2011/10/06 21:51
社会保障相談室90

雇用保険加入してなくて保険料支払わないで,雇用保険の給付が受給出来る制度があるとのこと、本当でしょうか。

回答

雇用保険には現在二通り保険料を全く支払わなくても、給付は受給出るといううれしい制度があります。

新設された「求職者支援制度」と従前からあった「64歳を超え満65歳未満で採用された場合」の二通りです。


T、新設された「求職者支援制度」は本年10月1日施行されました。

◎求職者支援制度とは、失業中の雇用保険未加入の方加入期間が足りず雇用保険の給付を受けられなかった方雇用保険の受給が終了した方学卒未就職者や自営廃業者の方等に対し、

(1)無料の職業訓練(求職者支援訓練)を実施し、 全ての日程受講することが条件で、

(2)本人収入、世帯収入及び資産要件等、一定の支給要件を満たす場合(本人の月額収入8万円以下、世帯の収入合計月25万円以下又は金融資産300万円以下)は、職業訓練の受講を容易にするための給付金(職業訓練受講手当 月額100,000円  通所手当  訓練所への往復交通費)を支給するとともに、

(3)ハローワークにおいて強力な就職支援を実施することにより、安定した「就職」を実現するための制度です。

o平成23年10月1日以降に開講する訓練及びその受講者から求職者支援制度の対象となります。

●「求職者支援訓練」又は「公共職業訓練」の受講内容

「求職者支援訓練」は、民間の機関が実施する職業訓練で、就職に直結するようなスキルを身につけたり、資格取得を目指したりするコースが用意されています。受講料は無料で、テキスト代のみ実費負担になります。

求職者支援制度の前進制度である「緊急人材育成支援事業」が実施した職業訓練(基金訓練)の例として、次のようなものがあります。
・職種に関わりなく再就職に必要なITスキル等(文書作成、表計算・図表作成、プレゼンテーション制作など)を習得するための3か月程度の訓練

・医療、介護・福祉、IT、電気設備、農林水産業、その他地域で必要とされる人材に求められる基本能力から実践能力までを習得するための3か月〜1年程度の訓練

・社会教育、環境保全などの社会的事業等分野で就職したり、事業の担い手となるために必要な技能を習得したりするための3か月〜1年程度の訓練(以上、中央職業能力開発協会HPより)

「求職者支援訓練」は、専ら就職に必要な基礎的な技能及びこれに関する知識を付与するための職業訓練(基礎コース)と、基礎的技能等並びに実践的な技能及びこれに関する知識を付与するための職業訓練(実践コース)に分かれて実施されます。

◎手続き

@ハローワークへ行き求職の意思表示
A訓練コース選定:受講申込:ハローワークで確認受ける
B受講申込書を訓練実施機関へ提出
C実施機関面接、選考
D合格したら求職者支援計画書をハローへ
E訓練受講、指定日にハローにて確認
F月額10万円及び交通費支給


U、満64歳以上の高年齢被保険者は、当該年度の雇用保険料が免除されます

雇用保険適用事業所に満64歳以後65歳未満で就職した場合、雇用保険には加入となりますが、保険料は免除されます。
新規加入でもその年の4月1日にすでに64歳であれば、これは保険料が免除されます。
なお満65歳以上の新規雇用された方の場合、雇用保険は適用除外となり加入出来ません。
従って保険料支払う必要は全く発生しません。その代り給付も全くない。

しかし、65歳未満から継続して勤務している方は高年齢継続被保険者として雇用保険料は免除対象高年齢労働者となり免除され、(会社も本人も支払う必要がありません)退職後は失業手当(基本手当)が支給されない代わりに高年齢求職者給付金が一時金で支給されます。

以上から、質問の様に満64歳を超えた年齢で就職した方は、雇用保険料を満64歳以上ですから支払わず、例えば66歳で退職した場合、高年齢求職者給付金が受給出来ます。

年以下は基本手当30日分、1年以上は50日分。
基本手当日額が6,000円の場合、
・満65歳以上で退職したときは、6,000円×50日=30万円となります。
☆65歳未満で受給する失業手当の様な厚生年金保険との調整はありません。
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西北の風を東北へ…耐震設計を引き継ぐ早稲田魂

2011/09/21 16:55
第T部、早稲田の技術伝統…

早稲田大学校友広報誌:西北の風 2011年9月号7面「塔博士から続く技術」東京スカイツリー

建設中の東京スカイツリーは現在高さ634メートル。
自立式電波塔として世界最高の高さとなっている。
この超高層建造物にも早稲田大学の校友も大きく関わる。

管理者として活躍する日建設計の山崎淳さんは82年理工学部卒。
同社亀井忠夫さんは77年同学部卒でタワーデザイン統括を担当する。
二人はそれぞれ「前例のない挑戦、日本の技術力ややれば出来るということを伝えたい」「日本人の美意識を大切にした意匠、人と人の係わりを生み出す建造物にしたい」と期待を込めている。

新東京タワーといえる東京スカイツリーだが、本家「東京タワー」を設計した塔博士「内藤多仲博士から続く早稲田の研究:技術は最先端の塔にも脈々と受け継がれている。

第2部、塔博士は耐震設計の大先達。「耐震構造の父」と評される。


通天閣と東京タワーを設計したのは、内藤多仲(ないとうたちゅう・1886〜1970年)で、26歳で早稲田大学の教授に就任した山梨県出身の人です。
設計した通天閣は昭和31年、東京タワーは昭和33年に完成しています。

1917-1918年、アメリカへ1年間留学。
旅行用トランクの仕切板を外して積んだためトランクを壊してしまった体験や船の構造から着想を得て、帰国後に耐震壁による耐震構造理論を考案した。
1924年、「架構建築耐震構造論」で工学博士号を取得。

この耐震構造理論を用いて耐震壁付き鉄骨鉄筋コンクリート造の日本興業銀行本店(渡辺節設計、1923年竣工)や歌舞伎座等の構造設計を実施。
興銀の竣工3か月後に関東大震災が起こるが、丸の内にあったアメリカ流の鉄骨造ビルが大きな被害を受けたのと対照的に、興銀が無事だったことで内藤の理論が実証された。
(歌舞伎座は建設工事中で、内部を焼失したが、躯体は無事だった)

戦後は東京タワー、通天閣(二代目)など多数の鉄骨構造の電波塔・観光塔の設計を手がけ、「塔博士」とも呼ばれた


第3部 早稲田大学管理の旧自邸の「内藤多仲博士記念館」

現在、新宿区若松町には早大が管理する旧自邸の「内藤多仲博士記念館」がある。
耐震構造理論のきっかけとなった同型の古いトランクなどとともに、東京タワーの構造設計図が置かれている。

当時、計算はすべて計算尺で行われた。
図面には計算数値が細かく書き込まれている。
「重くならず、鉄骨の材料が少なくて済むよう、安定した構造が合理的に設計されている」と山田教授は言う。

 タワーを運営する日本電波塔専務、北川映さん(68)は、衰えない人気の理由を「変わらぬ姿でいつでもそこにある。末広がりの造形と安定感も安らぎを与えるのではないか」と話す。
 出身地の南アルプス市櫛形生涯学習センターには、75分の1の東京タワー模型と博士の顕彰コーナーがある。元市社会教育委員長の内藤貴夫さん(82)は「貧しい地域だっただけに働き者が多かった。博士は人の2倍勉強することを自らに課したという。地域の学校は修学旅行で必ず東京タワーを訪ねている」と話している。 (朽木直文)

<内藤多仲博士記念館> 旧内藤邸。

新宿区若松町22の6。1926年建造。
耐震・耐火を考慮した日本初の壁式鉄筋コンクリート造り。
通常非公開。また新宿区喜久井町には早大の内藤博士記念耐震構造研究館があり、博士の研究資料が所蔵されている。


第4部 実績

1923年 日本興業銀行本店(設計:渡辺節、構造設計:内藤、現存しない)
1923年 歌舞伎座(設計:岡田信一郎、構造設計:内藤)
1924年 実業之日本社ビル(設計:佐藤功一、構造設計:内藤、現存しない)
1925年 NHK愛宕山放送局鉄塔(設計:木子七郎、構造設計:内藤、現存しない)
1925年 東京電灯千住火力発電所(現存しない)
1926年 早稲田大学大隈記念講堂(大隈講堂)(設計:佐藤功一・佐藤武夫、構造設計:内藤、国の重要文化財)
1926年 内藤邸(設計:木子七郎、構造設計:内藤)
1927年 NHK新郷放送所鉄塔(設計:今井兼次、構造設計:内藤、現存しない)
1927年 東京地下鉄道上野駅(設計:東京地下鉄道建築課、構造設計:内藤)
1930年 明治生命館(設計:岡田信一郎、構造設計:内藤)
1930年 日本銀行本店増築(設計:長野宇平治、構造設計:内藤)
1933年 大丸百貨店心斎橋店(設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ、構造設計:内藤)
1936年 大阪放送会館本館(設計:渡辺仁、構造設計:内藤)(2002年取り壊し)
1938年 日本製鉄輪西製鉄所第四火力発電所(現存しない)
1938年 日本航空格納庫(現存しない)

戦後
1953年 旧東京厚生年金病院(設計:山田守、構造設計:内藤、現存しない)  
1954年 世界平和記念聖堂(設計:村野藤吾、構造設計:内藤、戦後建築初の重要文化財)
1954年 根津美術館(設計:今井兼次、構造設計:内藤)
1954年 神戸新聞会館(設計:村野藤吾、構造設計:内藤、現存しない)
1954年 名古屋テレビ塔(国の登録有形文化財)
1956年 通天閣(二代目)(設計:竹中工務店、国の登録有形文化財)
1956年 別府タワー(国の登録有形文化財)
1957年 さっぽろテレビ塔
1957年 山梨県民会館(設計:内藤・明石信道、現存しない)
1957年 早稲田大学内藤博士記念耐震構造研究館(設計:内藤・明石信道)

1958年 東京タワー(設計:内藤・日建設計)
1961年 甲府市役所1号館(現存しない)
1962年 總持寺大祖堂(設計:田辺泰、構造設計:内藤)
1962年 早稲田大学文学部校舎(設計:村野藤吾、構造設計:内藤)
1963年 山梨県庁舎(設計:内藤・明石信道)
1963年 博多ポートタワー
1963年 日生劇場(設計:村野藤吾、構造設計:内藤)
1964年 東海大学校舎(設計:山田守、構造設計:内藤)  
1965年 新宿区役所(設計:内藤・明石信道)
1965年 八重洲ダイビル(設計:村野藤吾、構造設計:内藤)


内藤語録…
積み重ね、つみかさねても、またつみかさね」

「複雑な仕事ほど、一度たちもどって最もシンプルなところから眺めることが必要だ」

多仲が建築家として一躍脚光を浴びるようになったきっかけは、大正12年関東大震災でのことでした。東京中が瓦礫の山と化す中、多仲が手がけた建築物はほとんど被害を受けなかったのです。

耐震設計…
安全性に優れた多仲建築の原点は、愛用のトランクにありました。
アメリカ留学から帰国の途に着く際、船上で嵐に遭遇した多仲は、激しい揺れにも関わらず全く壊れなかった愛用のトランクを見て、中蓋が隔壁となって衝撃を吸収しトランク全体の変形を防ぐ役割をしていることを発見します。その後、この原理を建築に応用し、今では当たり前になっている「耐震壁」を用いた構造理論を発表しました。

戦勝国に負けるな日本 :早稲田魂が突き進んだ…

 そんな彼のもとに舞い込んできた東京タワー設計の依頼。
示された条件は、当時世界一の高さを誇っていたエッフェル塔の高さ318mを超える高さの塔を建てること。
「高さ」と「安全性」の両立、この難題に多仲はたった一本の計算尺で挑みます。
3ヶ月間、弟子たちと共に設計に没頭。膨大な量の構造計算を計算尺でこなし、1万枚にものぼる設計図を書き上げました。

緻密に編み込まれた鉄骨が複雑な幾何学模様を描きながら、頂点へと収斂していく曲線美、そして高さ333mという美しい数字の並び。
それらは、初めから意図していたわけではありません。「無駄のない、安定したものを追及していった結果出来たもの」「いわば、数字の作った美しさ」であると、後に多仲は語っています。

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71歳 正規雇用されました。労働保険、社会保険はどうなるのか? 給与はどの位が年金に影響ないですか?

2011/08/30 10:40
社会保障相談室89

71歳になりますが、ここで正規職員に採用されます。

労働保険、社会保険はどのようになりますか。また給与はどの位が年金との関係で良いでしょうか?


回答

71歳ですか。
正規職員に採用され誠におめでとうございます。

若者の就職難、震災による失業など社会不安の多い中で、70歳を超える高齢者が雇用、それも正規職員とはすばらしい。科学関係の高い技術:専門性を有しているとは言え見事です。
健康に十分ご留意され社会の為がんばって下さい。

さて71歳の正規職員採用に関しての諸手続きですが…

@、労災保険

労働者災害補償保険、これは正規:非正規、年齢問わず対象になりますので加入します。
保険料は事業主が支払います。
手続きは、特にここで必要ではなく、来年の労働保険年度更新の際、確定保険料計算の中で1名正規職員として賃金総額が増加し、保険料に反映されます。

労災保険は労働者を守る保険ですが、それ以上に事業主を守る保険です。しかし事業主によってこれを毛嫌いする方もいられますが、自分を守ることがいかに経営上大切か。
労働災害は法的に経営者に責任が求められます。
莫大な医療費が突然事業主に…
中小、零細企業は事業主がどれほど心身健在か、法的ガードを固めるかが勝負。



A、雇用保険


雇用保険には加入しません。

65歳以上になってから新たに採用された場合、雇用保険の対象にはなりません。
雇用保険加入の最大のメリット失業保険と言われる「基本手当」が65歳以上の方には支払われません。
一時金の高年齢求職者給付金が代わって支払われるのです。

以下65歳以上の方の雇用保険非加入の法的決まりがあります。

雇用保険法第6条
(適用除外) 次の各号に掲げる者については、この法律は、適用しない。
 一 65歳に達した日以後に雇用される者

(同一の事業主の適用事業に同日の前日から引き続いて65歳に達した日以後の日において雇用されている者 及びこの法律を適用することとした場合において第38条第1項 に規定する短期雇用特例被保険者又は第43条第1項に規定する日雇労働被保険者に該当することとなる者を除く。)

64歳から継続雇用されている方は高年齢継続被保険者として保険料は支払わない被保険者となります。
高齢者雇用促進のため、満64歳(4月1日時点)である被保険者は、雇用保険の保険料が免除となるだけです。

これは被保険者だけのことではなく、事業主つまり会社も雇用保険料負担をしなくてよくなります。

65歳以上の方が、継続ではなく新規雇用された場合は雇用保険に新規加入することはできません。

65歳以上の人の新規加入を認めるべきとの声も多いことから労働関係審議会で審議はされていますが、法律改正は今後の課題です。

B、健康保険
これは加入します。
75歳からは悪評の後期高齢者保険に移行しますが、それまで正規職員として健康保険に加入します。
手続きは会社総務の方が年金事務所適用課で行います。
通常の健康保険被保険資格取得届です。


C厚生年金保険

○加入出来ません。70歳未満までが厚生年金被保険者の対象です。
300月の年金受給資格が不足する方は特別に「高年齢任意加入被保険者」として300月になるまで認められます。

◎しかし、厚生年金保険の在職老齢年金制度は適用になります。
これは平成19年4月法改正で、70歳以上の正規職員は厚生年金の被保険者にはならないが、在職老齢年金制度の適用はさせることとなったのです。

●対象は、年月日が昭和12年4月2日以降であって、70歳以上である人。(すなわち平成19年4月1日時点において70歳以上の方は対象外。)

手続きは勤め先の方で行います。
@「厚生年金保険70歳以上被用者該当届」を5日以内に提出します。

70歳以上被用者該当届が必要なのは、65歳以降の在職老齢年金(高在老)の支給調整制度を70歳以上の被用者にも準用するために平成19年4月に施行された制度です。
高在老制度の準用適用対象を施行時点で70歳未満としたため、昭和12年4月1日以前生まれ(平成19年4月1日時点ですでに70歳以上)は届出の対象から除かれたからです。
従って、昭和12年4月1日以前生まれについては、高在老による支給調整は行われません。

