太っ腹神奈中ボウルからボウリングの極意と営業の極意を学ぶ●学んで興味を湧かせ向上心に点火させ●

市のスポーツ振興事業「シニアボウリング教室」に参加した。
4回の教室が楽しく終了した。
そして驚くべき修了証替わりのプレゼントがあった。

皆さんに神奈中ボウルよりボウルのプレゼントがあります。
色を選んでください。ドリルのため指の採寸に協力下さいとのこと


生徒12名のシニア皆絶句。
100点そこそこでマイボウラーか。
断る方も数名いられた。
小生は挑戦の追い風と大感謝、色は紫に即断。
かくて70歳のマイボウラーが誕生した。



4回の教室は 2人のプロからボウリングの歴史から始まり、レーン、ピン、スパット、4歩助走等全般講義形式で時にはレーン背後のメカニック見学もあった。
後半が実技、投球練習会
レッスンでは「投げた反動で体が持って行かれている、肩を止め、右足を我慢すること」等指導受けた。

1回目 6月26日 スコア138      ストライク0回     スペア5回
2回目 7月3日   〃 146       〃    3回         4回
3回目 7月10日  〃 156       〃    2回         5回
4回目 7月17日  〃 127と112  〃 3回と1回  〃  3回と2回
平均135 

オープンフレーム残りピンは

最多が6回の1番、3番
次が5回の5番、10番
次いで4回の6番
左側が残らない傾向
4番はゼロ
7番は1回
2番、8番、9番は2回だった。

左に行き過ぎる為右側が薄くなり残っている…「原因は親指が左を向く癖がある、対策として親指はスパットを向くよう」指導あり。

この傾向から、マイボウルを手にした今、訓練の目標、方向性は?

画像

平成26年7月24日 マイボウルいただく
▽BS社製12ポンド バックもアメリカンボウリングサービス製2、890円にする。
3,000円の投資で挑戦が開始された。
教室終了OBにより「木曜ボウリングサークル」が用意されていた。
ここらが神奈中の営業戦略のすごさ。
練習時間にはプロのワンポイントアドバイスあり
本番3ゲームは記録され最終週は大会方式になりハンデに適用される。
木曜サークル代は1500円。

さっそく投球……

1ゲーム目  1球目からさっそくダブルが来た  165
2ゲーム目                        139
3ゲーム目                        145               

マイボウル効果
●平均スコア130から150とアップ
●1番3番に入り始めた    1番3番残った本数は0回、2回、2回と減った

マイボウル傾向
●右側ピンが残っていたのが、左側ピンが残り始めた  2番、4番、7番など2回  10番が最高3回残る
3番、6番、9番が減った

●スペアが取れなくなった  曲がりだしたので真っ直ぐ行かなくなり、安定しないというかどう曲がるか分からず惜しくも惜す傾向 

立つ位置は中央右  狙いは2番スパット不動

今後の訓練指標
とにかく慣れ   どう軌道が行くのか掴む  安定させること。


ボウリング史

1、 古代…エジプトでのボウリング●
1920年代にエジプトの紀元前5200年前の古墳の中から、木でできたボールとピンが発掘された。
現在のテンピン・ボウリングによく似たピンとボウリングボールを発見たい。
これが世界のボウリングの始まりだと言われています。
ボウリングは倒すピンを災いや悪魔に見立てて、それを沢山倒すことが出来たならば、その災いなどから逃れることが出来るという一種の宗教儀式であった。


2、 3世紀…英国での芝生上ボウリング●
イギリスでは、3世紀頃から芝生の上に置いたボールをめがけてボールを投げ、当たるか1番近かった者が勝ちとする「ローン・ボールズ」が流行しました。
この「ボウルズ」というのが今の「ボウリング」の語源になったようです。
今でもローン・ボールズはイギリスを中心に行われているようです。

