下曽我が強くした母娘の詩物語

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静子、治子、太宰の物語を生んだ下曽我のまち

太宰治作「斜陽」のモデル、太田静子は曽我に住んでいた。
文学少女だった静子は太宰によく文章を読んでもらったりしていた。
静子は下曽我の雄山荘に一人暮らしをしていたが、太宰は新しい作品の素材にするため静子の日記を見たいと言い出し・・・静子は「下曽我に来たら見せてあげる」と告げる…

昭和21年2月21日になって太宰は下曽我の雄山荘にやってきた。
静子の日記を読んだ太宰は「斜陽」を執筆し始めた。
その後、静子は太宰との間に治子を生んだ。
「斜陽」の舞台は伊豆となっていますが、村の記述や梅の花の風景などは曽我と重なる…

その1、母静子の詩

あなたは心映えが悪いから お相手が現れないのよ
母が言っていた

手術をして助かると私は思っていたが、あっけなく亡くなった

思いもかけずあのように母が死んだのも、娘の私の心映えが悪かった官らかもしれない
私は36歳だった

母 太田静子は80歳過ぎまで生きるつもりだった
69歳没

母は幼い私に父を「太宰ちゃま」と童話の主人公のように呼ばせていた
幼いあなたは私に行聞いたの
「太宰ちゃまは、美知子さまと、山崎さんとママの中でだれが一番好きだったの」
そのときわたしはあなたがかわいそうで「ママよ」といってしまった


中央公論社発行 太田治子著  「心映えの記」 269ページ

母太田静子は大正2年8月18日 琵琶湖の東、滋賀県愛知郡愛知川えちがわ村で開業医の娘として生まれた
昭和5年、24歳の娘時代に上京し実践女子専門学校に入学、その後終に故郷に帰ることはなかった。

昭和9年  処女歌集「衣装の冬」刊行

紙さくら咲いて 指輪選ぶ傍らに 母がいてくれる
母が現れては消える 薔薇色の帯 結びきれない


雄山荘…

静子は太宰治の「虚構の彷徨」に強く引かれて、この作者を人生の師と仰ぐことを決めていた。
次第に尊敬は恋に変じていた。
静子がまだ西片町に住んでいた頃に、太宰と幾度か会って自分の作品を見て貰ったりしていたが、太宰から、「あなたは日記をていねいにお書きなさい」と言われたので、下曽我に住み始めてから一生懸命書いていた。

昭和21年9月、津軽へ疎開している太宰に手紙を出し、静子は日記ができた事、こちらの空気が澄んで美しい事などを書いてたぴたび下曽我への来訪の誘いの手紙を出した。

昭和22年2月21日、太宰は下曽我駅に降り立ち、満開の梅の大雄山荘に滞在したのだった。
その満開の梅は、「二月には梅が咲き、この部落全体が梅の花で埋まった。
一中略一朝も昼も、夕方も、夜も、梅の花は、溜息が出るほど美しかった」と『斜陽』に書き込まれたが、大雄山荘の仔まいは太宰が考えていた『斜陽』の雰囲気にぴったりな舞台であった。

太宰は静子の日記を持って冊巾英光が疎開していた伊豆の三津浜へ行き、安田屋旅館に止宿して三月上句まで掛かって一、二章を書き終え、六月に完成させた。
その年の11月12日に静子は女の児、治子を生んだ。
太田静子の手記によれば、
「二、三日の予定がのびて、五日目の朝、支那間の机の上に原稿用紙をひろげて、

  斜陽 太宰治

それだけお書きになって伊豆へ立たれる事になりました」とあり一『斜陽』の中の家の描写は、住んでいた静子の日記が基になっているため、この家のすべてが小説の舞台となっている。
半世紀経った今でもまったく当時のままで残されているので、小説の中にたたずんでいるような気がしてくる。


静子さんは清らかでした
宮崎信義氏は治子に言った
神戸駅長など国鉄の要職を勤めた後、新短歌誌の編集発行人だった
詩を発表していた静子は
静子を貰わんかともいわれていたがサラリーマンの家の自分とは県医師会会長のお嬢さんとは書くが番いすぎると諦めた宮崎の歌に「乗客が少なくて恥ずかしそうに電車が止まる二人折二人乗る」がある

大和田の大叔父は京都大学卒業後逓信省に入り事務次官を務め、化学会社社長に転じた。
大叔父の計らいで下曽我に疎開することになった
11月に急に決まった 
 
レンガ色はあなたの色だわ                                                    

あのとき母は赤ん坊の私をくるんださくら色のケープを思い出していたのかもしれない
下曽我のころの思い出に母はいつも戻っていたように感じた

34年前の雛祭りの日に縁側で赤ん坊の私を抱いた写真が母のベッドの脇に引き出しに入っていた
下曽我は梅の名所である

梅の咲く頃母は私をみごもった

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宗我神社  曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)の総鎮守