対象は…
•会社が厚生年金の適用となっており、勤務日数および勤務時間がそれぞれ当該事業場で働く一般の従業員の概ね4分の3以上であること。(70歳未満であれば厚生年金の適用となる社員、役員のこと。)

•過去に厚生年金保険の被保険者期間がある人

A賞与や給与が2ランク以上高低した場合
「厚生年金保険70歳以上被用者月額変更・賞与支払届」を提出します。

B7月1日に70歳以上の対象者を雇用している時「厚生年金保険70歳以上被用者算定基礎届」を提出する。
期限は毎年7月1日から10日までの間

C対象者が退職した時
「厚生年金保険70歳以上被用者不該当届」を5日以内に提出する。
同時に「健康保険被保険者資格喪失届」も提出する。

D在職老齢年金の仕組み

65歳以上の人が適用になる在職老齢年金と同じしくみですので、「老齢厚生年金の基本月額、プラス総報酬月額相当額」、=「年金の2階部分にある厚生年金、プラス年収の12分の1」が46万円を超えた時、その超えた分の2分の1の金額を年金(2階部分の厚生年金)から支給停止されます。

国民年金の老齢基礎年金や企業年金を除いた部分と、月収が合わせて46万円もないという人は、年金が全額支給されます。

つまり年金の「報酬比例部分のみが在職老齢年金制度対象」なので、例えばこれが年金総額は月額20万円でも報酬比例部分が10万円ならば46万円−10万円すなわち36万円の賃金総支給額=標準報酬がぎりぎりの線となります。
給与30万円ならこの方全く支給停止の心配ありません。



71歳 ばりばり現職 自分の時間、家族友人との時間、そして労働時間、充実した人生、有意義にがんばってください。

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生き残るためには差異化こそ…小さな会社が大企業にも勝利するポーターと今瀬勇二の競争戦略

2011/08/25 06:59
…中小企業が生き残るには、他社と絶対ここが違うという製品:サービスの「差異」を明確化すること。
顧客のニーズに対応するため、どのような設備、能力を保有するか、自社で足りない能力を付加しなければならない…

明日香出版 発行  今瀬勇二著「小さい会社こそが勝利する ポーターの競争戦略」
221ページ1,500円 を読む


日本の企業の99%は中小企業だ。
元気な中小企業なくして日本経済はなりたたない。
日本中を経営コンサルに東奔西走する今瀬勇二先生の中小企業を、日本を元気にする渾身の力作。
マイケル・ポーターの「競争の戦略」をベースに先生独自のマーケッティング戦略論を融合させ、非常に分かりやすい著作となっている。



第1章34ページではポーターの戦略=競争のやりかたを紹介する。


◎競争環境を分析するファイブフォースモデル
=業者間敵対関係、新規参入の脅威、代価品の脅威、買い手の交渉力、売り手の交渉力

☆分析の結果から3つの基本戦略のいずれかを構築し自社に導入する
 =コストリーダーシップ戦略、差別化戦略、集中戦

●顧客が今の製品やサービスに感じている不がニーズ
●不具合、不快、不自由などの不
●これをいかに自社の能力で解決し顧客に満足させるか=売り手が買い手に強くなれる

※差別化の例にマクドナルド:モズバーガー
  輸入牛肉で低価格のマックに対して、国産、安全を売るモスの差別化が顧客を呼ぶ。
※集中戦略の例にブルドックソースとオタフクソース
お好み焼きというニッチ市場で差別化を確立し巨大ブルドックに対抗

第2章33ページでは環境別:タイプ別にふさわしい競争戦略を展開

…業界は5つのタイプに分類されそれぞれふさわしい競争戦略がある
@多数乱戦業界=意思決定のスピード、設備標準化、付加価値高く、専門化集中化
A先端業界=秩序つくり、自社中心に、流通と原材料業界を味方に
B成熟期移行業界=成長期と違い成熟期は難しい、原価分析、製造工程革新、購買層拡大、国際化等ますます3つに基本戦略の選択が必要になる

…ここで「小さな会社の元気な例が紹介される…藤沢のトーカイ社はたとえ1冊からの注文にも応えるお客様ニーズを探り続け発展している由。
この「小さな会社の元気な例」コラムにて著作全体で16社紹介されている。
今瀬先生の豊富な経営相談実践編のホームページでもいつも元気な会社の紹介があるが、難しい理論に当方がまいっている時、このコーナを見て鮮明に理解でき元気ももらえて明るくなる。この著作では実に深く細かい調査によって16社の成功事例が紙面にかつを入れている。


C衰退業界=リーダーシップ発揮、ニッチ確保、刈り取りと迅速な撤退決定
Dグローバル業界=生産移動、特定国集中、安全地帯

第3章18ページでは今瀬経営の核心部分「コアコンピタンス」詳細が綴られる。

@コアコンピタンスとは
=独自の生産技術、ノウハウ
=販売、経営管理のノウハウ
=人材スキル
などが組織の中で一体となった能力で、他社に真似のできない企業内部に秘められた固有のスキルや技術の集合体

Aコアコンピタンこそ市場で競争優位を確立する中核的能力。
例=アクスル社の良質な商品サービスと特異な商品開発力
  シャープ社の液晶技術と開発の仕組み
◎自社のコアコンピタンスを確認→未来洞察し顧客ニーズを5から10年スパンで把握
◎ストレッチ戦略=目標共有しやるき引き出し=背伸びし高める
◎ビバレッジ戦略=限られた資源を有効活用=顧客ターゲットに焦点

例=ゼロックス社の会社ターゲットに対抗しキャノン社の机のそばのコピー機ターゲット
小さな会社の元気コーナーでは栃木県足利の丸信工業社のアルミ装飾の生産から文化への拡充の例が紹介された。
生産からの受注も重要だが文化受注はヒットすれば途方もない益を生む。
ブログ氏…都市間競争で公共財に投資し文化部門は忘れられているが文化こそコンピタンス化に成功すれば競争に勝つ。京都やパリ、ローマには永遠に観光客が訪れお金を落とす。
 
第4章28ページでは「競争戦略とマーケティング」がテーマ


標的市場の選定、位置づけの重要性とその実践例としてマクドナルドのコーヒーが語られる。
そしてビジネスモデルを作ることが事業のコンセプトとして大切との論が展開する。
リーダー位置、チャレンジャー位置、フォロワー位置、ニッチャー位置による目標設定、定石、ターゲット市場の相違に基づく競争戦略

☆リーダーは価格による競争を避けるのが鉄則…例としてプリウスの価格引下げの失敗
☆チャレンジャー位置の例ではアスクルはコクヨの問屋網に対抗しオフイス直販のビジネスモデル構築し成功
☆ニッチャー位置では、独創性ある車の富山「光岡自動車」の例が紹介される。

第5章32ページは実践編として待望の「小さな会社を強化する方法」がテーマ


…中小企業の常道は「差別化集中戦略」である。

コア・コンピタンスは、顧客層との関連で、その活用の方策を考える。
ニッチ市場の王者を目指せ、
ビジネスの継続性、製造して終わりでなく、儲かる仕組みはリピートにつながる
ポーター曰く「日本の企業は全部の人に全部を提供する…コンセプトが不明瞭

この章には「小さな会社の元気な例」が最も多く6社も紹介されている。

@埼玉の不二運輸=運輸業に付加価値「不良品の補修」という顧客の不に対応し差別化

A山形の冨士工業=多品種小ロット生産の集中化:製缶:板金:溶接技術の融合技術特化

B神奈川のアトリエヨシノ=独特の企業ドメイン…バレエの衣装企画、製造、レンタル

C東京のトラウム社=大学のフットボールチームを年代ごと採用、組織構成する商社

D我が平塚市の日本ワコン社=水処理プラントメーカーがイオン交換樹脂付加価値化
E埼玉のパルオネスト=処方箋薬局、私鉄沿線ニッチ化、真実の瞬間を企業使命に

第6章26ページは、事業承継編

☆日本の社会的特徴として、第1線経営者の高齢化により一斉に事業承継の時期を迎えている。

☆引き継ぐものは@培ってきた事業のハード面財産、そしてAはコアコンピタンス経営能力…以上2つの承継では言うまでもなくAの方が重要。然し多くの場合@に主力が置かれている。

☆先代への絶大な尊敬の念が一番承継の基本。
☆後継者の心すべき組織活性化要件=@共通目的、A協働意欲、Bコミニケーション

☆失敗要因=@後継者の選択ミス、A後継時期判断ミス、Bリスクマネジメント不足

☆事業承継理想のプロセス=@使命明確化、A経営ビジョンを文章化、B先代後継共同の経営改革策定、C以上を組織内に浸透させ共有化

第7章22ページ最終章は、新規事業開発編

◎企業は常に発展を求められている。
◎5つの脅威を分析確認し、新規事業に進出を
@業界内部敵対関係、A新規参入の脅威、B代価品の脅威、C買い手の交渉力、D売り手の交渉力

◎差別化集中化

◎新製品、新サービス

今瀬先生は最後にこうまとめている。

…発展する企業は、経営理念が明確で全社員がその理念に基づき事業活動をしている。
自社に内在する能力を顧客の利便性を高める製品やサービスに活かし、その創造を考えて
いる。常に顧客の不を感じ取り、不を解決する新製品や新サービス作りを考えている。
難しい時代だからこそ競争戦略が一層求められている…


競争戦略を的確に展開する経営者の手元に置きたい本書はまさ参謀役である。


マイケル・ポーター

ミシガン州アナーバーにて生まれ、上級軍人である父親と共に世界各地を渡り歩いて育った。
1969年にプリンストン大学航空宇宙機械工学科を卒業。
高校時代にはアメリカンフットボールと野球で州代表に、大学時代にはゴルフで全米代表(NCAA)チームに選ばれるなど運動能力も抜群だった。

1971年、ハーバード大学にて経営学修士号(Master of Business Administration)を取得した。
1973年には、同大学大学院にて経済学博士号(Ph.D. in Business Economics)を取得した。
1982年には同学史上最年少の正教授となる

アメリカを中心に世界各地で多くの国や州の政府、および企業の戦略アドバイザーを務め、ファイブフォース分析やバリュー・チェーンなど数多くの競争戦略手法を提唱した。

代表的著書である『競争の戦略』は戦略論の古典として今日でも多くの経営者や、経営学を学ぶ学生の間で利用されており、MBA取得者が選ぶお薦め経営学書ランキングで第1位を獲得している。

1980年代にはアメリカの競争力強化に関する大統領諮問会議に出席。
その結論を不満に思い、独自の研究を重ね「国の競争優位」を出版する。
そこでは国の産業優位を構築するクラスターの形成と衰退の実例を分析し、産業分析の研究に多大な進歩をもたらした。



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文明が進むほど天然の暴威による災害はその激烈さの度を増す…寺田寅彦著「天災と国防」を読む

2011/08/04 14:59
講談社発行  寺田寅彦著  「天災と国防」   204ページ

 昭和8年から9年にかけて寺田寅彦が著した「天災と国防」は、正に今回の東日本大震災にあてはまる。
80年近くなるがまったく輝きを失っていない名著である。


1、自然変異の現象

  一家なり一国なりに、ある年、災禍が重複し襲う、または全く無事な回り合わせもある、これは純粋な偶然の結果としても、当然期待されうる「自然変異」現象である。
悪い年回りはいつかは回ってくるのが自然法則。

これほど明白過ぎるほど明白でも、人はきれいに忘れるものだ。
個人なら個人の哲学に任せても、一国の為政の枢機に参与する立場にある人びとだけにはこの万人の健忘症に対しての診察だけは常々怠らないようにしてもらいたい。

2、文明が進むほど天然の暴威による災害はその激烈さの度を増す

 太古の時代、人間は頑丈な岩山の洞窟に住んでいた。
大抵の暴風雨でも地震にも平気だった。
単細胞生物は個体を切断されても各々が平気で生命を持続させる。
高等生物になるに従い、そうもいかなくなり融通がきかなくなり、一針でも打ち所により生命を失う。

文明化した国家の様な高度の有機的結合体は、その有機的一部分の損傷が体系全体に深刻な影響を及ぼして大被害となる。
文明が進むほど天然損害の程度も累進する傾向がある事実を十分に自覚し、平年にその防御策を講じておかなければならない。しかしそれはいっこうにできていない。
天災が忘れた頃にやってくるからである。

3、陸海空軍の充実と同じように科学的国防にも充実を

 大都市機能が崩壊した安政の大地震の頃と現代では道路網、水系、電気エネルギー等文明の高度化が違う。
従って天災の損害も計り知れない。

それらが一挙に破壊され有機体の機能が停止し生活上の地獄が到来するであろう。
安政には電気も水道も鉄道もなかったのだ。
それでも江戸の都市機能は崩壊した。

国家の安全を脅かす外敵に対して軍備を充実させるように、必ず襲う天然の災害に対しても安全防御策を充実させるべきである。
科学的国防常備軍は、陸海空軍に負けずに、日常の訓練、研究により非常時に常に備えなければならない。
外敵に対しての大和魂はすなわち、手強い天然の災害という敵に対する挙国一致の科学的研究と対策を講じることこそ現代にふさわしい大和魂である。

4、古今東西を通じ歴史という歴史はほとんどあらゆる災難の歴史である

日本人を日本人たらしめているのは、実は学校でも文部省でもなく天然の災難による教育であったかもしれない。

地震津波台風のごとき西欧文明諸国には全くとはいわないが我が国ほど頻繁には災禍を及ぼさない。
日本は地理上、地球物理学上、気象学上極めて特殊な位置にある。
それが外交上特殊な防御を必要とさせている。

同じように自然環境にも支配され、絶えず脅かされなければならない宿命にあるのである。
しかしこのことが一面良い方向に影響を国民性に及ぼしているのも否定し難い。
数千年来災禍の試練により日本国民特有のすぐれた諸相を生んでいるのも事実である。

5、津波石碑

 明治29年(1896年)、三陸大津波に襲われたある地域では、大災害の記念碑を建てた。
それが今では二つに折れ倒れたままころがっていた。
碑文など全く読めなかった。
またある地方では、津波災害石碑を、山腹道路の通行人に目立つ様に建てられていたが、その後新道が出来、旧道も記念碑もすたれ、人の眼にはふられていなかった。

…宮古市姉吉の津波記念碑文「ここより下に家を建てるな」

今回の巨大津波でもこの記念碑の下で津波はとまったとのことである。
碑文の警告を守ったこの地域では1軒の被害もなかった


6、繰り返す巨大地震と巨大津波
   
 いつの世も巨大津波や巨大津波の直後には、時を移さず、政府官庁、ジャーナリスト、学者が駆けつけ、詳細な調査をし、対策が研究され発表される。

そして必ず何十年も経ると、それらの人びとは中枢から退隠する。
30年も毎日毎日朝日が昇り夕日が沈む平和な海が続く。
やがて高い所の人びとは海岸近くが便利だと居を移す。
人間界の人間的自然現象でもある。

しかし自然はそれ以上に過去の習慣に忠実である。
保守的で、頑固で、執念深く、必ずやってくるのである。


人間が忘れないような寿命が数百年も生きるか、忘れないように努力するしかない。
世界最高の地震国であるからには、小中学校で1年に1回は地震津特別授業があるべきである。
それこそ愛国教育だ。

7、3現と3ナイ:3日、3年、30年、300年

失敗学の権威:工学博士、東京電力福島第一原子力発電所の事故調査委員会委員長に就任の畑中洋太郎氏の解説が寺田分析に負けずに面白い


{3現と3ナイ}


ある事物、現象の正しいモデルを自分の中に作るには、現地まで足を運び、現物をみてたり触れたりし、現地の人の話を聞くことが肝要である。
メデアや専門家の書物等を利用しながら事物や現象を理解するのはいかにも楽そうである。
しかしこれは錯覚である。
歩かない、見ない、考えない、つまり3現とは対極にある観察姿勢である。
目的意識の強さ、自分で実際の体験から感じること、自分の頭で考えること、主体的姿勢が根本から欠しまう。