3、 16世紀…ドイツでの宗教改革とボウリング●
ドイツでは、「ケーゲルシュビール」(棒倒し)というゲームが大流行しました。
当時はまだ単純なゲームであったり、宗教的な儀式だったようです。
立ててあるピンを邪悪なものと見立てて、どれだけ信仰心があるかを量っていたそうです。
16世紀初めに、宗教改革で有名なマルティン・ルターによって9本のピンをダイヤ型に並べる「ナインピンボウリング」を考え出してから、スポーツ的要素を帯びながらヨーロッパに広がりました。
9本という決められた数のピンを倒すという行為は、やがてナインピンズ・ボウリングという一つのスポーツとして派生し宗教家の間では人気のあるスポーツとして栄えた。

このことから宗教革命家と知られるルターは、現在のボウリングの基本的なルールを統一した意外な功労者でもあるといえる。また、ドイツの一部の地域では、いまだにその名残としてピンの数が9本でプレイする地域も存在する。

4、 19世紀…米国での10ピンボウリング誕生●
1626年オランダの移住により、アメリカのニューヨークにボウリングが初上陸。
1841年、9ピンのボウリングが賭博化し始めたためアメリカの多くの州でボウリング禁止条例が出されましたが、1865年にジョセフ・サムという男が「9本がだめなら10本で!!」と、現在のテンピンボウリングを誕生させました。
テンピンボウリングの誕生から30年後の1895年、アメリカボウリング協会(ABC)が創立されました。
それにより、ボウリングの統一ルールである「ABCルール」が発行されました。
現在のテンピンボウリングはこの「ABCルール」を基準に作られています。

▼ブルックリン▲
ニューヨーク市のマンハッタン街が右側、イースト川をはさんで左側がブルックリン街であることから名付けられた。


5、 ついに日本上陸…長崎の出島にあるボウリング発祥の碑●
日本で最初のボウリング場は1861年、6月22日江戸時代に長崎県大浦居留地に初めてのボウリング場「インターナショナル・ボウリング・サロン」が開設された
これを記念して、日本ボウリング場協会が1972(昭和47)年に6月22日をボウリングの日と制定しました。

長崎の出島には日本初としての「ボウリング発祥の地」として記念碑が建てられています。
なお、当時坂本龍馬が長崎に居留していた英国人貿易商グラバーと交流があったことから日本ボウリング資料館の開館を報じるボウリングマガジンにおいて龍馬が日本人初のボウリングプレイヤーであるかもしれないという願望を含んだ記事が掲載されたが

6、1864年 いよいよ横浜進出  
2番目にボウリング場ができたのは、3年後の1864年、横浜でした。こちらは平成7年に横浜初としての「横浜ボウリング発祥の碑」が建てられています。

※みなとみらい線の 元町・中華街駅の元町側出口を出てすぐ, 50メートル東。 “山手迎賓館”の向かい側に「港の見える丘公園」のフランス山地区の入り口がある。
ここから右手に回り込んだ場所に 写真の碑が建っている。


日本で最初のボウリング場は 1861(文久元)年に 長崎に出来たとされているが, 横浜においては, その3年後の1864(元治元)年に この場所に開場した。


しかし、日本初のボウリング場が開場したとはいえ、実際に日本人がプレーされることはなかったようなのです。
日本人の為のボウリング場ができたのは終戦後です。
米軍基地内に米兵の為のボウリング施設が設置されたのですが、それを見た加藤義秀氏と増泉辰次郎氏の2人が「日本人の為のボウリング場を作ろう!」と決意し、文部省、通産省に掛け合い、輸入の許可の申請をしました。

7、1952年 東京青山ボウリングセンター開場●
1952(昭和27)年12月20日、東京青山に日本で初めての民間ボウリング場「東京ボウリングセンター」が手動式20レーンでオープンしました。当時、日本ではピンボーイと呼ばれるピンを立てる人がいて、スコアも手書きという地道なものでした

8、1946年 自動化へマシン導入● 
世界では、1946年にAMF社が世界初の自動ピンセッターマシンを発表しました。
 日本で一般の人々の人気を集めたのは1960年代で、アメリカから最新機械が持ち込まれた頃です。