あなたは
はじめてはいたゴム長で
一段二段三段と
八幡宮の石段をのぼりきった
ママといっしょに

石段には、きれいな
花びらがちっていた

八幡宮の石段とは、私がお宮まいりをすませた下曽我の神社の石段である
母はたった一人で私を抱いてお宮参りに行った晩秋の思い出を、繰り返し話すのだった
おまいりをすまして石段をおりながら、こころさびしくてなきたくなったこと
帰りに宗我神社脇の尾崎一雄先生のお宅に寄ったところ、まあ太宰さんそっくりと奥様に言われ、うれしかったこと…

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尾崎一雄碑 富士は暁の刻
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その2、娘 治子…

25歳はみどりの窓40歳は水色の絵葉書50歳は赤紫の紫陽花 太田治子カラー全開

1話=みどり色の窓

母の思い出の「ピエール13年後」の街と家
アムステルダムから汽車でアントワープに着いた。
待ち合わせは、玲子の母が一番この街で好きだったのがアントワープ駅だった。

目の前にアンデルセン作人魚姫の絵本の中の王子さまのようにりりしく金髪のピエールが立っていた。
ふたつの緑色の窓がアーチ形の白いペンキで縁取られた小さな教会のような家であった。
この窓の中でお母さんは小さいあなたと暮していました。
あなたはお母さんがでかける時にいつも窓から手を振って見送っていたそうです。


ピエールは玲子の背中にそっと手を回しながら、玄関の鍵を開けた。
この家は今日から僕たちのものになります。奇妙な言葉に玲子は怪訝な面持ちになっていた…その謎は、母の鉛筆の字で書かれていた「玲子13年後」

母の願いは13年後25歳になった玲子とピエールが結婚することだったのだ
玲子は幼女のように泣き叫びながら、なつかしいみどり色の窓を開けた
25歳の若き母がゆっくりふり返り、玲子のいるみどり色の窓に向って優しく微笑みながら手を振っていた…

新潮社発行   太田治子著「青い絵葉書」204ページ


2話=ふたりの紫陽花

私はもうすぐ50歳になる…まゆみの頭はいつもその言葉で一杯になっていた。
夫は60歳、印刷会社の工場長として定年退職を迎えていた。
子供のいないまゆみは10歳年上の豊雄に夫というより父親のように頼りきっていた。

まゆみの大好きな画家ムンクの「孤独な人たちーふたり」夫になった豊雄も「ぼくもそうです」と一言。1週間後ふたりはあの絵のまま肩を並べ鎌倉の海を見つめていた。

織部は或る日突然「奥さんの顔、描かせてください」光った目でまゆみを見つめた…
ムンクの木版画「森へ」は、裸の男女がうなだれて肩を寄せ合い森へ入っていく暗く悲しい道ゆきの絵であった。
まゆみは絵の中の森へ入っていくふたりを織部と自分のように感じていた。

織部からの絵葉書にまゆみはどうしても会いたいと織部の事務所に電話した
成就院の石段の紫陽花が見事ですよ、そこでお会いしましょう
織部は「それはすばらしい、是非、是非行きましょう、
紫陽花が美しいうちにご一緒しましょう、明日2時、成就院の石段の上で待っています」
ふたりで登るつもりだった石段をまゆみは一人登りながら思い当たった…
「奥さん、お久しぶりです、妻です」、石段の背後から男の子の手を引いた織部がいた。
まゆみは我に帰り遠く広がる由比ガ浜の海を指差した。
海が見えます。男の子は歓声を上げた。この子はまだ海が珍しいのです

まゆみは遠い日の海を思い出した
豊雄と砂浜から見つめた海を
大切な海を忘れていた
紫陽花に水をやる豊雄の後姿が浮かんできた
ふたりで海をみつめたい

第3話 青い絵葉書

サンマルコ広場に面した午後のカフェテラスでゆっくりとエスプレッソをのみながら ,そこかしこに ゴンドラが浮かぶ青い水を見つめていた
ヴェネツィアに着いて二日目。
イミ子はこの夏40歳になる
二人で最後に歩いたヴェネツィアに行く決心をした
昨日アカデミア橋のたもとでイミ子は次郎そっくりの子に出合った

太郎はこの橋を見つめながら私に絵葉書を出したんだわ
イミ子30歳のとき新婚の太郎はアドリア海で事故死した
あの絵葉書の水の色ははるかにはるかに青く澄んでいた
「君の見送りの時の泣きべそをかいた顔が忘れられない」青い絵葉書にはそれだけが書かれていた
サンマルコ広場の裏手の通りは薄暗い石畳の道がくねくね迷路のように続いていた
ジローと昨日の少年の名前が分かり偶然が重なり恐ろしい気がした

ジローの家には驚いたことに美大の先輩丸山がいた
ママはここにいるよ
ジローが居間に掲げられた油絵の女性を指した
水色のセーターで涼やかに微笑んでいた。
丸山が静かに言った「僕とジローは来月日本へ帰ります」
イミ子は「どうか、ジロー君のお母さんにさせてください」
絵の中の水色のセーターの美しい女性に向かい深々と頭を下げた



ブログ発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄


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