{人間の忘れっぽい法則}

3日坊主→個人記憶は3年で段々忘れる→組織記憶は30年で減衰する→社会記憶は300年もたつとなかったこととなる→まして1,000年も経過しては…

{自然の法則:事実}

この100年間で少なくても3回の巨大な津波が我国を、特に三陸海岸を中心に襲っている。
1896年明治三陸大津波
1933年昭和三陸大津波
20111年東日本大震災巨大津波
そして869年には貞観大地震巨大津波が襲っている。

{リスクホメオスタシスの法則}

 交通事故は何故亡くならないか?
交通規則を厳しくし取締りを強化しても、道路を改良しても、車の安全装置を充実させても、交通事故率は変わらない。
何故か、それは安全になったことから生じる新しい危険によって事故が増えるからである。
機械やシステムが進歩した分、人間のそれらへの依存度が高まり、そのことが逆に危険を大きくするのである。
事故やトラブルのエネルギーが大きくなるのである。
従来考えられなかった大きな事故を呼ぶのだ。

{外部基準と内部基準}

 マニュアル外部基準は「このルートをとれば安全」として 他のルートを許さない安全確保の考え方である。
しかしなにかのトラブルでルートが壊滅したらとたんに使えなくなる。
思考停止状態になってしまう。

想定外の非常事態が起ったらどうするか正しい行動基準を自分で作り上げておくことが重要である。
すなわち内部基準である。
危険を避けることを自分で見つけられるようにしておくことである。

福島原発事故の例は長期政権の外部基準に極端に頼っていて、東電独自の内部基準を全く持たなかったことからの人災でもある。
巨大地震と巨大津波は避けることが出来なくても、充実した内部基準を持っていればこれほどの悪化事故にはならなかったと思われる。
組織不良が起こした巨大人災である。

自然災害には目を前に向け付き合い、そこから多くを学ぶことが賢い生き方である。

…昭和の始めの著作である。
 しかしそれから東京も、東北も、阪神も、広島も長崎にも、日本中を何度となく自然及び人間による大災害が襲った。
 寺田寅彦の予言は正に的確である。
 しかしここから学ぶ姿勢が弱ければ、強敵に負けるだけである。
 世界最大の被爆国でありながら今も放射線にうろたえている。
 寺田の言うとおり、畑中の語るとおり、それでも日本人はそこから学び逞しく生きていくことが出来るだろうか
 全国民が正念場にいることは間違いない、皆それは承知している、していないのは政治家だけだ…
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早期発見か:がん誘引医療被曝か 原発事故どころではないCT診断放射線被爆の実態

2011/07/30 07:15
がんと医療診断放射線被爆の恐ろしい関係と日本の医療診断体制のより恐ろしい実態が報告されていた。

福島第一原子力発電所事故の7年前… 

平成16年2月10日 読売新聞1面:2面
がん発症の3,2%は医療診断被爆が原因 世界1の発症率  CT普及が背景


福島第一原子力発電所事故の4月前…

平成22年文芸春秋11月号 大型特集 医療の常識を疑え
P144〜P152 慶応大学講師近藤誠 著
衝撃レポート CT検査でがんになる



T、福島原発事故7年前…読売新聞1面2面

日本国内でがんにかかる人の3.2%は医療機関により放射線診断で被爆が原因のがん発症と推定されることが、国際的研究で明らかになった。

調査は英国オックスフォード大学チームが、15か国を対象に1191年から1996年の間調査を行い、日本の医療診断によるがん発症がもっとも高かいことが判明した。
英国医療専門誌 ランセント報告

CT(コンピュター断層撮影装置)の高い普及度が背景、2004年、国内に7920台配置されている。
研究は、放射線検査頻度、被爆量、臓器別がん発症、年齢等関係を調査、日本国内でのい医療診断によるがん発症は7,587件でがん発症者の3.2%に達しているが、英国では0.6%、米国では0.9%であり、日本の検査数は15国平均の2倍近く、がん発症は2,7倍と異常に高い。
この背景はCT検査装置の普及が日本では進んでおり、人口100万人当たり64台で最高、次位のスイスでさえ26台程度。

早期発見には確かに貢献しているが、この調査により、放射線被爆の恐ろしさも判明。
検査のあり方が波紋を呼びそう。
放射線を浴びると細胞が傷つけられがんを引き起こす。

原爆投下、ビキニ水爆実験による被爆では白血病に罹り、1986年チルノブイル原子力発電所事故では近隣住民に甲状腺がんや白血病が急増した。
検査をすればするほど収入増につながるが、CTの過剰検査は要注意、超音波など害のない診断への移行が望まれる。


U、4カ月前…文芸春秋11月号慶応大学講師 近藤誠 著 P144〜P152  

唯一の原爆被爆国でありながら日本は医療診断用放射線による被曝大国。
X線とCT検査を比較し、はるかにCTは被爆量が多い。200倍から300倍。
それなのにCT診断を受ける患者家族に知識がなさ過ぎる。検査する医師側も同様。
胸部CTの1回の診断による放射線被爆は10mSV。
10mSVから50mSVという低線量被爆で発がん死亡が増加することは99%証明されている。


15カ国40万人に及ぶ原子力発電作業従事者調査によっても、生涯の累積被爆線量が平均20mSVでしかないのに発がん死亡が増加している。
45歳の人が毎年75歳になるまでつまり30回CT検査を受けると、1万人中で190人が被爆により発がん死亡となります。

日本国内のCT存置は年1,000台ペースで増加している。世界の3分の1が日本にある
特に最新鋭の多列検出器MDCTが急増しており、今までのCTが一日数件の検査しか出来なかったのに比較し検査スピードが速く一日100件は可能になった。放射線量が高い程映像が鮮明になる。当然被爆も高まる可能性が高い。

そうなると読売新聞の記事の頃に比べ、被爆量は飛躍的に増加しているだろう。
がん患者の3.2%が診断被爆とされたが、現状はその2倍から3倍と考えられる。

とりあえずCTをという医師が多い。
原因は医療教育レベルが先進国中最も低いこと。
臨床能力が育たないシステムにある。
CT検査をすればするほど経済的に病院が潤う医療構造という要因もある。

日本のCT検査の80%から90%は正当化されていない。
CT検査の大部分は放射線被爆のないMRI磁気共鳴撮影で代替出来るなど放射線被爆のない手法や、医師の臨床能力を高め、より大切な問診、触診、聴診を充実させるなどの診断の基本方針の大変更が急務である。


…著者は文春文庫から「患者よ がんと闘うな」を発行している。
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任意と強制:国民年金かくも違う峻烈格差

2011/07/24 13:37
社会保障相談室88

夫の加給年金が妻に振替加算として移行することを聞きました。
しかしこの制度もやがてなくなると聞きびっくり。
私は大丈夫でしょうか。
昭和40年7月生まれです。

回答

昭和41年4月2日生まれ以降の方から振替加算制度はなくなります。
あなたは大丈夫です。しかし振替加算額は年間15,300円となります。

この頃ではさすがに周知されて来ておなじみになった振替加算。

夫の老齢厚生年金についていた加給年金が、妻65歳になると夫の年金から離れ、妻の方に移り、妻の老齢基礎年金に振替加算としてつくこととなる。

二人で相談に見えた夫婦、この話の確認に来たとのことで、説明を聞きながら、夫は無言、目が無念を語る、妻は笑顔を隠しながらうんうんうなずく。

さて、この振替加算は妻の年齢で金額が違う。
夫の老齢厚生年金についていた加給年金も一部分夫の年齢で金額が違う。

加給年金は、配偶者については定額の227、900円だが、特別加算としてつく額が年齢で昭和15年4月1日以前生まれは33、600円、昭和16年4月2日から昭和17年4月1日生まれは101、000円、昭和18年4月2日以降生まれなら168、100円等5段階制。つまり配偶者加算の227,900円+特別加算168,100円合計396,000円も昭和18年8月生まれの夫には加給年金が支給されている。

それが妻65歳になると、夫から妻に移行する。

そして金額は妻の年齢により、1年きざみの金額となる。
昭和15年5月生まれなら142,900円、20年5月生まれなら112,400円、30年5月生まれなら51、700円、昭和41年2月生まれは15,300円となり、年々激減、ついに昭和41年4月2日以降生まれの方には全く支給されない。
ゼロである。

65歳以降の女性の平均余命は20年以上。老齢基礎年金に加わる振替加算の重要性は言うまでもない。

一般に夫の加給年金の金額が振替わるものと思い込んでいる。

残念ながら妻の金額による大幅減の変更、昭和41年に近い妻ほど金額が超激減している事実に青ざめる。
そして昭和41年4月2日以降の方は支給なしの話に絶句する。
何故?

回答2

昭和61年4月 年金制度に大改正が行われた。
一番大きな改正が基礎年金制度の導入。
それに伴い20歳から60歳まで40年間年金制度には強制加入となった。
それ以前まではサラリーマン配偶者扶養されてる妻は任意加入だった。

だから国民年金に任意加入していなく、少ない年金額に、温情で、振替加算制度を作り、救って来た。
夫につけていた加給年金は妻65歳で消滅する。
それでは夫婦世帯の年金が一挙に下がるケースも出る。その緩和措置として、加給年金をなくす代わりに、妻に振替加算させればトータルで減ることもなくなる。

しかし昭和41年生まれ以降は、昭和61年度から強制加入制度の対象であり、20歳から間違いなく年金に加給している。65歳からの年金額が、それ以前の;昭和41年4月1日以前生まれの方のように任意加入だったので加入していない不利がなく、満額の国民年金が受給されることのなる。温情を掛けるまでもない。

昭和61年4月1日現在、昭和41年4月2日生まれは満20歳になる。
その日以降強制の40年間である。
満額受給間違いない。
ここが任意と強制の峻烈な格差である。


かくして昭和41年4月2日生まれ、強制加入世代には、全く温情はなくなり、振替の必要もなく、振替加算制度はなくなったのである。
振替加算制度どころではなく、昭和25年生まれの妻にも、老齢基礎年金の受給権がない場合には、もちろん振替加算は支給されない。
せっかく夫についていた加給年金があっても妻に受給権ないと移行しない。
残念。この場合救済手段としては、なんとか受給資格を得るように10ほどの手法がある。
年金相談の真骨頂であるが。
例えば高齢任意加入制度で70歳までチャンスはある。69歳でなんとか任意加入使って受給資格を取得したので、この奥さん、自身の老齢基礎年金と振替加算が受給出来た。

回答3

任意と強制の峻烈格差:振替加算が昭和41年4月2日生まれからなくなる話をしたが、同じような峻烈格差は他にもある。



昨日記述した遺族厚生年金の中高齢寡婦加算定額が65歳で消滅し、年齢による経過的寡婦加算に移行するその経過的寡婦加算が実は同じように昭和31年4月1日生まれまでの制度であり、昭和31年4月2日生まれからは全く支給がなくなる。


年間594、200円定額支給されていた遺族厚生年金への中高齢寡婦加算は65歳で経過的寡婦加算となる。加算額は1年刻みで少額となっている。

昭和2年4月1日以前生まれ    594、200円
昭和12年4月2日生まれ     352、200円
昭和22年4月2日生まれ     178,300円
昭和27年4月2日生まれ      79、300円
昭和30年4月2日生まれ      19、700円

昭和31年4月2日生まれ        0円である!
制度が消滅している。

何故?

昭和61年年金大改正で強制加入となった。
当時昭和31年4月2日生まれは30歳。
以来30年間強制加入。
すると国民年金老齢基礎年金は、792,100円×360月(30年強制加入)÷480月=594、000円受給出来る。従って経過的寡婦加算支給するまでもない。
中高齢寡婦加算そのものの金額が強制加入で受給出来るからである。


それまでの世代には任意加入だったので、加入してなく、受給額が少ないケースもあるでしょう、だから経過的寡婦加算を温情で措置しましょう、かくして救済された任意世代と、強制後は法律違反は許さない、赤信号を渡れば怪我をするものです、強制加入しない人はいないはずと、経過的寡婦加算は昭和31年4月2日生まれから消滅したのである。

以後強制にもかかわらず加入していない方も多い。しかし全くその存在は無視されている。
法は守るもの。自分は自分で守るもの。

絶対20歳から60歳までは強制ですよ、加入しなさいと相談者に熱っぽくお話をする。
任意と強制の格差相違をもっとモット周知広報すべきである。
この2つの事例でも相談者は凍りつく。

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遺族厚生年金が少なくなってしまった、何故? 心配で心配で…  年金相談で一番多い遺族年金の減額不安

2011/07/22 22:33
年金相談で一番多い遺族年金の減額不安

社会保障相談室87


遺族厚生年金の金額が少なくなってしまったがどうして?
65歳になり、基礎年金が支給されると楽しみでした。
それなのに遺族厚生年金が大幅に減額、これから心配です。


回答

あなたの65歳からの遺族厚生年金は2つの理由により減額となります。
しかし同時に増額要因が2つあるので結果は64歳までよりずっと多い額となります。
ご安心を。

遺族厚生年金65歳減額理由

理由1、あなたは亡くなられた夫の遺族厚生年金を受給していましたが、プラスして中高齢寡婦加算(厚生年金保険法第62条)がついていました。
金額は定額で594,200円でした。

40歳から支給されていましたが、これが65歳になると消滅し、代わって経過的寡婦加算(厚生年金保険法附則第73条)となるのです。
金額は受給者の年齢によります。
591、700円から19、700円まで1年毎に刻まれ例えば昭和20年4月2日生まれは217、000円、昭和25年4月2日生まれは118、400円となっています。
徐々に少なくなっているのです。
そしてついに昭和31年4月2日以降の方には全く支給されません。ゼロになるのです。

昭和31年4月1日以前生まれの方だけに支給されるものとなっています。念のため。

何故昭和31年4月2日生まれ以降は経過的寡婦加算をもらえないのか?
この辺の事情は次回詳しく「国民年金任意と強制の峻烈格差」というテーマで説明の機会を作ります。
今迄定額だった中高齢寡婦加算が年齢別に少なくなる経過的寡婦加算に代わったこと、これが減額理由の1です。

理由2、貴方自身の老齢厚生年金を65歳から自動的に受給しますので、この金額分遺族年金が減額となるのが理由2です

平成19年4月施行の法改正により、それまで「65歳以上で遺族厚生年金と自身の老齢厚生年金の2つの受給権を有する人は、3つの選択肢から受給方法を(額が多いほう)選択するものでした。

しかしこれからは65歳になると、まず自身の老齢厚生年金を優先支給し、それに伴い自動的に改定されることとなりました。
選択の余地はありません。
つまり遺族厚生年金から自分の老齢厚生年金分が差し引かれるのです。
だから全体の額は変わりません。遺族−老齢+老齢→老齢+(遺族−老齢)…同じですね。

今までの遺族厚生年金=老齢厚生年金分がが差し引かれた新しい遺族厚生年金+老齢厚生年金となります。


遺族厚生年金65歳公式(金丸式65歳遺族年金シート)

T、遺族厚生年金の減額公式=A−B+C−D

A=今までの64歳時遺族厚生年金の額 例 1、360、200円
B=中高齢加算の額                 594、200円(定額)
C=経過的寡婦加算額                237、800円(生年月日によります) 
D=貴方の老齢厚生年金  136、400円

1、360、200円−594、200円+ 237、800円−136、400円=867、400円  
すなわち493,000円の減額です。


U、65歳 基礎年金と老齢厚生年金増額公式

新遺族年金+E+F=65歳からの年金

E=老齢基礎年金 772、300円
F=貴方自身の老齢厚生年金  136、400円

867、400円+772、300円+136、400円=1、776、100円
すなわち64歳時より415、900円の増加です。 ご安心を。


65歳から遺族厚生年金より老齢厚生年金を優先する理由:背景

※根拠法=厚生年金保険法附則第17条の2第1項「老齢厚生年金等の受給権のある配偶者は65歳に達している者に限る」…この規程は配偶者に限られ子供が死亡し66歳の母親が受給しているような場合には該当しない。