9、1970年8月21日 中山律子パーフェクト300点達成 ●●●

1970年8月21日、東京府中スターレーンで行われた、テレビ朝日(当時はNETテレビ)の『レディズ・チャレンジボウル』収録中に女子プロ初の公認パーフェクトゲームを中山律子が達成した。

TV中継でのパーフェクト達成のインパクトは予想を遥かに超えた社会現象を起こし、中山は「さわやか律子さん」の愛称とともに抜群の美貌と人気を誇り、花王のフェザーシャンプーのCM等に出演し一大旋風を巻き起こし、CM曲の「律子さん、律子さん、中山律子さん」は流行語となった。
女子プロボウラーは数多くあれど、中山は後に至るまで史上最強の女子プロと呼ばれ、同期の須田開代子らと共に爆発的なボウリングブームの立役者となった。


http://www.youtube.com/watch?v=tqK6Eru9hxU

また全盛期の中山は所属先である「東京タワー」の文字が書かれたボウラーシャツを着ており、それが中山のトレードマークとなっていた。
昭和42年には、日本プロボウリング協会が設立、19人のプロボウラーが誕生しました。
そして、ボウリングブームの呼び水となったのが女子プロボウラーの登場でした。
須田開代子、中山律子、並木恵美子らが登場するテレビ番組はピーク時、週7本という過密ぶりでした。


10、●爆発的なボウリングブームを巻き起こる●
全国に3880センター、数百メートルごとにボウリング場があったほどボウリング・ブームと呼ばれる流行ぶりを示した。
最盛期の阿佐ヶ谷ボウルでは朝6時からの早朝ボウリング(1ゲーム100円)に開店待ちの列が青梅街道まで並んでいましたよ。(畑山氏談)」

「順番待ちが300番なんてこともありましたよ。昼休みに受付表を書いて終業後の5時半にやっとプレーできるなんて状況でしたよ。
当時はマイボールを買っても順番待ちでいつまでたっても穴を開けてもらえなかったねえ。
(区役所佐藤氏談)」
「阿佐ヶ谷ボウルの逸話といえば貸靴代とコーラの売り上げで従業員21人の給料まかなえたくらい流行ってたんだよ。(畑山氏談)」


ボウリング企業物語


ブランズウイック

1962年 橋本義雄 米国視察  ロスアンジェルスでボウリングに出会う
余暇時代到来 余暇スポーツ時期到来、ブランズウイック、AMF,ボウルモア3社のオートマッチックマシン見学
1966年サンブリッジ設立米国ブランズウィック社 から製品・修理保証を認められた. 国内で唯一の正規リペアセンター

当社は昭和36年3月に、日本ブランズウィック株式会社として、総合商社三井物産と米国ボウリング界の名門ブランズウィックコーポレーションの2社により、ボウリング設備と関連商品の販売を営業目的として設立されました。
昭和45年3月に、日本ブランズウィック100%の子会社として、直営ボウリングセンターの運営・受託会社株式会社ブランズウィックスポーツガーデンを設立

昭和45年(1970年)、ボウリングメーカーのトップブランド「ブランズウィック」のモデルセンターとして豊島区池袋にオープン。
その後全国に展開していくボウリングセンター群の礎となる。

三井物産が米国Brunswick社と合弁して1961年に設立した日本ブランズウィックが輸入販売を行っていた。
主に外国製であるが、A-2ピンセッターは同じく三井グループの日本製鋼所の手によって国内生産されていた。

2007年、日本ブランズウィックの経営不振により合弁は解消され、サンブリッジが代理店となった


AMF(エーエムエフ)物語

伊藤忠商事が米国AMF社と合弁して1961年に設立した伊藤忠AMFが輸入販売を行っていた。
(のちに合弁は解消)外国製。現在は、ダイフクの子会社であるダイフクキュービカAMF[9]が販売を行っている。AMF社製のマシンはピンスポッターと呼ぶ。

BOWL-MOR(ダイフク)

