大日本帝国海軍の決死と発展の5日間   閣議の前に平塚に決まっていた海軍火薬製造拠点  

第2幕 大日本帝国海軍の決死と発展の5日間


>;①前夜→明治38年5月27日~28日 
日露戦争の雌雄を決す日本海海戦でバルチック艦隊は連合艦隊により全滅
東郷平八郎連合艦隊司令長官は、バルチック艦隊は必ず対馬海峡を通過してウラジオストクに向かうと判断し、朝鮮半島南端の鎮海湾に連合艦隊を集結させ、猛訓練を続けながら待ち構えました。
明治38年5月27日早朝、仮装巡洋艦「信濃丸」からの「敵艦隊見ゆ」との警報を受信した連合艦隊は直ちに出撃、対馬沖でバルチック艦隊を迎撃し、5月27、28の両日にわたって激しい戦闘を繰り広げ、ロシア艦隊を撃破、降伏させました。

丁字戦法
敵艦隊に対してその進路を横切るような対勢を取れば、敵はわが方に対して艦首側の砲しか指向できないのに反し、わが方は片舷全部の砲を敵の先頭艦(旗艦)に集中でき、敵の命令指揮系統を早期に破壊することができます。

戦艦 三笠。英国ヴィッカーズ社建造
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装甲巡洋艦 常磐。英国アームストロング社建造

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日露戦争中の日本海軍の主力艦はほとんど英国製であり、艦載砲火薬も英国製だった。
英国ノーベル社製火薬を輸入調達していた。
国産化の必要性が痛感され、国内で砲用発射火薬を製造すべしとの論議が海軍内部でも沸騰


下瀬火薬と英国製火薬

破壊の下瀬火薬
日本海軍規格の下瀬火薬/下瀬爆薬は、ほぼ純粋なピクリン酸である
日本海軍は1893年にこの火薬を採用し、下瀬火薬と名付け(後に下瀬爆薬と改称)、炸薬として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いた。
日露戦争(1904年-1905年)で大いに活躍した。
海軍はただでさえ威力の大きな下瀬火薬を多量に砲弾に詰め、また鋭敏な信管(伊集院信管)を用いて榴弾として用いた。敵艦の防御甲鈑を貫通する能力は不十分だったが、破壊力の高さと化学反応性(焼夷性)の高さから、非装甲部と乗組員に大きな被害を与えた。
明治38年5月27日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を粉砕した一因は下瀬火薬である。

発射の英国火薬
下瀬火薬は砲弾の炸薬として用いられ、発射には用いられていない。
砲弾の発射に用いられたのはコルダイト(硝酸エステル系無煙火薬・当時イギリスより輸入)である。

 旧日本軍はコルダイトを装薬に使っていたため発射時の煙が少なく連射ができた。下瀬火薬に限らず、爆速の大きな火薬を発射に用いると砲が破裂してしまう。炸薬と反対で、発射薬は爆速の遅いものを用いなければならない。

日本艦隊の射撃速度はロシアの3倍になっていた。
バルチック艦隊との主砲の数の劣勢、2倍を射撃速度で跳ね返し、日本艦隊が逆に1.5倍だった。

士官の訓練を繰り返し、日本海開戦時には日本の射撃の命中率はロシアの3倍と推定されている。
射撃速度は3倍、命中率も3倍とすると、日本艦隊の主砲の数がロシアの半分だから、実効射撃量は4.5倍という計算になる。

日本海海戦の勝因は?」との質問には、
「実効射撃量が4.5倍だったから」
と答えることができる。


日本海合戦からわずか10日後、6月6日、7日、8日疾風怒涛の3日間何が起ったか

1、請議

戦争中の6月6日 
海軍大臣山本権兵衛から極秘の請議がされた、中身は「官房機密第668号海軍用火薬製造所設立の件」であった
…戦闘艦の装甲を貫く勢いある火薬を国内で作り出し改良を図ることが軍事上極めて重要。
火薬製造に熟達した外国人、法人によって我が国内に火薬製造所を設立し、造兵事業の一大発展を図ることが急務である…

   
2、閣議
6月7日  閣議決定 

第1次 桂内閣
内閣総理大臣=桂太郎
外務大臣=小村壽太郎
海軍大臣=山本権兵衛
陸軍大臣=寺内正毅
大蔵大臣=曾禰荒助
   

閣議決定内容

海軍用火薬製造所設立の件を審査するに、右は相当の儀と思考す。
依って請議の通り、閣議決定をせられ可然と認む

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国内におけ火薬製造所がこうして設立する運びとなった。
なんと次の日⇒

3、契約
6月8日 英国アームストロング社、英国ノーベル社、英国チルワース社と日本政府は、日本国内に火薬製造所を設立の契約を交わした。

交渉代表=海軍艦政部長斉藤実:英国アームストロング社

…日本国内の土地を無償で3社共同体に提供し、会社は3年以内に火薬製造工場設備を完成させ年産300トンの火薬を製造する。

…出来る限り日本人職工、日本産材料を使用する。

…工場の作業を途切れなくするため日本政府は火薬製造の注文を3カ月ごと注文書を渡し、製造された火薬は
  全て購入を確約した。」本契約は10年とし、期間満了次第日本政府は製造工場を買収する。

◎日本海軍は火薬製造に係る技術移転を10年と見込み、国内での火薬製造に並々ならぬ意欲を持っていたのである。
    


同年 9月5日  日露戦争終結 講和条約締結


日本海海戦の大勝利に国民が湧いていた時、日本政府、海軍幹部はこの勝利は薄氷の勝ちと心得、冷静に客観的に分析、発射火薬を英国から購入していたからこそ日本伝統の下瀬火薬と合わせロシア艦隊を破壊しえたのであり、我が国自身で発射火薬を製造させなければ列強に伍していけないと即断、速やかに実行に移ったのだ。
新規技術を果断に研究しわが手に手入れるべく努力し、日本伝統の技術と合わせ更に向上させようとする日本海軍の姿勢に英国は感心し驚嘆したという。
以後東洋の小国と日英同盟を結び強力な連携を保っていくこととなる。


怒涛の3日間で我が国に火薬製造所設立が決まった。
ではどこに火薬製造所を持っていくか…実は怒涛の3日間の頃にはもう決まっていたのである。
即断即決の海軍が選んだ場所は…

次回ブログは第3幕 すでに国家意思は平塚の町にあった
平塚中原御殿、御林再度の登場を発信します。蠢動の閣議決定3日間であるが、その1カ月後中原御殿、御林を襲った嵐を徳川家康は驚くばかりであったろう。
                  

制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄


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