※何故このような改正が行われたのか。゛聖域維持か財政上の要請か゛


@老齢厚生年金の選択制から優先制への意味


建前は「自身が納めた保険料を出来るだけ年金に反映させたいこと」「遺族年金という年金の存在を薄め、自分が働いて形成するところの老齢年金の存在意味を重視させる」方向と言われています。

しかしブログ氏は遺族厚生年金は聖域であり、就労しても在職老齢年金制度は影響されず、減額されない、又税金も掛からなかった。
残された心細い妻には本当にありがたい存在だった。

しかし老齢厚生を優先させたことで在職老齢年金制度を適用させ、減額させることが出来るようになった、又税金も掛けることが出来るようになった、その分減額させることが出来る。
財政上の要請に見事に応えた。
残された妻に犠牲になってもらう…これが真相ではないか。
日本の有権者はおとなしいし…


A無期から有期へ

聖域だった遺族厚生年金にもついに効率化の手が入りました。
平成19年改正の驚くべき遺族年金改正その2。

法第63条第1項第5号改正=夫死亡時30歳未満の妻に子がない場合5年有期遺族年金となりました。

今まではこのような妻へも無期終身の遺族厚生年金が支給されていました。
もちろん結婚したら失権することはありましたが。
この終身無期の遺族厚生年金がついに5年の有期となったのです。
遺族厚生年金の新しい考え方でもあります。

若い女性の方の本件への意識はどのようでしょうか。
このような改正がとても国民の理解を得たものとは思いませんがどうでしょう。
問題はほとんどの女性がこの改正を知らない、興味も持っていないことです。
もっと問題は国はこのことを周知徹底する努力を余りしていないこと、またジャーナリズムも遺族厚生年金の不利な改正を報道する努力を怠っていることでしょう。


">B 35歳以上からが40歳以上に…中高齢寡婦加算の改正

改正前
夫(被保険者期間20年以上か中高齢の特例該当要件あり)死亡時、
妻が35歳以上65歳未満
又は妻35歳に達した当時子と生計同じくしていた場合、
→中高齢寡婦加算が40歳から65歳まで支給される。

改正後
35歳が40歳に変更された。

夫死亡時妻が40歳以上65歳未満であること、
妻が40歳に達した当時子と生計同じくしていること
この場合中高齢寡婦加算が65歳まで支給される。

例えば
…子のいない妻が37歳当時夫死亡した場合
改正前なら3年間待機し40歳から中高齢寡婦加算受給

しかしこのような妻に改正後は加算されなくなった。
40歳から65歳までの年齢要件を満たさないからです。
厳しい。

妻が30歳の時夫死亡した場合、子供がいると、改正前なら遺族基礎年金と遺族厚生年金を受給していました。
妻が38歳になり、子供が高校を卒業するようになると遺族基礎年金は消滅しますが遺族厚生年金に40歳から中高齢寡婦加算が支給されるようになっていました。

改正後
このような場合妻に中高齢寡婦加算は支給されなくなりました。
何故なら40歳時点での要件を満たさないからです。
この妻は40歳時点で子がいないからです。
つまり年齢が40歳以上か40歳時点で子がいるか。
どちらかが要件ですから。

この妻は30歳時点で夫死亡したもので、まず年齢要件がはずれる、次に38歳で子供高校卒業=18歳に達した日を含む年度に達して、子供がいない状態。

同じ30歳の妻に改正前は594、200円が40歳から65歳まで支給され続け、改正後は全く支給なし。

夫が死亡時40歳未満で受給可能の条件はただ一つ。
例えば25歳妻なら子供が2歳、これなら40歳時点で子供18歳未満でぎりぎりセーフ。
中高齢寡婦加算受給となる。
40歳未満でも子供が18歳になったとき40歳以上ならOK.


例1、30歳妻 子あり(妻38歳で子供18以上に)

 改正前  35歳以上の年齢要件はずれるが35歳時点で子供あり→中高齢寡婦加算OK
 改正後  40歳以上の年齢要件はずれ、40歳時点の子供要件もあずれ→NO

例2 37歳 子なし

改正前  35歳以上の年齢要件適合 →OK
改正後  40歳以上の年齢要件はずれ、40歳時点子供要件はずれ→NO

つまり改正後中高齢寡婦加算は受給がかくも難しくなった。

このような法律改正を女性はどう見ているのでしょうか。
法律はどこで作られるか。
立法府で作られる。
立法府は国民が選んだ国会議員で構成される。
このような改正はつまりは国民の信託を得たものであることになる。
だれがこんな信託を与えたのか。
私はこのような信託は与えていない。大反対である。
多くの女性有権者の意見を聞きたいものです。
残念。
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思い出す冬の日…「上を向いて歩こう」と「国民皆年金皆保険50周年続々続編」

2011/07/21 15:39
50年前…日本:1961年 昭和36年 世界に誇る歴史的快挙が生まれた。

4月1日
一つは戦争がなく平和な日本国家の基本方向「国民皆年金皆保険」制度発足

50年前の今日 7月21日

もう一つが音楽2流国だった日本の歌が世界を席巻した。
「スキヤキソング:上を向いて歩こう」が中村八大リサイタルで初めて世に出た日。
燎原の火のように瞬くまに日本中そして世界中で歌われるようになった。

ともに新しい日本を作ることのシンボル事業となった。


50年後…日本


今年で生誕70年の歌手、坂本九さん(1941〜85年)のヒット曲「上を向いて歩こう」(昭和36年)が東日本大震災後、静かなブームを呼んでいる。
被災地でミュージシャンに歌われたり、復興に向けたCMソングに起用されたり…。曲のダウンロード数も震災後は約5倍に膨れ上がった。
今月21日に発表から50年を迎える

上を向いて歩こう
にじんだ星を数えて
思い出す 冬の日 一人ぽっちの夜
幸せは星の上に 幸せは月の上に

上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
手をつなぎ歌おう 若い僕らの歌


東北で…坂本さんの長女で歌手の大島花子さん(37)。「主人が生きていたら被災地に行ったと思う」と話す母で女優の柏木由紀子さん(63)、妹で歌手の舞坂ゆき子さん(34)とともに被災地でのチャリティー活動に励み、10日に岩手県釜石市で開かれたミニコンサート(ビーフアンドラムニュージーランド主催)では約350人の前で「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」などを歌った。

テレビで…  平成23年7月18日 NHKテレビ 22時から
「…上を向いて歩こう…日本人の希望の歌…その真実」が放映された。
世界で愛される理由を貴重な証言や未公開映像で解明。
6:8:9の不思議なトリオの話も面白いが、背筋が寒くなる程、鳥肌立つほど感銘したのは、トリオもレコード会社もマネジャープロダクションも皆が皆新しい音楽の創造に燃えていたことだ。映画化されたが、映画の中でも新生日本が廃墟から立ち直ろうと必死に明るく挑んでいるシーンが続いていた。

50年前…音楽の世界で…新生日本が世界に挑戦

上を向いて歩こう、別名:スキヤキ、SUKIYAKI)は、坂本九の大ヒット曲。作詞は永六輔、作曲は中村八大[1]、プロデューサーは草野浩二。

米国ビルボード(Billboard)誌では、1963年6月15日に、週間ランキング第1位を獲得。
ビルボード誌1963年年間ランキングでは、第10位。
後に数多くのアーティストによってカヴァーされ、いまだに外国人によるモノマネのネタにもされる。

約70ヵ国で発売され、総売り上げは1300万枚以上[8]とされる。
また1988年までにアメリカのラジオでのオンエア回数は100万回を超えた。

2005年6月から「上を向いて歩こう」がイギリスの携帯ネットワーク会社スリー・モバイルのCMソングに起用され、問い合わせが殺到。

同年8月29日にイギリスで坂本九のアルバム「メモリアル・ベスト」が発売された。
9月には「上を向いて歩こう」をシングル発売。
アルゼンチンではスペイン語に訳されアルゼンチン・タンゴへと編曲され、1964年に「SUKIYAKI(Naranjos en Flor)」として、南米長期滞在中であった日本のタンゴ歌手・阿保郁夫が歌い、空前の大ヒットとなっている。

それぞれの努力
才能も…


坂本九さんはプレスリーの音楽を全力で吸収し、その音楽に日本人の言葉、血、文化を融合させて自分のものにした。新しい日本文化を作る最前線に立っていたから、世界に通用する歌い方になった。テレビ時代の到来にふさわしい、家庭的でどこにもいそうな明るいキャラクター、歌も決してうまくないスターきどりしてない身近な存在だった。

永六輔さんは12歳の男の子が一人で夜星を見てさびしがっているイメージで作詞していた。安保闘争で挫折した自分に重ねて。

中村八大さんは譜面に仕掛けを重ねた。坂本を生かしながら、ジャズ風に、アジアの5音階で味付けし、米国スタンダード楽譜構成にまとめる世界中に通用する工夫
だった。
若い才能が躍如していた。

時代も…

地方の若者を、都会に集団就職させる多かったのですがそういった親元を離れて、都会で暮らしている若者たちの故郷への想いや、過酷な労働に向き合う姿を、歌にしたものです。

歌詞の中で思い出している「春の日」「夏の日」「秋の日」は遠く離れた故郷の四季の風景で、それを、都会での「一人ぽっちの夜」に思い出しているのです。
故郷を思い出しながら一人ぼっちの夜に涙する、でもいつかは幸せがやってくるはずと。


国政中枢でも…

1961年昭和36年 寿命世界一になる礎:国民皆保険制度がスタートした。

国民健康保険制度が全国市町村で実施された。

 新国民健康保険法は、昭和33年の第28回国会に提出されたが、衆議院の解散のため審議未了となり、さらに同年九月の第30回国会に提出され、再び審議未了となつた。

しかしながら、この法案は、国民健康保険の全国普及を達成するために欠くことのできない基礎的条件を整備するためのものであり、法案の成立に対する一般の要望もきわめて強いものがあったので、第30回国会で問題となった諸点について修正が加えられ、三たび第31回国会に提出され、ついに33年12月23日に国会を通過し、34年1月1日から施行されたのである。

 新国民健康保険法は、被用者保険の適用を受けない一般国民を対象として医療保険を適用していくための制度であり、従来の国民健康保険法と相違するおもな点は、次のとおりである。

(イ)市町村に対して、36年3月末までに国民健康保険を実施すべき義務を課したこと。

(ロ)被用者保険の被扶養者が、国民健康保険に二重加入できる制度を廃したこと。

(ハ)保険給付の範囲を被用者保険と同様に改善し、また、給付割合についても5割以上とし、国民健康保険財政の強化と相まつて、漸進的に向上を期することとしたこと。

(エ)医療担当者制度を、従来の個々の保険者と個々の医療担当者との契約による療養担当者の制度から、都道府県知事と医療担当者とが契約する療養取扱機関、国民健康保険医等に改めるとともに、医師、歯科医師等の医療面における主体性の明確化、その法律上の地位の安定などを図つたこと。

(ホ)これまでの事務費および療養給付費に対する国の補助金制度を、国が義務として支出する負担金制度に改め、事務費についてはその全額を、療養給付費についてはその2割を、全市町村に対し一律に負担するとともに、国民健康保険の財政の調整を図るため、療養給付費の5分に相当する調整交付金を設け、国民皆保険体制に対する国の責任を明確にしたこと。

 なお、新国民健康保険法の施行にあたつて、その経過措置を定める国民健康保険法施行法が同時に施行され、36年3月末まで、およびその後における例外的な経過規定を設け、新国民健康保険法の実施の円滑化を期している。

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窮地を救ったのは公開討論、江戸時代、大和歴への改暦事業で帝の裁断を覆したのは民衆の関心と支持だった

2011/07/17 16:38
「江戸はすごい」「おもしろいな江戸は」…渋谷宮益坂にある金王八幡神社の一角に奉納所。
絵馬がびっしり、その一群に目を輝かせた。

円、三角、菱形、多角形、内接円、辺の長さ、枡の体積、方陣に円陣、加減乗除、開平方難問難題、術式に解答
びっしり書きこまれている。
個人名もあるし塾の名前もある。

当時算術は純粋に趣味でもあり娯楽でもあった。
身分を問わず、老若男女機会があれば学んだ。
そろばんや算術が全国に普及していた。
その成果を発表する場が絵馬だった。


難題の出題者と明察した解答者、互いにどこの誰も知らない。しかし武術の真剣勝負のような場でもあった。
「江戸はすごい」「おもしろいな江戸は」
春海はもう一度うなった。


沖 方丁著 角川書店発行 「天地明察」  474ページ

第1章 一瞥即解

安井算哲の実子春海が主人公、囲碁と算術と暦の壮大な物語が始まる。

父:安井算哲(やすい さんてつ)

天正18年(1590年) - 慶安5年(1652年)1月9日)は、江戸時代の囲碁の棋士で、家元安井家の始祖。元の名は六蔵。本因坊算砂、中村道碩らとともに徳川幕府より俸録を受け、後に弟子の算知を養子として跡目にしたのが、家元としての安井家となった。

実子の二世安井算哲(渋川春海)は、碁方を離れて天文方に転じたが、これと区別して古算哲とも呼ばれる。
寛永3年(1626年)の二条城徳川秀忠御前で中村道碩と対局、先番3目勝。それ以前にも御前対局は行われていたが、この碁が御城碁の始めと言われている。

寛永7年(1630年)に道碩が没した後の正保元年(1644年)、本因坊算悦、井上因碩(玄覚)、算哲らに寺社奉行より道碩後継の碁打衆頭領の地位の詮議がなされ、算哲は自薦するも受け入れられず、算悦、因碩は辞退したため、空位のままとなった(碁所詮議、「伝信録」)。

主人公:安井春海 

江戸幕府碁方の安井家一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。慶安5年(1652年)の父の死によって二世安井算哲となるが、当時13歳であったため、安井家は一世算哲の養子算知が継いで、算哲は保井姓を名乗った。
そして万治2年(1659年)に21歳で幕府より禄を受け、御城碁に初出仕、本因坊道悦に黒番4目勝ちした。
この後、算知、弟の知哲、算知の弟とも言われる安井春知などとともに御城碁に出仕する。
延宝6年(1678年)に本因坊道策が碁所に任じられた際には、これに先の手合、上手並み(七段)とされた。
数学・暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、垂加神道を山崎闇斎に、土御門神道を土御門泰福に学んだ。

当時の日本は貞観4年(862年)に唐よりもたらされた宣明暦を用いていたため、かなりの誤差が生じていた。
そこで21歳の時に中国の授時暦に基づいて各地の緯度を計測し、その結果を元にして授時暦改暦を願い出た。
ところが、延宝3年(1675年)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下された。
春海は失敗の原因を研究していくうちに、中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり、「地方時」(今日でいう時差)や近日点の異動が発生してしまうことに気づいた。
そこで、授時暦に通じていた朱子学者の中村タ斎の協力を得ながら、自己の観測データを元にして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。

春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、京都所司代稲葉正往家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう。
これに対して春海は「地方時」の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。
その後、春海は暦道の最高責任者でもあった土御門泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。

これが日本初の国産暦となる。春海の授時暦に対する理解は同時代の関孝和よりも劣っていたという説もある[1]が、中村タ斎のような協力者を得られたことや、碁や神道を通じた徳川光圀や土御門泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって、改暦の実現を可能にしたとされている。
この功により貞享元年12月1日(1685年1月5日)に初代幕府天文方に250石をもって任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。

囲碁を打っていれば安泰である。しかし春海には自己は別な何かにある。自己獲得の意思で「憚りながら退屈な御前碁にはいささか飽きました」と老中酒井雅楽頭の前で恐れ多くも口にした。「退屈でない勝負が望みか」酒井はこれまた平然とどうでもいいような口調で聞いた。