ダイフク(当時、大福機工)が米国ボウル・モアー社と提携し、兼松の協力を得て1963年に国産化したもの。
近年まで生産が行われていたが、米国AMF社がダイフクと提携していた伊キュービカ社と合併したことにより、自社による生産を中止しダイフク自身はキュービカAMF社の代理店となることでボウリング事業を継続している。

ODIN(古河鉱業、のちの古河機械金属)

古河鉱業が高島屋と提携し、1960年に開発に着手。
1962年に試作ののち、1963年に販売を開始した純国産設計マシン。
ピーク期には専門工場の建設(現古河ロックドリル吉井工場)まで行われたが、その後1980年に生産が中止された。

神奈中ボウルの太っ腹戦略は米国ブランズウィック社の学ぼうボウル戦略が原点 
 
 1960年代米国のボウリング業界は最悪の状態であった。
そこから抜け出すための手段として米国ブランズウィック社が中心となり開発されたのがLTBである。

LTBはLEARN TO BOWL略であり、訳せば“ボウリングを学ぼう”という意味なのだろうか。  
つまり、お客様を“開発”→“育成”→“固定”→させるシステムだ。

開発はセールスや広告などでお客様をつれてくる作業。育成は教室などで教えて面白さを伝える作業。
固定はボウリングの基本的試合形式であるリーグに定着していくという作業なのだ。

  考えてみればこの開発→育成→固定という作業は全てのビジネスにあてはまる。
「どのようなビジネスであれ、その目的は顧客を生み出し、維持することである
」(ピーター・ドラッガー)
 

映画がテレビに負けそう…時代潮流…そこで映画からボウリングへ東映は決断

若い映写技師Tが上司に呼ばれた。
「ボウリングメカを学んで来い」
Tは勇んで米国製メカを学ぶ、ボウリングメカの国際資格も取った。
案の定 全国でボウリングブーム到来 若いT技師は超多忙になった。
彼の最高スコアは278 1回8本で後は全てストライクだった。
レーンコンデションを俺に合わせたと今でも豪語する。
60代後半のTは依然として活動的、相模凧やおもちゃの病院のリーダー的存在、趣味と社会貢献の人生を謳歌する。
衰えぬ活力の原点は映画からボウリングへの挑戦だった。

その背景は…東映企業実情とボウリング栄枯盛衰

 社 長 就 任
 44歳の岡田茂氏は、映画本部長に就任すると劇場映画については、「不良性感度」というフィルターをかけた「任侠路線」「エログロ路線」を徹底した。

 テレビ映画は「良性感度」の考え方のもとに、次々とお茶の間劇場の人気番組を誕生させた。
1971年、テレビ本部長も兼務した岡田氏は、劇場映画とテレビ映画との政策理念の立て分けを、さらに徹底して実行していった。
このことが、映画を中心とした娯楽産業としての「東映」を、確固不動の地位に築き上げていった。


 この当時、大川社長の子息・大川毅専務は大ブームとなった「ボーリング」を中心とした、脱映画産業を意図した娯楽産業構築を推進していました。

しかし時代の変遷は激しく、ボーリングが衰退し始めると、脱映画プロジェクトに反対する労組をはじめとする多くの社員たちの批判が大川専務に向けられました。

1971年、その収拾に動いた岡田氏は最後の手段「ロックアウト」戦術に打って出て、何とか窮地を脱したのですが、その年、大川博社長が死去するという突然の訃報に見舞われたのです。

 岡田氏は断固固辞するも、その人望の波には抗しきれず、ついに社長に就任することを決断したのでした。
 社長に就任した岡田氏は、躊躇(ちゅうちょ)なく不採算部門の切り捨て、合理化に踏み切りました。

ほとんどのボーリング場の売却、東京タワータクシーの営業停止、東映フライヤーズの売却、東映動画の合理化などを一気呵成(かせい)に実行したのです。
大川の 息子・毅が経営し全国32あった東映ボウリングセンターの大半を売り合理化をさらに 推進した


売れるボウリング・セット  当時はおもちゃもブームに

 ボウリング・ブームにあやかっておもちゃのボウリング・セットが不況知らずの売り行きを示している。
家族ぐるみで手軽に楽しめる利点が、うけているポイントだが、県内で相次ぐボウリング戦のテレビ放映なども刺激剤になっているようだ。

