閣議決定30日後、平塚町長大野村長へ海軍用地に36万坪必要、直ちに買収開始協力せよの通達あり

第3幕  平塚町長、大野村村長 中群役場に呼び出される  晴天の霹靂「海軍省通達」を聞く  八幡芋名産地から軍用火薬製造の地に…


1、国内に火薬製造所設立の閣議決定の1カ月後、明治38年7月5日、平塚町長、大野村村長 中群役場に呼び出される。

海軍省通達「平塚・大野地区の36万坪を国家的一大事業で必要となった。
直ちに買収に入る協力せよ」との内容、有無は言わせない軍機密事項であった。

すでに1カ月前にあの広大な中原の御林は宮内省御料局所有から海軍省に下付されていた。
ここを国内初の火薬製造所建設用地の中心にすえ、不足する部分を平塚町、大野村周辺民有地の買収により確保する計画だった。


2、何故平塚・大野の地が国内初の火薬製造所に選定されたのか?

>①広大な中原御林が海軍省所有地に下付されていた為、不足用地も少なく民有地買収が安価におさえられる
②土地が広大で平坦だった
③冨士、丹沢山麓を源にする相模川、金目川が近くを流れ地下水が良質豊富だった
④人口の比較的稠密な農村地区で労働力も得やすい地域であった
⑤首都に近く、国道東海道、鉄道東海道線、航路横須賀港、須賀港、大磯港があり交通網も発達していた

3、明治38年7月11日 海軍用地買収価格通知書が中群役所に届く。

買収価格1反歩につき平均100円
9月から11月にかけ用地取得、登記決了していった。
住民96人への買収総額46、703円97銭だった。
大野村では全耕地の7分の1、98町歩に渡った。

海軍の用地が何に使用されるかは全く知らされなかった。
試射場、練兵場、要塞、騎兵団基地など憶測が流れ、中には下瀬火薬製造所の噂が村人を恐怖させた。
  
12月7日 会社平塚支店の設立登記がされた。
登記上の会社名称は「日本火薬製造株式会社」アームストロング社のAノーブルが社長に就任。
軍機密のまま工事が進められた。日露戦争の勝利に沸くこの時期、地元民の懸念、訴えは限界があった。
  
明治40年11月 平塚工場完成 12月 無煙火薬試薬製造開始、
 
明治41年12月 完全操業開始  工場支配人 J.Mバー、主任技師 FVウォオーカー 
多くの優秀な専門技術者がノーベル爆薬社から派遣されていた。平塚工場に従事した英国人は常時40名近かった。
  
耕作地を強制的に離された農民、極度に減少した農民、影響がなかった農民に別れた大野村は当然特産八幡芋の生産も激減し、農産品の生産量、収入に著しい差別化が生じてしまった。
これらの対応に村の財政も逼迫させられたのであった。
全て国家の為に…。


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海軍火薬廠全体図面

1919年大正8年4月1日 日本火薬製造株式会社は契約期間満了に伴い海軍省に買収され、海軍火薬廠として新たなスタート、ついに火薬自国生産の道が開かれた。 
海軍火薬廠は、年産7,000トン。従業員8,500名。
平塚近隣の雇用を生んだ、多くの住民が職工として働いた、工業が工業を呼び、相模紡績、関東紡績、日本国際航空など多くの工場が集まり始め、工業都市として急速に発展て行く。
海軍火薬廠はその中心に座し、敷地46万坪に達し世界有数の火薬製造所として昭和20年終戦までフル稼働し続けた。

初代廠長 楠瀬熊冶海軍造兵総監(東京帝国大学工学部火薬科教授:工学博士)
第1工場 無煙火薬製造
第2工場 綿薬製造
第3工場 酸製造
第4工場 機械器具製造、修理
第5工場 爆薬製造(東京滝野川の当初置かれ、照和5年に京都中舞鶴に移転)