第2章 算法勝負

明暦3年 振り袖大火が起った。江戸の6割が廃墟に。
すぐさま江戸の復興が始まった。
春海はその立ち直る江戸の姿に衝撃と感動さえ覚えた。
大名屋敷も簡略化され、防火用の堤防と空き地に生まれ変わり、巨大な天守閣さえ再建されなかった。玉川の開削工事、江戸中に給水網が縦横に設置された。
新しい江戸の泰平の世直しの姿に春海は昂揚の念に打たれた。大変化に立ち会っていると。


酒井は春海に言った。
「北極出地に行って参れ、北極星を見て来い、三陰、山陽、東西南北通行に支障はないようにいたす」
北極出地…測地の方法で、その土地で見える北極星の高さから土地の緯度が判明する。距離と方角が確定される。
春海全身全霊の勝負が始まる。

第3章 北極出地

暦…当時の暦には、京暦、伊勢暦、三島暦等が使われていた。
30日と29日、ずれが暦により生じていた。
その原因は普及されている各地の暦の原点「宣明歴」にありと春海は語る。
805年前唐から将来した。天安から貞観への年号改元、清和天皇が施行させた。治世の刷新には改元と改暦がふさわしかった。世が変わったのだと世間民衆に宣言したのだ。
しかし85年で誤差が生じることも当時の学者はわかってもいた。
それが800年も使われ続けている。

第4章 授時歴

保科正之は言った。「戦国の世が終れば何がなくなるか」
春海は答えた。「合戦ですか」
「そうだ、ゆえに主君は家臣に与える褒賞に欠け、民は多くの賄いを欠くのじゃ、
それで太閤は、食わせられず滅びた」
「大権現様はそれで黄金600万両を江戸開府に用意した」
「それもじきに尽きるのじゃ」
正之は淡々とあっさりと徳川家の秘事を春海を前に口にした。
「そこでじゃ、全くの新しい一手が欲しい」
春海は「改暦の儀でございますか」

宣明歴と授時歴


宣明歴では800年に2日のずれが生じる。
術理の基本となる数値にずれが生じたからである。
冬至と定めた日より2日も過ぎて最も影が長くなるのは皆気がついている。
では授時歴は…
算術と観測結果から1年を365、2425日と定めた。
のちのグレゴリオ暦の平均暦年と同じである。
春海は正之に「授時歴こそ天地明察となりましょう」と口に出した。
正之は春海に「古い暦を斬ってくれ、この国に正しき天理をもたらしてくれ」




第5章 改暦請願

天皇と将軍の権威を守り高める改暦の大事業。
最大の公平を万民にもたらす。
その証明の時が来た。それも悪夢が。
宣明歴では延宝3年5月遡日、午から未の時刻に日食が起ることになっていた。
授時歴では明白に無蝕と断定された。
未の刻から遅れること半刻、僅か1分にも満たないが紛れもなく確かに日食が起ったのだ。
春海は地獄にあった。山鹿素行は改暦を曰く「もって嗤うべしと」。改暦の機運は消滅した。
正確無比な授時歴が何故蝕をはずしたか。春海は分からなかった。

第6章 天地明察

授時歴の謝りは天と地にあった。
中国の緯度と日本の緯度の違いである。
もう一つは太陽の周りを動く地球の動きが楕円とうことである。円ではなく楕円。
大地たる緯度の差、天における近日点の差が誤謬を生じさせたのである。
春海はおびただしい天則から導き出したのだ。

春海44歳。大和歴を考案した。
授時歴派と、大統歴派と、大和歴派の3者から帝が選定される。
貞享元年3月3日、ついに帝は詔を発布、大統歴を採用の断を下された。

ここからが春海の本当の勝負だった。
負けに強い春海の真骨頂。
まず再度の上奏の手紙を出した。280通に及んだ。
そして京都の一番目立つ所に巨大な子午線儀が組み立てられた。
天測のキャンペーンである。
京都市民に評判が当然高まる。大和歴を支持する専門家が公開討論の場を作り上げた。
徳川からの朱印状作戦も効果を高めた。
民衆の支持、専門家の是認、公家の利得。

布石通りである。
そして4度目の改暦請願上奏を試みた。
10月29日 霊元天皇は、大和歴採用の詔を発布された。


江戸では武断から文治へと政治も移行、江戸は政治、経済とともに世界に誇る文化発信の地ともなった。
春海は囲碁を引退し天文方を勤めていた。

正徳に年号が変った、江戸933町、世界最大の町。
春海は天文方の家督も譲り退隠した。10月6日 永眠。

…算術の好きな春海がものすごい算術家として改暦などの際も助けてもらう天才が関孝和。
日本隋一の算術家であり、和算の誕生も促した豪のもの。
物語はこの二人の稀代の天才と努力家が織り成す日本機械工学原点のスケール大きな江戸話である


沖 方丁著 角川書店発行 「天地明察」は吉川英治文学新人賞、本屋大賞に輝いている。正に天地明察。

閏年 - Wikipedia
1. 西暦年が4で割り切れる年は閏年
2. ただし、西暦年が100で割り切れる年は平年
3. ただし、西暦年が400で割り切れる年は閏年


現在世界で最もよく使われているグレゴリオ暦ですが、実はその歴史は比較的最近で、1579年、既存のユリウス暦は地球が太陽の周りをまわる周期である太陽年とのズレが大きいため、教皇グレゴリウス13世が新たな暦の作成のために天文学者などからなる委員会で検討させ、1582年に発布されたのが始まり。
うるう年はその太陽年と実際の暦のずれを修正するために上記の法則で調整日としていれられているものなのですね。

日本では明治6年(1873)にそれまで使っていた太陰太陽暦から、グレゴリオ暦に切り替えて現在にいたります。

それまで日本で使われていた暦は天保暦と呼ばれる太陰太陽暦で、天保暦以前は冬至を基準に単純に24等分した暦が使われていたものを、天保暦からは太陽の軌道計算し、その軌道を元に24分割して二十四節気を求める太陰太陽暦としては緻密なものが使われていました。しかし、実際の太陽年と暦とのずれを防ぐための閏月の計算が複雑であったようです。また、太陽の軌道にあわせているので季節ごとに時間の長さが変わる社会でした。一刻が非常に長くなったり短くなったりで厳密な時間の意識は薄かったよう。
そして、現在旧暦と言われるのは、現代の天文学から割り出した二十四節気を元に閏月の置き換え方を天保暦に基づいて表示しているもので、厳密には天保暦と同じという訳ではないそうです。

そして、明治維新になって、それまでの太陰太陽暦を使うか、新たにグレゴリオ暦を導入するか議論の末に、グレゴリオ暦が導入されました。

この改暦の背景が面白い。
グレゴリオ暦 - Wikipedia

新暦の導入は施行まで1ヶ月に満たない明治5年11月9日(新暦では1872年12月9日)に公布されたため、社会的な混乱を来した。この急な新暦導入は当時の政府の財政状況が逼迫していたことによる。すなわち、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため13ヶ月となる。すると、月給制に移行したばかりの官吏への報酬を1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり12ヶ月分の支給ですむ。また、明治5年も12月が2日しかなかったゆえをもって、11ヶ月分しか給料を支給せずにすませた。

しかし慌てて布告を出したためか、後日になってこの布告を見ると閏年に関する規定に不備が発見された。その不備とはグレゴリオ暦の重要な要素である「西暦の年数が100で割り切れ、400で割り切れない年を閏年としない」旨の規定を欠いていたことである。

(中略)

そこで1898年(明治31年)5月11日に改めてs:閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)を出して、グレゴリオ暦に合わせた閏年に関する調整を定めた。
導入が明治維新での改革の中でも一、二を争うほど後世に大きな影響を与えることになるとは当時想像していなかったでしょうね。それまで時間にルーズだった日本が、非常に時間に厳密な社会になっていくスタートラインだんたのではないでしょうか。

うるう日の今日、時間について考えてみるというのも面白いんじゃないかなと思います。おっしゃる通り、明治5年まで日本は旧暦を使っていましたが、グローバルスタンダードに乗り遅れてはいけないということで、欧米で使われていた新暦を使うことにしたのです。
新暦は「太陽暦」といって、ご承知の通り太陽の運行、つまり地球の公転を基準に作られています。正確には365・2422日で1周しますが、新暦では1年を365・2425日として、端数の0.2425日をまとめて4年に1回閏日を置いています。ただし、閏年に当る年でも「西暦が100の倍数であって400で割り切れない時」は、閏日は設けないことになっています。こうすることで、真の1太陽年との誤差を最大限無くしているのです。
──太陽暦はどこで作られたのですか?

岡田 古代エジプトです。その後、古代ローマのジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)が改良し、紀元前46年に「ユリウス暦」を制定しましたが、さらに正確性を持たせた現在のスタイルに改良したのは、ローマ教皇のグレゴリオ13世です。1582年のことです。
──だから新暦のことを「グレゴリオ暦」ともいうのですね。
岡田 そうです。今、欧米を中心に世界のほとんどの国で使われているのは、このグレゴリオ暦です。
──では、旧暦は?
岡田 「太陽太陰暦」といって、約2500年前に中国で作られたもので、日本には6世紀中頃に伝わってきました。これは、太陽暦と、月の満ち欠け(地球に対しての月の公転)を基準にした「太陰暦」とを組み合わせたものです。
まず、太陰暦を説明しますと、月の満ち欠けの周期は29日半で、それを1か月として1年を計算すると354日余りですから、太陽暦に比べて1年が11日短くなります。つまり、太陰暦を使っている国では、私達よりどんどん先に暦が進んでいってしまうわけです。
──現在は、どこの国が使っているのですか?
岡田 イスラム諸国です。
──でも、どんどん先に進んでいくと、日付と季節が狂ってきますよね?
岡田 はい。ですから、イスラムの世界には季節の行事というものがありません。ラマダンという断食の慣例がありますが、冬に行なう時もあれば、夏の時もあります。私たちの感覚ではちょっと理解しづらいのですが、季節との対応が全くないイスラムでは、それが1つの文化となっているのです。
──なるほど。では、その太陰暦と太陽暦を組み合わせた太陽太陰暦とは、どういう仕組みなのです?
岡田 太陽暦との差が累積して1か月になった頃に「閏月」を設けて、そのズレを調整しているものです。
──しかし、ということは太陽太陰暦でも最大1か月は日付と季節がズレるということですよね? 日本でも昔使っていたということですが、正確な季節が分らないと何かと困りませんか? 特に農作業をする時は、種を蒔くにも苗を植えるにも適した時期があるわけで、それが分らないと失敗してしまいますよね…。
岡田 そこで、「二十四節気」という季節を表す目標を置いて、そのズレを補っていたのです。




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神奈川県内の原子炉:核燃料棒製造:放射能汚染事故事情

2011/07/08 10:29
神奈川県内の原子炉:核燃料棒製造:放射能汚染事故事情

1、神奈川の原子炉事情=神奈川にも稼動する原子炉があった…

川崎市川崎区浮島町の「東芝原子力技術研究所」は施設内に、社内の研究員らの教育訓練用に、臨界実験用の研究用原子炉(熱出力200ワット)を所有しており、年間50〜60日稼働させている。

設置は1963年。
 臨界状態を観察するのが目的のため、熱出力は福島第1原発の数百万分の1程度。
実験装置の放射性物質について、東芝広報室は「ごく微量で、万が一の事故があったとしても、施設外では人体に全く影響がないレベル」という。
3:11巨大地震の際、幸いにも原子炉は稼働していなかった。

◆この原子炉の安全性について東芝広報の所見

 「この施設では動力用原子炉と燃料などの物理実験を行なっています。
ただし、発電はしておらず、規模も冷却の必要がないほど、ごく小さなものです。
しかも、3月4日に停止しており、地震(東日本大震災発生)時の3月11日は稼働していませんでした。
地震時には水平加速度0.6Gで自動停止するなど、防災面の対策もしてあります。
基本的に安全な原子炉と認識しています」

◆本研究所原子炉について原子力工学に詳しい中部大学の武田邦彦教授の所見

「実験炉の出力は200Wと確かに小さい。
おそらく中性子の収支を測定する基礎的なもの。
とはいえ、出力しているということは、炉内で核爆発を起こしているということ。
核生成物も生じるだけに、100パーセント安全とは誰も言い切れない」

◆川崎市内「東芝原子力技術研究所」での放射能汚染事故

この実験炉、2004年に中性子が規制量を超えて発生し、自動停止するトラブルも起こしている。
1.発生日時: 平成16年7月13日(火曜日)午前11時00分
2.発生場所: 株式会社東芝原子力技術研究所 臨界実験装置(NCA)
(神奈川県川崎市川崎区浮島町)
3.状況: 本日、午前10時45分に原子炉を起動し出力を上昇させていたところ、原子炉の中性子を計測する2つの測定器のうちの1つで設定値を超えたため、午前11時00分、自動停止した。
4.被ばく等の状況: 従業員への被ばく及び環境への影響はなし。
5.原因: 調査中。
6.経済産業省の対応: 現地の原子力保安検査官を派遣し状況を確認中。

◆本事故への民間シンクタンク「原子力資料情報室」の上澤千尋研究員論

 「中性子の値が大きくなって実験炉が自動停止したということは、1999年9月の東海村JCO臨界事故を思い起こします。
一瞬とはいえ、炉が暴走したということでは同じケースだからです。
しかも、地震時、0.6G=約600ガルで自動停止するとのことですが、今回の大地震でさえ、福島第一原発の施設の最下階での揺れは550ガル止まり。
それを上回る600ガルなんて揺れはほとんどありえない。
600ガル停止は安全対策とは呼べませんね」

 実は、川崎市にある核実験炉はここ1ヵ所だけではない。
日立などが運営していた廃炉や廃炉措置中のものを含めると、計5基もある。


2、神奈川県内での核燃料棒製造事情

◆〒239-0836 神奈川県横須賀市内川2−3−1にある(株)グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン (略称:GNF−J)では、1967年5月以来、BWR燃料(原発用核燃料)に関する開発、設計、製造並びに関係するエンジニアリング、炉心・燃料の安全解析、原子炉の炉心管理、MOX燃料販売が行われている。

◆営業経緯
当社の前身、日本ニユクリア・フユエル株式会社(JNF)は、米国GE、東芝、日立製作所出資の原子力発電用燃料製造会社として、1967年にここ久里浜で操業を開始いたしました。
1971年に国産初の燃料を供給して以来、燃料メーカーのパイオニアとしてこれまでに7万体を超える燃料を国内各地の原子力発電所に納入し、国内電力の安定供給に寄与して参りました。

2000年1月1日には出資3社から営業・設計・開発部門が移管され、新たに米国GEグループ企業の株式会社グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン(GNF-J)としてスタートし、燃料のみならず炉心管理技術他関連サービス、またMOX燃料の設計・品質管理も行っております。

米国ノースカロライナ州には米国側の拠点となるGNF-Aが米国および世界各国向けに燃料および周辺技術の提供を行っており、日米を拠点としてグローバルなスケールメリットを活かしての企業活動を展開しております。

◆横須賀での放射能汚染事故


GNF‐Jの工場では平成20年、人為的なミスで2度の放射能漏れ事故が発生し、作業員が被曝している。
いずれも被曝量はごく微量で人体に影響はないレベルといい、周辺への放射性物質の放出はなかったが、国が厳重注意をする事態となった。
 事故は同工場で同年7月、核燃料の原料となる「二酸化ウランペレット」を製造する過程で起きた。
ウランを供給する金属製管からウラン粉末約8グラムが飛散し、1人が被曝。
1カ月後の8月にも加工過程で出る不要なウランの回収の際にウラン溶液が飛散、2人が被曝した。
点検用のふたを閉め忘れるなど、いずれも作業管理の不備が原因。
国への通報の遅れや、事故翌日に外部の見学者を受け入れていたことも問題となり、経済産業省原子力安全・保安院は厳重注意を行った