 早くも、おもちゃ売場の“切り札商品”にのし上がったこのセット、全国各地の大手デパート間で奪い合いの状態。
というのは、家族連れの買い物客をねらうデパートにとって、人気のよしあしが、ほかの商品の売上げに連鎖的に影響するからだ。


 おもちゃ会社が室内で遊べるこのボウリング・セットを生産し始めたのは今年初め。
そして、クリスマス・プレゼント、お年玉用品の品揃えが始まる夏ごろには、各社のセットが勢ぞろいした。
大手各社の調べでは、7月から毎月2、3割の売上げ増をたどり、同月から12月までの半年間にざっと50億円の売上げになる……と、“カワ算用”している。

またABSテレビでは「ストライク・ボウル」「レディス・チャレンジ・ボウル」、AKTでは「パンチアウト・ボウル」「ビッグ・チャレンジ・ボウル」といったいま人気のプロ女子ボウラーなどが登場するレギュラー・テレビ番組が目白押し。いやがうえにも茶の間はボウリング・ラッシュになるわけだ。

 秋田市のあるデパートでは、現在、人気の集中しているE社の「パーフェクト・ボウリング」を含む四社の製品の確保に力を入れ、1200セットを仕入れた。

今月の歳末商戦でこの商品だけで2、300万円程度の売上げを見込んでいる。
 ここの売上げ主任は「今年4、5月の土、日曜日には240セットも売れました。
ジワジワと売行きは延びていたが、ここにきて爆発した感じ。
歳末用に予定数をやっと確保したが、人気セットは売り切れも考えられる」と話している。

なかでも完成度が高く、他社を圧倒する人気をあつめたのが、エポック社の「パーフェクトボウリング」シリーズ。「パーフェクトボウリング」(昭和46(1971)年発売)レーン長約80cm、2,650円。「パーフェクトボウリング ジュニア」レーン長約60cm、1,200円。ちなみに、ラーメン一杯150円ほどの時代である。
シリーズのパッケージを飾ったのは、プロボウラー界のスーパースター中山律子。
http://www.youtube.com/watch?v=KCmlkhQox3o&feature=player_embedded



▽BS アメリカン ボウリング サービス


ボウリング用品の輸出入卸しのボウリングインダストリに入りました創立者であり現会長であるタモツ T. ワタナベ(米国カリフォルニア州生まれ)は、米国アイダホ州の町で、はじめてボウリングゲームと出合う。
株式会社 アメリカン ボウリング サービス ABS 設立
  
従業員数
53名(2013年3月末現在)

〒143-0021 東京都大田区北馬込1-1-1(自社ビル)

ABSは、業界のリーディングカンパニーとして常にチャレンジ精神を持ち続け、走り続けて参りました。
ナノテクノロジーを駆使したナノデスシリーズの研究をはじめ、後述するカンガルーシューズやバッグなどの開発、サポートなどの運営システムの確立、ご依頼のあったお品を迅速に発送するシステムなどなど、皆様のニーズに応えるために日夜チャレンジ精神で邁進しています。

モノ作りに大切なのはクオリティとオリジナリティです。
その結晶のひとつにカンガルーレザーを使用した高級シューズがあります。
中でも「S-3000 DIYカンガルーシューズ(現NV-3)」は業界初のカンガルーレザーを使用し、発売時の話題を独占。USパテントも取得しました。
その他にも、ベアリングのホイールと特殊ウレタン素材を使った静音タイプのオリジナルバッグを開発する部門、みなさまのニーズをマーケティングすると、クオリティとオリジナリティは欠かせません。

米国ケーゲル社の総代理店として、弊社はメンテナンスマシンの世界ナンバーワンの販売実績があります。
その販売実績の背景には、さまざまなノウハウと経験はもちろんのこと、ケーゲル社認定のテクニカルスタッフが24時間態勢でバックアップするサポートがあります。


制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄


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