高等官(中将,大尉等武官、海軍技師等文官)
判任官(海軍兵曹長、海軍技手等)
雇員
雇人
職工

※大正12年9月1日の関東大震災の際も恐れた火薬爆発など起こさず職員は昼夜復興に努め予想以上の速さで工場は再開された。



製造火薬

初期製造の無煙火薬は英国式二年式火薬(揮発性溶剤火薬類)であったが、大正14年にはドイツ式十三式火薬(不揮発性)を製造し、より安全性、作業効率化が進み、カタパルト用、ロケット用の大型火薬も製造された。
独自にも研究開発がされ、砲用9種類、機銃用5種類、ロケット用が2種類正規採用となった。


海軍火薬廠本廠、第2海軍火薬廠

日華事変は大幅な生産増強を必要とし、工場の大拡張が進められたが限界もあり、海軍は新たに宮城県柴田郡船岡村に大正14年海軍火薬廠支廠を解説、平塚は本廠と呼ばれた。
大正16年には船岡を第一火薬廠、平塚を第二火薬廠、舞鶴を第3火薬廠と組織改編し軍事拡大に備えた



※恐ろしい死の武器:火薬製造と住民の心配

住民の理解、支持なくして火薬廠はありえない、海軍は住民対策に腐心していた…

◎助成金=平塚町、大野村の財政当局に毎年度地方財政を潤す相当額が交付された

◎交歓会=機会あるごとに地元民を招き交歓親睦の会を開いた

◎帝国大学会=火薬廠には帝国大学卒の幹部が多く、地元の帝国大OBとの平塚学士会が組織され連携を図った

◎便宜供与=自治会、婦人会、青年会等地元民の行事に惜しまず便宜供与した。

◎5月27日海軍記念日には平塚大運動家会を開催、市民の年中行事にもなっていた

◎廠内のテニスコート等解放=小中学校の先生たちがプレーしていた、剣道、柔道など住民にスポーツの普及振興に協力した

◎海軍共済病院が廠内にあったが、市民村民が受診出来た、最先端の医療を受けることができ市民は喜んでいた


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火薬工場の一部は現在も残る。今は平和産業に貢献している


火薬廠は、平塚市民の誇りにたるものでもあった。
「火薬廠の工員になる」ことは、海軍の軍籍に入ること、すなわち海軍軍人になることと同じでした。
したがって、「火薬廠の工員になる」ということは、平塚では特別の意味を持つことになった。

確かに、研究所を併設した工場は、他地域からの優秀な人材を平塚市民に定着させることになりました。
創業時代の一時期とはいえ、英国式の文化を垣間みる機会にも接します。

平塚市民が火薬廠の工員になるためには、併設された海軍工員養成所に入所することでした。
工員養成所へ進学を希望するものは、他の上級学校(師範学校)へ進学するものとほぼ同等の優秀さを必要とし、それに応募する者は、県下はもとより広い範囲におよびました。
数倍の競争を勝ち得た者が養成工として、先の誇りが補償されたのです。

こうした火薬廠に対する思い入れは、戦時下、優秀な工員達の出征により、その穴埋めとして動員される徴用工員、学徒勤労報国隊、女子挺身隊においてすら「火薬廠に徴用される」、「学徒として火薬廠に勤労・報国する」、「挺身隊として火薬廠に赴く」ことが、名誉とされる傾向を生む基になっていきました。


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平塚の軍需工場に働く女子挺身隊員をテーマにした映画「一番美しく」は黒澤明監督2作目の傑作である
懸命に光学兵器を製造する健気な女性労働者の物語に軍検閲官は泣いて喜び以後黒澤は徴兵されることはなかった、黒澤はこの映画の主演女優矢口陽子と戦後結婚した。黒澤の面目躍如でもある。




平塚町、大野村に突如設立された国内初の火薬製造所、海軍火薬火薬廠は、そこに働く人々、町や村の人々を大きな大きな歴史のうねりに巻き込こんでいく。
次回ブログは第4幕「米軍は標準を平塚に定めた」を発信します



制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄


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