神奈川県は27日、横須賀市の原子力燃料製造会社「グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン」の廃棄物貯蔵場内で、微量の放射能が漏れていたことを明らかにした。県は「作業員の被ばくはなく、周辺環境への影響もない」としている。
 グローバル社は原発で使う核燃料棒を製造し、電力会社に納入している。県は28日、同社に立ち入り検査をし、管理体制について事情を聴く。
 県によると、25日午後3時半ごろ、燃料棒を製造する同社の加工棟で、巡回中の従業員が棟内の一角にある廃棄物貯蔵場で、ドラム缶(200リットル)から128グラムの油状のものが漏れているのを見つけた。
 同社が分析したところ、ウラン235と238が約1万1000ベクレル検出されたという。ドラム缶には、燃料棒加工の際に出たガラスや金属類などの低レベル放射性廃棄物が入れられていた。(http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011042701068

昨年12月には、過熱防止装置が作動して電源が落ちたことに気づかず、電気炉の電源を数回入れようとして再度厳重注意となった。



3、対策と推進勢力

◆川崎市の対応

川崎市は毎年秋、市や東芝幹部らを委員とする「原子力施設安全対策協議会」を開き、
安全対策を協議しているが、今年は協議会を待たず、立ち入り検査に入った。
検査が行われたのは18日。
市職員が原子炉や建屋などが損傷していないか、備 品類が安全に管理されているかを確認。原子炉などに損傷はなかったという。

ところで、文部科学省によると、実験炉が稼働しているか、停止中かなど、稼働状況を自治体に報告する法的義務はないという。
報告するよう協定を結んだ自治体もあるが、 川崎市の場合、東芝との間に、そのような協定もない。このため、同市の要請は、 文字通り“お願いベース”に終わりかねないのが実情だ。


◆ビルゲイツと東芝

東芝はビル・ゲイツが出資する米国企業『テラパワー』と、劣化ウランを燃料とする次世代型原子炉の開発を考えている。
 ビル・ゲイツは確かに09年、東芝の磯子事業所を訪れている。
新世代原子炉の川崎での開発について東芝・広報所見
「テラパワー社と秘密保持契約を結び、技術情報の交換などをしているのは事実です。
ただ、次世代型原子炉の開発はまだまだ検討の段階にすぎません」()


5、東京駅から最も近い原子炉


首都圏の原子炉   
昭和34年に武蔵工業大学原子力研究所の 研究用原子炉の設置が川崎市麻生区ではじめて許可された。
昭和35年には麻生区に鞄結梃エ子力産業研究所 (現・日立エンジニアリング渇、禅寺事業所)及び川崎区に鞄月ナ総合研究所(現・鞄月ナ  研究炉管理センター),昭和36年には鞄立製作所中央研究所(現・鞄立製作所 電力・電機開発研究所 王禅寺分室),さらに昭和37年に は日本原子力事業鰍mAIG総合研究所(現・鞄月ナ 原子力技術研究所)の各々の 研究用原子炉が設置された。

  5基の研究用原子炉のうち昭和48年には鞄立製作所中央研究所・王禅寺分室,昭和50年に は鞄結梃エ子力産業研究所の原子炉が解体等により運転停止され,現在2基が稼動中,1基が運転 休止中である。
いずれも出力100キロワットほどの実験用の原子炉である。米英など原子力先進国の大学には1960年ごろから、続々と実験用原子炉が建設されたが、そのほとんどは稼働を停止している。
小なりといえども、原子核反応をしているには違いない。

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国民皆年金創設へ政府も地方も民間も国会議員さえ必死で動いていた昭和30年代…国民皆年金皆保険続々編

2011/07/07 09:27
国民皆年金創設の頃日本は皆貧しく助け合い生きるのに必死だった…アメリカに追いつけ追い抜け… 国民皆年金皆保険続々編

1、経緯

昭和32年政府は社会保障審議会に諮問「国民年金制度基本方策いかん」
同年 5人の国民年金委員を任命「国民年金制度基本構造検討」
昭和33年 全国市長会評議員決議「国民年金制度に関する決議」
昭和34年4月9日 第31国会にて 国民年金法 可決成立

2、昭和20年代後半から30年代の日本


年金制度は、長期的な所得の喪失あるいは中断の原因と一般に考えられる老齢、廃疾あるいは生計中心者の死亡といつた事故が発生した場合、年金の支給という形で所得を保障しようとする制度であり、共同連帯によつて貧困への転落をあらかじめ防止しようとする制度にほかならない。
 ところで戦後におけるわが国人口構造の動きをみると、国民の死亡率は激減して平均寿命は戦前に比べ飛躍的な伸びを示し、その結果、老齢人口は、絶対数においても、また、国民全体中に占める比率においても著しい増加の傾向を示しつつあるのである。

すなわち、65才以上の老齢人口は、昭和10年当時には319万人であったが、30年には472万人となり、将来45年には698万人に、70年には1、230万人にも達するものと見込まれている。
さらにこれを全人口に占める割合でみると、10年には100人に対し4・6人、30年には5・3人となつており、45年になると7・0人、さらに、70年には実に100人に対し、その1割をこえる11・9人にのぼるものと予想されているのである。

3、国民意識の変化=家族扶養から国家基本機能へ

かように老齢人口の比重が高かまりつつあることに加えて、わが国の現状では、私的扶養の実態に大きな変革がもたらされつつあることをみのがしてはならない。
すなわち、戦前のわが国においては、家族制度のもとに、老齢者の扶養は親族扶養によることが当然と考えられていたが、戦後、家族制度の廃止を契機として、かような観念は漸次うすれつつあり、一方社会的、経済的にも、親族による老齢者の扶養をますます困難なものとする条件が加わってきているため、将来における老齢者の生活安定の手段を親族扶養にのみ期待することは、もはや許されない実状となつているのである。

 かくて、いまや老後の生活の保障ということは、重大な社会問題の一つになつてきており、老人の扶養の方策として社会的扶養のみち、すなわち、国家社会の責任によつて老人の生活の保障をすることの必要性がたかまつてきたのである。なお、身体障害者や母子世帯の場合も、経済的にはほぼ同じような事情に置かれているところから、老齢者同様、社会的扶養の必要性が論ぜられるに至つている。

4、国民年金創設の機運

このような客観的状勢を背景として、全国民に年金制度を及ぼすべきであるという主張はかなり以前から識者の間に聞かれたのであるが、国民年金制度創設への動きが具体化された形で政治面、行政面に姿を現わしはじめたのは31年ごろからであり、それが一段と活発化したのは32年にはいつてからであつた。
すなわち、同年5月、政府は内閣総理大臣の諮問機関である社会保障制度審議会に対して、「国民年金制度の基本方策いかん。」という諮問を発し、また、同じ時期に厚生大臣の顧問として五人の国民年金委員が誕生し、この問題の検討をはじめたのである。

4−2  国民年金委員対社会保障審議会の対立

社会保障審議会対国民年金委員の国民年金基本構造対立

適用範囲をどうするか?

1958年6月 社会保障審議会答申…既存年金制度の未加入者を適用範囲に…

1958年7月 国民年金委員 国民年金構想上の問題点発表
…既存年金制度の加入者も包含した国民年金制度に…


意見が鋭く対立したが、被用者含めての全国民対象は、前提として、既存被用者年金制度の関係省庁、被用者年金関係者からの反対にあったこと、このような大改革は制度調整に年数時間がかかること、早期の新国民年金制度発足が強く望まれたことから結局既存被用者年金制度とな別の新たな未加入対象の制度となった経緯がある。



4−3  政府へ本腰させた民間と地方の動き


このころから老人問題、身体障害者問題、母子問題等に関係のある民間団体の動きもしだいに活発化し、他方、都道府県、市町村さらには社会福祉協議会等において、「敬老年金」、「養老年金」などという名前をもつて、一般的に金額はわずかであるが、それにしても隼金の支給をはじめたことなどは、側面から政府の決意を促す結果となったのである。
なお、この年の12月、社会党でも国民年金制度案を作成発表し、第28回国会に同法律案の提出があつた。

 このようにして、国民年金制度創設の気運は逐次醸成されてきたが、それがいよいよ決定的なものとなったのは、33年にはいつてからである。
すなわち、同年5月総選挙の際に、与野党とも選挙の公約として国民年金制度の創設をかかげたが、とくに、政策実現の責をになう与党たる自由民主党は、国民年金制度の34年実施を二大公約の一つとしてとりあげたのである。そして、かような国民年金制度実現への政治的気運と世論のたかまりとにこたえるため、社会保障制度審議会は、当初予定した審議期間を短縮し、翌6月には、内閣総理大臣に対して国民年金制度の基本方策を答申するに至つた。
この答申は、権威ある機関によって示された最初の国民年金制度案ともいうべきものであるが、その骨子はおおむね次のごときものである。

5、最初の国民年金構想

すなわち、拠出制と無拠出制とを併用するものであり、拠出制年金は、25才から55才まで30年間保険料を拠出したものに老齢年金として月額3、500円を支給し、身体障害者および母子世帯にもそれぞれこれを基本とした年金額を支給する。
無拠出制年金は、70才以上の老齢者および母子世帯に月額1、000円、身体障害者に月額1、500円とする。
 この答申を受けた政府は、その後国民年金制度の実現のため、自由民主党と協力して具体案の策定を急ぐことになつたのである。
すなわち党側においては、国民年金実施対策特別委員会を設け、七月下旬からその具体的構想を固めるための審議を開始したが、8月下旬には、いわゆる三原則を中間結論として発表した。

これは、
一、国民年金制度は、拠出制の年金を基本として無拠出制の年金は経過的、補完的に認めるものとする。

二、老齢、障害、母子の3年金は、34年度中に同時に発足させるものとする。

三、拠出制および無拠出制の両者について、老齢、障害および母子の3年金を実施するために必要なすべての規定を含む包括的な「国民年金法案」を、きたる通常国会の冒頭に提出する(以下略)

というものであったが、その後12月20日に至りこの三原則に沿つた最後的な国民年金制度要綱が作成されている。
これよりさき、厚生省では国民年金制度策定のための基礎的資料をうることを目的として、31年に老齢者の生活実態調査を、翌32年には4月に全国的な生活実態調査を行なうとともに、5月には5人の国民年金委員を委嘱するなど国民年金制度創設への準備は着着と進められていたのである。

その後33年4月に至り、厚生省国民年金準備委員会および同事務局が設置されるに及んで、制度の具体案策定に専心つとめることとなったが、9月24日に至り、国民年金制度要綱第1次案の決定、発表を行った。

6、国民年金法と国会審議:いよいよ成立


これは自由民主党の特別委員会の考え方と全く一致したものであり、現在の国民年金法に盛られた内容は、その大部分がこの第一次案において決定されたものである。その後、12月末、34年度予算案の決定により制度の大綱は政府側の態度として確立するに至るが、この間、これと並行して鋭意法律案作成の努力が重ねられた。
また、行政審議会による国民年金の行政機構に関する答申、国民年金障害等級委員による国民年金障害等級に関する報告も行なわれた。

あけて34年この努力は遂に実を結び、9章、114条に及ぶ「国民年金法案」は、1月30日の閣議をへて、2月4日国会提出の運びとなつたのである

国会における審議の過程については、当時の新聞紙上その他で周知のとおりであって、「本年金と既存の公的年金制度との調整をどうするか。」「拠出制開始年齢の65才はおそきにすぎないか、また、40年間積立てた拠出年金が月額3、500円では健康で文化的な生活ができないのではないか。」「保険料の徴収方法を所得比例方式にすべきではないか。」「国民年金受給者に対しても生活保護費を併給すべきではないか。」などの点が問題となつたが、結局、参議院で一部修正が加えられた(無拠出年金の名称について、「援護年金」を「福祉年金」と改めた。)のち、4月9日可決成立し、同法は4月16日公布、11月1日から施行されることとなった

 なお、右法案通過の際、衆参両院においてほぼ同趣旨の附帯決議が付されたが、衆議院におけるそれを参考までにかかげると次のとおりである。

「国民年金法に対する附帯決議
 政府は、国民年金法案発足後、その総体について改善拡充に努力すべきである。特に左記事項について特段の考慮を払い、早急に適切なる措置が講ぜらるべきである。
一、国民年金制度、各種公的年金制度の相互間に通算調整の途を講ずることは国民皆年金の理想を達成するための不可欠の要件であるから、昭和36年度までにこれに必要な措置を完了すること。その際途中脱退者が不利にならないよう十分の配慮をすること。

二、生活保護法の運用において、老齢加算制度の創設、母子加算および身体障害者加算の増額の措置を講じ、生活保護者にも援護年金支給の趣旨が十分に行きわたるよう早急に措置すること。

三、積立金の運用については、一部を資金運用部資金として運用するほか、一部は被保険者の利益のために運用する方途を講じ、努めて被保険者にその利益が還元されるよう特段の配慮を加えること。

四、援護年金の支給に当つては各種の制限措置、老齢援護年金の年齢制限、各種所得制限に若干厳し過ぎる向も考えられるので、将来国民経済の発展に対応し、漸次これを緩和するよう考慮すること。
 なお、準母子家庭にも母子援護年金を適用する途をひらくこと。

五、障害年金および障害援護年金については、内科的疾患に基く障害者に対して逐次支給範囲に加えるよう考慮すること。」


7、制度の仕組をどう考えたか:拠出制年金になったのは何故か

 国民年金制度の内容にはいる前に、その骨組について一言すると、年金制度を構想する場合、保険料を納めた実績に基づいて年金を支給することをたてまえとする「拠出制」とするか、拠出を行なったかどうかによって差別をつけず、政府の一般財源の中から毎年才出予算を組んで年金を支給する「無拠出制」とするか、あるいは両者を併用するとして、いずれを中心とし、両者の関係をどのように定めるかがまず制度に関する基本的な問題となるであろう。
本制度では、この点に関し種種検討を重ねた結果、拠出制の年金を基本とし、無拠出制の年金は経過的、補完的に併用していくというたてまえをとっている。
拠出制を基本とした理由は、まず第一に、自身から掛金をし、その掛金に応じて年金を受けるという骨組を採用することによつて、老齢のようにだれでもが予測できる事態に対しては、すべての人が若いうちからできるだけの用意をするという自己責任の原則を尊重していくべきだと考えられたからである。

けだし、社会保障制度といつても、決して個個人の責任を解除するものではなく、個個人の責任で果たしえない分野についてのみ、国が責任をもつものであり、制度が将来にわたつて健全な発展をとげるためにも、国民にある程度の責任を負わせることが不可欠の前提条件と考えられるからである。


なお、イギリス、アメリカ、西ドイツ等の諸外国における経験もこのことを示しているようである。さらにまた、わが国のように、近い将来において老齢人口の急激に増加することが予想される国においては、無拠出制を基本とした場合、将来における国の財政負担は、膨大なものとなり、それは結局租税負担という形で国民一般の負担になることにかんがみ、これを避けるためにも、拠出制を基本として保険料を積み立ててゆくことにより、積立金から生ずる利子収入を有力な財源として給付費をまかなってゆく仕組が必要となるのである。

以上が拠出制を基本として採用した理由であるが、その反面、拠出制の年金のみでは、現在の老齢者、身体障害者または母子世帯あるいは将来において経済的に保険料を拠出する能力のない人については、年金の支給は行なわれないことになるので、これらの人にも年金を支給するために無拠出制の年金を経過的、補完的に併用することにより、国民年金制度創設の趣旨を全国民に均てんさせることとされたわけである。


8、拠出制年金制度:保険料等詳細

 まず本制度の基本となる拠出制年金について述べると、この制度の適用される者は、20才以上60才末満の国内に住所を有する日本国民であるが、ただ、厚生年金保険、恩給あるいは各種の共済組合等他の公的年金制度に加入している者は、すでにそれぞれの制度によつて年金の給付を約束されているので除外し、また、その配偶者や学生については希望によつて加入できるいわゆる任意加入の制度がとられている。

しかしてこれらの除外された者や任意加入の者に対して、将来国民年金制度をどのようなかたちで適用していくかということについては、別に法律を制定してきめられることになっている。
 なお、制度発足時の経過措置として、拠出制年金の発足する昭和36年4月1日においてすでに50才をこえている者は、老齢年金の受給資格期間との関係で適用から除外し、ただ、50才をこえ55才をこえない者に限り、その者の希望によって保険料を10年間納めて、拠出制の年金が受けられるよう任意加入のみちが開かれている。

 第二に保険料については、20才から34才までが月額100円、35才から59才までが150円となつている。
この程度の額は、保険財政という見地からも必要であり、また、国民の大部分が負担できると考えられてきめられたものであるが、生活保護の適用を受ける者とか、その他所得が低いため保険料を納めることができないと認められる者については、その期間、保険料を納めなくてもよく、その場合、支給要件の面で著しく不利にならないような取り扱いがなされることになっている。

9、年金給付制度詳細

 第三に年金給付であるが、本制度で行なわれる給付の種類は老齢、障害、母子、遺児および寡婦の五種である。


老齢へは…


まず老齢年金は、保険料を25年以上納めた者が65才になつたときに支給され、その額は保険料を納めた期間に応じて異なるが、保険料を二25年納めた者は年額2万4、000円、40年間完全に納めた者は、4万2、000円となつている。

所得に応じて年金額に差をつける方式、すなわち、所得比例方式によらず、定額給付としたことは、保険料を定額としたことと相対応するものである。
なお、前述の保険料を納める能力にとぼしい者については、10年以上拠出すれば年金を給付されるが、その額は減額される。また、拠出制発足当時までに一定年齢をこえていて、25年以上保険料を納める期間のない者については、その者の年齢に応じて拠出期間を10年から24年まで短縮することになつている。

障害へは…

次に障害年金は、一定期間保険料を納めた者が二級以上の障害、すなわち、片手とか片足とかを失つた程度以上の障害になつたときに支給され、その額は老齢年金相当額、すなわち保険料を納めた期間に応じて2万4、000円から4万2、000円までとなつている。
なお、これより重度の一級障害、たとえば両手とか両足を失った程度の障害になつた場合には、右の額にさらに6、000円が加算される。

遺族へは…

 母子年金は、妻が一定期間保険料を納めたのち、一家の生計の中心である夫に死にわかれ、18才未満の子を扶養しているような場合に支給される。年金額は妻の保険料の納付期間に応じて、1万9、200円から2万5、800円までであり、子が2人以上あるときは、第2子以降の子1人につき4、800円が加算される。

 遺児年金は、父母いずれにも死にわかれた18才未満の子に支給されるものであつて、この場合にも父または母が死亡前一定期間保険料を納めていることが必要である。

年金額は、保険料を納めた期間に応じて7、200円から1万500円までとされ、この額も、子が2人以上あるときは、第2子以降の子1人につき4、800円が支給される。
 最後に寡婦年金は、婚姻関係が10年以上継続した妻が、老齢年金を受けるに必要な期間保険料を納めた64才未満の夫と死別したときに、60才から65才になるまでの間支給され、その額は夫の受けるべきであった老齢年金の半額とされている。


9、無拠出制年金

 本制度が、拠出制を基本とし、経過的、補完的にのみ無拠出制を採用していることについてはすでに述べた。
この無拠出制年金−国民年金法では「福祉年金」と称している−は、老齢福祉年金、障害福祉年金および母子福祉年金の三種類にわかれているが、そのおのおのについて概要を説明すると−
 
まず、老齢福祉年金は、拠出能力にとぼしく、拠出制の老齢年金を受けるのに必要な保険料を納めることのできなかつた者が70才になったときに支給されるのであるが、このほか過渡的措置として、この制度の発足時(本年11月1日)にすでに70才以上である者および拠出制年金の発足時(昭和36年4月1日)に50才をこえる者(拠出制の老齢年金の受給権者である者を除く。)にも支給される措置がこうじられている。なお、この額は、年1万2、000円となつている。

 次に、障害年金は、両手あるいは両足を失った程度の廃疾の状態(一級程度の障害)になり、しかも、拠出制の障害年金を受けるのに必要な保険料を納めることのできなかつた者および20才未満で右のような廃疾の状態になつて、20才に達した者などに支給されるものであるが、そのほか、老齢福祉年金の場合と同様、過渡的措置として制度発足のとき(本年11月1日)に、右のような廃疾の状態にある20才以上の者などにも支給される措置がとられている。
なお、障害福祉年金の額は、年額1万8、000円となっている。


 さらに、母子福祉年金は、保険料の負担能力にとぼしいために、拠出制の母子年金を受けるに必要な保険料を納めることができないまま夫と死別し、かつ、義務教育終了前の子を扶養している母に支給されるほか、やはり過渡的措置として、制度発足のとき(本年11月1日)に、すでに夫と死別して、義務教育終了前の子を扶養している母にも、支給されることとなっている。
なお、その額は年1万2、000円であるが、子が2人以上あるときは、第2子以降の子1人につき2、400円の加算がある。


 以上、福祉年金の支給要件や支給額について略説したが、この福祉年金は、特別の保険料収入をその財源とするものではなく、政府の一般財源すなわち国民の税金によつてまかなわれるものであるため、国家財政の制約もあり、右の要件に該当する者のすべてに支給されるわけではなく、さらに、各種の支給制限も行なわれている。

 すなわち、まず、受給権者本人が他の公的な年金の給付を受けている場合には、福祉年金の全額について、配偶者が公的な年金給付を受けている場合には、老齢、障害福祉年金のうち最高6、000円までについて、その支給が停止される。
また、いわゆる「所得制限」と称し、一定額以上の所得のある者に対しては、支給が停止されることとなつており、具体的には次の三つの場合に、翌年の5月から1年間、年金の全部につき支給が停止されることになっている。
一、前年において、受給権者に13万円(受給権者が前年の12月31日おいてその生計を維持した義務教育終了前の受給権者またはその配偶者の子があるときは、その子1人につき1万5、00円を加算した額)をこえる所得があつた場合。
二、前年において、受給権者の配偶者に、所得税を納付すべき所得があつた場合。
三、受給権者の生計を維持する民法上の扶養義務者の納付すべき前年分の所得税の額が、給与所得の収入金額50万円、所得税法上の扶養親族5人の者の通常納付すべき所得税額をこえる場合。
 なお、右のほか、夫、妻ともに老齢福祉年金を取ける場合には、3、000円ずつそれぞれの金額が減額され、また、母子福祉年金は、25才以上の子と生計をともにしているときには支給されない。
 
10 生活保護法との関係

最後に、生活保護法との関係であるが、福祉年金は、生活保護法の適用を受けている人にも支給される。しかしながら、生活保護法では、たてまえとして、生活の資に充当できるものはすべて収入として認定されるため、福祉年金を支給してもそれだけ保護費の額が差し引かれ、福祉年金を支給する実質的な意味が失われることにもなるので、何らかの調整が必要となるが、この点に関しては、生活保護制度のなかに老齢加算制度を設け、また、すでにある母子加算および身体障害者加算を増額して、実質的に福祉年金が支給されるよう検討が加えられている。

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国民皆年金皆保険50周年続編  質問「年金定期便はいつまでやるの」を考える

2011/07/05 20:36
国民皆年金皆保険50周年続編  質問「年金定期便はいつまでやるの」を考える

1、社会保険相談室85

質問

またねんきん定期便が届きました。
全ての被保険者に毎年誕生日に送ってくれるサービスと聞きびっくり。
事業仕分けで「廃止しては」「対象を絞り込め」など議論があったと聞きナットクです。
全ての被保険者に一律サービスしている効果を検証されているのか
大切なお金をいつまで続けるのか。
用紙代、印刷代、郵送料など考えられない。
仕組みを再考され資源を効率的に使いメリハリあるサービスをお願いしたい

回答

何を言っているのですか。
貴方は貯金をしたら通帳を熟読しますでしょう。ちゃんと記帳されたなと。
その貯金通帳より10倍も100倍も大切な年金記録確認の定期便ですよ。
貯金はお金がなくなったらおしまいです。
しかし年金記録は一生終身の大切な宝、人生記録そのもの汗と涙の結晶でしょう。


スエーデンでは年金記録はオレンジの手紙と言われ、20代の若者から年金記録:将来の年金額を確認し人生設計に役立てています。

米国でも、ドイツでも諸外国では年金保険被保険者全てに情報を詳細に報告し国民の年金への意識を高めていました

我国では最近まで質問者の言われるように定年まじかな方へしか年金記録情報を提供していませんでした。
それが平成20年改正でやっと情報開示することとなったものです。

厚生年金保険法第31条の2:国民年金法第14条の2
(被保険者に対する情報の開示)
「中略…納付実績、将来給付に関する必要な情報を分かり易い形で通知するものとする」
大切な年金に情報をやっと50年経てようやく国民視線で開示することになったものです。
残念なことに質問者のように知らされていないことに慣らされ、知ることの重要性に無頓着な意見が多いことです。
税金の使い道も余り追求しない国民性。ぜひねんきん定期便の重要性を認識し、更に情報を充実させ、待ち遠しく感じていただきたいものです。


2、社会保障相談室86

質問

では国民に分かりにくい年金制度を分かってもらえるような周知広報を役目とするセクション:担当部局はあったのでしょうか? そういう事業はあったのでしようか?

回答

さすが厚生省、昭和36年国民皆年金皆保険制度を発足させた時、既に国民年金委員制度を誕生させています。昭和35年、国民年金制度の周知広報を行う民間拠力者として民生委員や自治会長等地域の方々を委嘱しました。
その主管組織として、社団法人日本国民年金協会が昭和36年の皆年金制度発足に先立ち、昭和34年 設置されています。
昭和34年4月国民年金法が国会で可決されたがその1カ月前に国民年金協会が設置された。
出来上がるであろう国民年金制度の普及及び発展向上のための広報宣伝事業が主要任務で、そのため民間協力者等の啓発指導と組織化事業として国民年金委員も設置された。

…問題は外見は立派な組織制度であっても、真に国民に分かり易く年金制を周知広報に機能充実させてきたかである。
残念ながら有名無実、ほとんど機能せず、国民もお上まかせの悪習慣があり、年金制度は国民皆に理解された身近な制度になっていなかったのである。
だから5千万件記録喪失騒動も起った。
周知徹底していたら起らない騒動だった。
社会保険庁も解体されなかったのに…

こうした苦い歴史を踏まえ、新しい動きもある。

国民年金委員制度が新しい年金機構の手で「年金委員制度」として生まれ変わりつつあることも今後の期待材料である。
国民に愛され信頼される身近な年金制度に年金委員を活用すべきである。
世界に誇る国民皆年金皆保険制度を皆で再認識し大事にしっかり守り育てる50周年でありたいものです。



社団法人日本国民年金協会


健全な国民生活の維持・向上を図り、国民年金制度を充実発展させるために、保険者、被保険者及び保険関係者等の協力を促進し、制度の普及につとめ、これにより事業の円滑な運営に資するとともに、制度の改善進歩に寄与することを目的に、昭和34年3月に設立されました。


当協会では、次のような事業を行っております。
●国民年金の制度及び運営の改善充実のための調査・研究事業
●国民年金制度の普及及び発展向上のための広報宣伝事業
●国民年金の被保険者・年金受給者及び民間協力者等の啓発指導と組織化事業
●国民年金関係団体との連絡・提携事業
●国民年金関係者に対する研修事業
●都道府県及び市区町村等の会員に対する機関紙の発行及び図書類の出版事業
●その他事業

海外の方への任意加入サービスもここで扱っていたが現在は千代田年金事務所へ業務が移管された。

海外に居住する日本人も国民年金に任意加入できます。
 20歳以上65歳未満の海外に居住する日本人(第2号、第3号被保険者を除く)は国民年金に任意加入することができます。
 任意加入の手続や保険料納付方法などは、最後に住所を置いていた地域を管轄する市区町村役場か社会保険事務所にお問い合せ下さい。
 なお、平成19年6月まで社団法人日本国民年金協会で手続を行っていた方については、千代田年金事務所(電話:03-3265-4381)にて事務を引き継ぎました。
*任意加入しない場合、海外在住期間は合算対象期間として老齢基礎年金を受給するための資格期間に算入されますが、受給する年金額には反映されません。
海外居住者の国民年金任意加入の代行業務について
2010/01/01
当協会における海外に在住する日本国籍の方の国民年金任意加入の手続代行業務は、平成19年6月末で終了しています。

海外に在住する日本国籍の方の国民年金任意加入の手続窓口は、次のとおりです。


○ これから海外に転居される方は、お住まいの市区役所・町村役場が窓口です。
○ 現在、海外に居住されている方は、日本国内における最後の住所地を管轄する年金事務所が窓口です。
○ ご本人が日本国内に住所を有したことがないときは、千代田年金事務所が窓口です。
なお、平成19年6月末時点において、日本国民年金協会を通じて諸手続を行っていた方の窓口も千代田年金事務所となります。

千代田年金事務所
海外居住者照会専用電話:03−3265−4389


※国民年金協会を語った犯罪も発生

年金過誤払い額返還請求書兼警告書

前略 当職は、日本国民年金協会といいます。
 今回まことに申し訳ないことに、貴殿が現状受給している
年金額に誤りが発覚しました。年金は国有財産であり、その
支給額は国民全体に平等に振り分けられなければなりません。
よって当職としましてはこの問題を解決するまで次回の年金
支給手続きを取ることが出来ません。
 そこで、上記金11万3674円を、本書面到着後3日以
内に、当職の次の住所に郵送し、返還するよう、本書面を以
て催告します。
 本来貴殿は、上記金額を一括にて返済すべきですが、万一、
一括返済が不可能な場合、一部でも郵送返還し、残額につき
支払予定を当協会に相談することを要求します。
 万一ご返済がないときは、止むを得ず、貴殿の年金支給を
停止するとともに、東京地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提
訴し、貴殿の資産を差し押さえる所存です。
 以上のとおりご通告申し上げます。
    日本国民年金協会
     東京都豊島区池袋2-67-8

とんでもない詐欺事案である。

※未納情報  高額所得者に意外と多い未納者

未納率が最も高かったのは所得が「200万−300万円」の世帯の
19・0%で、ほぼ5世帯に1世帯の割合。次いで「300万−400万円」が
17・7%、「100万−200万円」の17・4%の順。
 一方、「900万−1000万円」は11・5%、「1000万−1200万円」も
12・1%、「1200万−1500万円」でも9・2%で、高所得世帯の
未納率も10%前後あった。


※天下り

厚生労働省(旧厚生省)と社会保険庁の幹部計79人が、同省庁関連の公益法人の理事長などに天下っていたとする答弁書を決定、国会に提出した。
>中には退職金として、最も多い人で9000万円、25人が5000万円以上受け取っていた。
>
> 天下り先としては、全国の社会保険病院の運営に当たる全国社会保険協会連合会(全社連)で、旧厚生事務次官が理事長を務めたほか両省庁の幹部五人が常務理事や総務部長を務めた。
>
> 国民健康保険中央会、厚生年金事業振興団、長寿社会開発センターはそれぞれ六人を理事長などに受け入れ、日本国民年金協会など四団体にそれぞれ五人が天下った。



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祝 国民皆年金皆保険制度発足50周年  節目の年に世界に誇るべき制度の凄さを皆であらためて見直そう

2011/06/26 10:43
祝 国民皆年金皆保険制度発足50周年  世界に誇るべき制度節目の年゛皆であらためて見直そう゛

T、昭和36年(1961年)はどういう年だったか…wikipediaの年表を見る

1月  米大統領に、ジョン・F・ケネディ就任。
4月 - 第33回選抜高校野球大会は神奈川・法政大学第二高校がエース柴田勲の投打にわたる活躍でセンバツ初優勝。
4月 人類初の有人衛星、ソ連宇宙船ボストーク1号が、ガガーリン飛行士を乗せ地球一周に成功。
6月  トヨタ自動車が大衆車「パブリカ」を発売
8月 第43回全国高校野球選手権大会は大阪・浪商高校が2年生エース尾崎行雄の活躍で15年ぶり2度目の優勝。
10月 大関の柏戸(第47代)、大鵬(第48代)が同時に横綱昇進(柏鵬時代の幕開け)。
ヒット曲   石原裕次郎&牧村旬子「銀座の恋の物語」
坂本九「上を向いて歩こう」
植木等「スーダラ節」
ベストセラー 松本清張『砂の器』

※ブログ氏追加補正 

4月  皆年金皆保険スタート


1959年、第31回国会に国民年金法案を提出、国民年金法が制定され、1961年4月から施行された。

国民年金とは、日本国憲法第25条第2項「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」に規定する理念に基づき、すべての国民を対象に、老齢、障害又は死亡による所得の喪失・減少により国民生活の安定が損なわれることを国民の共同連帯により防止し、健全な国民生活の維持及び向上に寄与することを目的とする公的年金制度である。

加入者は自営業者、農業者、学生、厚生年金のない事業所に勤務する者、無職等20歳以上60歳未満の者
事業所に勤務し厚生年金保険に加入する者含め全国民対象に皆年金制度がこの年発足した。


国民健康保険制度の昭和36年

1955年頃まで、農業や自営業者、零細企業従業員を中心に国民の約3分の1に当たる約3000万人が無保険者で、社会問題となっていた。しかし、58年に国民健康保険法が制定され、61年に全国の市町村で国民健康保険事業が始まり、「誰でも」「どこでも」「いつでも」保険医療を受けられる、国民皆保険体制が確立した。
1938年1月に設立された厚生省は、その年の秋に国民健康保険制度を成立させました。
もともと強制加入の構想が持ち上がっていましたが、医師、薬剤関係などの強い反対により崩れ、任意加入となりました。しかも医療費の30%〜45%を本人自身が負担する制度なので、最も必要性のある自作農以下の貧困層には、十分な医療保険の機能はなかったといえます。
その後、農林、漁業従事者や中小商業者(個人)なども国民健康保険の対象となりました。これは、軍事面からみて戦争遂行のため、その適用範囲を拡充したものだったようです。

この国民健康保険は、戦後、1928年に占領軍である連合国軍総司令部(GHQ)の指導で、市町村公営の原則を確立しましたが、財政事情の悪化に伴って多くの市町村で休廃止されてしまいました。その結果、1955年頃は、農業、自営業などに従事する人々や零細企業従業員を中心に、なんと国民の約3分の1に当たる約3000万人が医療保険の適用を受けない無保険者だったのです。

このため、1957年度から4ヶ年にわたって再度全市町村に普及せしめる計画が立ち上がりました。
1959年、全面的な法改正によって市町村及び特別区に国民健康保険の設立が義務化されます。
そして1961年4月に完全普及されていわゆる「国民皆保険」が達成され、誰もが保険料納入を一種の税として義務化されたのでした。





様々な経済:社会一般事項が年表で紹介されているが、この年最大の歴史的出来事が抜け落ちていた。
日本は、国家基本機能として、戦後の混乱期から立ち直り、新たな国家目標を定めた。それが平和な福祉国家創設であり、その具体化が昭和36年4月1日国民皆年金皆保険創設であった。
このwikipedia年表は世の中の皮相的諸事は伝えても国家最大の基本機能上の最大の出来事を落としていることはまことに残念である。
本物の年表ではない。

U、国民皆年金皆保険制度創設の経過

@戦後の混乱と社会保障の要請

1948年には戦後の混乱期もあって加入率が60 %を切るようになり,国民の間で健康不安が広がった。
そこで,政府はイギリスにおいて戦後の社会復興を目指した政策提言の「ベバリッジ報告」の強い影響を受
け,1950 年の社会保障審議会による「50 年勧告」に従って,国民皆保険制度の確立を政策として取り
入れた。

Aベヴァリッジ報告書(Beveridge Report)

ウィリアム・ベヴァリッジが示した社会保障制度拡充のための一連の報告。
第二次世界大戦後のイギリスにおける社会保障制度の土台となった。
二次世界大戦中の1941年、労働組合会議の請願を契機として省間委員会が組織され、国民健康保険制度などについての検討が行われた。
その検討に基づいて1942年に示されたものがベヴァリッジ報告である。
報告の中で、健康保険・失業保険・年金などを、あらゆる国民がその対象になるような統一制度のもとで整備することが示された。この報告は国民の関心を強く集め、第二次世界大戦後における福祉国家への期待を抱かせた。

第二次世界大戦末の選挙において労働党が大勝し、アトリー労働党政権が成立したことは、この構想を実現へと向かわせた。
1946年に国民保険法、国民保険サーヴィス法などが制定され、いわゆる「ゆりかごから墓場まで」といわれるような福祉国家への道を歩んでいった。

主な内容は下記の通り。
(1)拠出と引き換えに給付が受けられる社会保険を核とする社会保険主義 
(2)すべての保険事故とすべての国民を対象とする包括的な社会保険 
(3)必要最低限度の生活費を一律に保障するナショナル・ミニマムの原則 
(4)定額給付をまかなう定額拠出の原則 など

Bベバリッジ報告と我国への影響

わが国の国民皆保険制度の契機となった「ベバリッジ報告」とは,1942 年,第二次世界大戦中のイギリスにおいて,当時の首相であったチャーチルが,大戦に勝っても負けても,国民も社会も混乱して復興が困難であると危惧し,国民に希望を与えて戦後の混乱期を乗り越え,社会を復興させるための施策の立案をベバリッジ委員会に負託して作成された政策提言である。

当初は,社会復興の対策として財政的,経済的に主として検討されたが,委員長のベバリッジが強いリーダーシップを発揮して,戦後の混乱した社会を復興させるには,総合的な社会保障制度の確立が最も重要であるとし,貧困,失業,疾病対策などを柱とする,省庁の枠組みを越えた政策提言を行った。
1942 年11 月に発表され, 2 カ月後には国民の95 %がその内容を知り,88 %が賛成するという圧倒的な支持を得て,戦中の混乱期に人々に明るい希望を与え,実際に戦後の社会復興に大きな貢献をした。医療は原則無料となった。

 わが国も,このようなベバリッジ報告に触発された社会保障審議会の「50 年勧告」に基づいて,1958 年に国民健康保険法が改正され,50 年前の1961 年に,ついに国民皆保険が達成され,すべての国民に医療の平等な給付とフリーアクセスが保障されることになった。

C昭和36年当時の経済:社会的事情と福祉国家創設の背景

第2次世界大戦後の復興期であるこの時代、社会保障分野ではアジア各地からの引揚者や失業者などを中心とした生活困窮者に対する生活援護施策、劣悪な食糧事情や衛生環境に対応した栄養改善とコレラ等の伝染病予防が緊急の対策として求められました。

また、この時期は、日本国憲法により、国民の生存権の保障や社会福祉、社会保障、公衆衛生の向上等についての国の責務が明確にされるとともに、GHQの強力な指導の下に、制度の創設や行政機構の整備が進められていった時期でもありました。

1950年 社会保障制度審議会勧告
生活保障の責任は国家になるとし、国民に必要な費用を拠出する社会保障制度を社会保障の中心におく。
社会保障制度とは、疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業、多子その他困窮の原因に対し、保険的方法または直接の公の負担において経済的保障の途を講じ、生活困窮に陥った者に対しては国家扶助によって最低限度の生活を保障するとともに、公衆衛生および社会福祉の向上を図り、
もって、すべての国民が文化的社会の成員たるに値する生活を営むことができるようにすることをいう。

(国民皆保険・皆年金の実現)・昭和30年代の高度経済成長により国民の生活水準が向上するに伴い、生活困窮者や援護が必要な人々に対する救済対策に加え、一般の人々が疾病にかかったり、老齢になるなどにより貧困状態に陥ることを防ぐ施策の重要性が増加していきます。
・経済社会が戦後の混乱からの立ち直りを見せる中で、全国民をカバーする社会保障制度の確立を求める声が高まり、病気にかかった場合の医療費保障や老後の所得保障等などが確保されることになりました。・さらに、社会福祉の分野での老人福祉法や児童手当法の制定、老人医療費支給制度の創設、医療保険制度や年金保険制度などにおける各種給付の充実を図り、この時代に我が国の社会保障制度の体系がほぼ整いました。

(当時の事情と皆年金皆保険制度導入の真相)

 昭和36年に国民皆保険制度が始まって50年になります。
当時は国民の3分の1に相当する3000万人が無保険でしたが、貧乏と病気の悪循環を断ち切ろうと、市町村を保険者とする新たな国民健康保険法を制定し保険加入の義務化を行ったのです。
しかし政府が決めた医療費が安かったため、従来どおりの自費診療しか扱わないお医者さんも多く、そのために市町村の担当者は協力を求めて歩いたそうです。
 昭和40年代の初め頃から、高齢者の受診率が若者に比べて3割以上も低かったことに加え、好調な地方財政事情もあり、老人医療費の無料化が地方自治体の単独事業としてどんどん拡がり、結果として48年1月から国の制度として老人医療費の無料化が始まりました。同年10月からは高額医療費の支給制度により3万円以上の医療費は償還されるようになりました。

1962 S37 7/1 社会保険庁設置

制度成立が模索された1950年代。それはどんな時代だったのか?
1.国民事情
(1−1)農村における労働力の供給過剰状態
◎ 戦場・旧植民地からの大量引揚者
―――1950年の調査では、敗戦後483万人(総人口8320万人の5.8%を占める )が帰国した。ほとんどが生産年齢人口であった彼らの多くが、農村で農業等に従事するようになった。

◎農家の二男三男
―――後を継がない子供が働き場をなくし、農村の過剰労働力となる。「出稼ぎ」形態をと
る必要もない彼らは、相対的に労働需要のある都市へと流出する。

◎ 第3次産業への就業 ――小規模事業所・低賃金――
―――農業と、多産業における所得格差の大きさから、彼らは低所得・低水準労働環境を厭わない労働者となったと推測できる。具体的には、急増した第3次産業の小規模事業所に吸収されたと推測できる


政治家事情
(2−1)政治家の願い
◎ 長期安定政権
―――吉田茂VS鳩山一郎の長期対立 、労働争議、それらに伴う社会党・共産党の躍進の経験 
◎ 完全雇用

(2−2)『国民事情』は何を意味しているか
||
(B)New都市労働者の拡大
・ 低所得者層の拡大 = 社会主義勢力拡大の危険性
・ 潜在失業者の増加 = 完全雇用の阻害、社会不安につながる
 ―――何か対策が必要!!

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
ここまでで立てられる仮説@

戦後、農村の余剰労働力流入によって都市部に小規模事業所・低賃金労働者層が急増し、保守与党はそれらへの対策を必要とした。
--------------------------------------------------------

吉田VS鳩山の対立解消について、55年体制の成立と比べて「54年12月7日の吉田の退陣と、3日後に続いた鳩山内閣の成立は、戦後初期の危機沈静に大きく役立った。その効果は55年11月の保守合同以上だったと言えるだろう。

V.資本勢力の事情
―――この流れでいくと、未加入状態のNew都市労働者は健康保険、厚生年金の制度をもって取り込まれると予測できる。「労働者」−所得捕捉容易−一応負担能力もある−・・・しかし、実際には国保・国民年金の対象者として「その他」に分類されることになった。
そこには、資本勢力の大きな抵抗があったと考えられる。

◎資本勢力の大きな意見力、政治力
―――分立型皆保険皆年金制度の設立過程において、戦後のインフレを前に厚生年金の給付率引き上げを断固拒否。それが国家公務員との制度格差をもたらし、他各対象者を厚生年金から各自分立した制度を成立させることになった。

ここまでで立てられる仮説ANew

都市労働者への社会保険制度の拡充は、資本勢力の意向によって、健康保険・厚生年金の適用範囲拡大ではなく、国保・国民年金の改正をもってなされた。



5、国民皆保険制度50 周年を迎えて


The Health Care System of Japan ― The 50th Anniversary ―
独立行政法人国立病院機構 理事長  矢ア 義雄
 今年は,わが国で国民皆保険制度が実施されてから50 周年を迎える。
すべての国民に給付の平等と医療へのフリーアクセスを可能にした素晴らしい社会保障制度で,世界大戦後の敗戦国でありながら,
世界で4 番目に達成されたことは特記すべきことであった。

国民皆保険制度が果たした大きな役割 医療のフリーアクセスが保障されるようになって,それまで困難であった入院治療が広く受け入れられるようになり,また公衆衛生のインフラ整備が進んだこともあって,わが国は世界一の長寿国となり,国民は健康を享受できるようになった。

一方,国民の医療需要が著しく増加したにもかかわらず,医療の水準が高く保たれ,また国民医療費は先進国の中でも最も低いレベルに抑えられ,2000 年の世界保健機構(WHO)の評価でも世界で最も効率的で優れた医療が行われていると認定された。
これは,わが国では医師に優秀な人材が集まっているとともに,ヒポクラテス以来の医師の社会的使命感に基づいて今日まで,献身的に診療が行われてきた証しともいえる。
 さらに,国民皆保険制度は,今日まで国民の健康被害時に大きな役割を果たし,国民の健康を見事に守ってきた。
直近の例では,新型インフルエンザ流行時に病診連携のもと,発症早期に患者への迅速で適切な対応が行われて重症化を防ぎ,わが国の死亡
率は人口10 万人あたり0. 16 と,他の先進国の数分の一から数十分の一に低く抑えることに成功したことは画期的な実績であるといえる。

6、誕生秘話   =国保中央会が1998(平成10)年に『50年の歩み』を発行した。

…ではこの座談会で何が語られているのか。私がもっとも注目したのは、皆保険となる新制度の国保の発端に関する“秘話”であった(以下敬称略)。
 司会の首尾木が、「国民皆保険というのは一体真相はどういうことで始まったのか、ということをお伺いしたい」と聞くと、伊部英男が答える。
「真相は意外なことなんだ。実は、吉田内閣が潰れて鳩山内閣ができ、まあ、吉田さんは計画ってのが大嫌いでね、鳩山さんは計画をやると言う。自立経済5か年計画、昭和32年から35年にやったんです。そこで経済企画庁(現・内閣府)が5年間の予算を組んで、厚生省は長期計画がないから5年間に5倍にするということを言ったんです。僕は当時(保険局の)企画室にいました。僕も経企庁の推計というのはどの程度効果があるのかよくわからんけど、とにかく何か長期計画を出さにゃいかんということなんです」
 「その前に一遍、国保課にいた松浦万年君が総務課の僕のところへ来て、国民皆保険というのをやりたいので、検討してくれと持ちこんできたことがある。その時は、ちょっと無理じゃないかというんで、僕の方でアウトにしたんですが、それが頭に残っていましてね。そこで僕は経企庁から帰ってきて一晩で、その国民皆保険計画を昭和35年までに達成する、35年までに国民皆年金の体制を作るという長期計画を作りました。それを、川崎(秀二)大臣に、牛丸(義留 よしと)企画室長が持っていったら、川崎大臣がえらい喜んで、『これだ、これだ』という。そうしたら、それが朝日と毎日の政治面トップに載ったわけです。そこで、これがもう既成事実みたいになりましてね。それがまあ、いわば偶然といえば偶然なんです」
 「そういうことか。知らなかった」と、山本正淑が応じている。
 驚くべき“真相”ということになろうか。

V、成果

昭和35年日本人の寿命は

1960(昭和35)年 男 65.32歳
            女 70.19歳(初めて、70↑)
───────────────────────────────────
 *平均寿命の先進国であった北欧やスイスの諸国では、男が70歳前後、女
  が75歳前後であり、日本とは、まだ5歳くらいの差があった。


平成18年簡易生命表によると、男の平均寿命は79.00年、女の平均寿命は85.81年
この50年で男女とも平均14年延命している。
史上まれにみる急速な経済繁栄、世界最高水準の衛生事情向上、唯一戦争がないこととともにこれまた世界に冠たる国民皆年金皆保険制度がこれに貢献しているのは間違いない。
今、豊かになった日本で何故年金制度、健康保険制度の制度疲労が著しくなり、速やかな修復改革が進んでないのだろう。昭和36年当時は今より遙かに貧しく乏しい時代だったのに。しかし今よりはるかに将来に希望を持って皆で助け合っていた、そして勝れた制度を志向していたことも間違いない…素晴らしい制度の素晴らしい50年を誇りを持って見直そうというジャーナリズムも政治からの動きも残念ながら一向に見当たらない
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