高座海軍工廠で働いた台湾の元少年工300人が再来日 誇りを持って日本行き、二つの祖国で生き抜いた戦後

平成25年4月27日 朝日新聞29面

元台湾少年工ら来月300人再訪へ
座間海軍工廠 70年感謝の記念行事


太平洋戦争末期、高座海軍工廠で働いた台湾の元少年工と家族ら約300人を招く歓迎会が5月9日、座間市で開かれる。
当時から70年の記念行事。

戦後も日台友好に貢献した元少年工に感謝の意を伝えたいと、地元有志300人が準備を進めている。

大会実行委員会が26日発表した。
会長には森喜朗元首相が就いた。
ハーモニーホールー座間での式典には、大和市出身のノーベル賞受賞者の根岸英一さんも駆けつける。
季登輝元台湾総統の講演も予定される。


少年工が働いたのは1943年5月から終戦まで。
[旧制中学卒業資格と技師への道が開ける]と宣伝され、平均14歳の約8400人が選抜された。
海軍工廠のほか全国の航空機工場で戦闘機を製造した。


歓迎行事は50周年と60週年に続き、3回目。
20年前には1400人が来日した。
父親が海軍工廠宿舎舎監だった元大和市議長の石川公弘さん78を中心に交流を深めてきた。
石川さんは元少年工の多くから「日本の経験を語れず、今も子孫に理解されない」という苦悩を聞いた。
それでも日本の進出企業への支援などに尽くす姿を見て、元首相の感謝状贈呈を発案した。

今回参加する少年工は83歳から86歳。
250人の予定だが、体調次第の人も多いという。
家族も含め、大規模の式典になる見込みだ。「苦労された皆さんに感謝を伝えたい。
友好の心を引き継ぎたい。多くの日本人に記憶して欲しい」と大会事務局は語る。




平成25年4月27日 神奈川新聞

高座海軍工廠の台湾元少年工との友情、今なお 元大和市議長石川さんが自著



太平洋戦争中、現在の座間市、大和市などにあった旧日本海軍の航空機工場「高座海軍工廠(こうしょう)」で働いた台湾の元少年工。
工廠で働き始めて70周年の節目で5月9日に再来日するのを前に、元大和市議会議長の石川公弘さん(78)が元少年工との交流を1冊の本にまとめた。
戦時中の苦難やいまも続く日本との友情。石川さんは「忘れられつつある事実を一人でも多くの人に知ってもらいたい」と話している。

 
少年工は1943年5月に第1陣が到着し、終戦まで空襲や食糧不足に耐えながら10代の約8400人が働いた。

 「温暖な台湾から来た少年たちには、特に冬の寒さがつらかったようだ」。父が工廠の寮で舎監だった石川さんは、子どものころ、少年工にかわいがってもらったことを覚えている。

 工廠入り50周年を記念し、約1400人が訪日したのが20年前。当時、大和市議会議長だったこともあり、受け入れ役として精力的に動いた。

 本のタイトルは「二つの祖国を生きた台湾少年工」。
亡くなった2人を含む元少年工6人の人生をまとめた。


 戦後の台湾では国民党政権の戒厳令下、強圧的な政治が行われ、親日的な言動は逮捕、投獄など身の危険を招きかねなかった。
87年に戒厳令が解除されるまで、「第二の故郷」と懐かしんだ座間、大和の地を自由に再訪できなかった。

 石川さんは「日本人は終戦後、自由に物を言える民主的な時代が訪れたが、日本人だった元少年工は戦後、戒厳令下でさらに多くの苦難を味わった。
今も日本との絆を忘れず、今も日本を大切に考えてくれる元少年工の思いを伝えたかった」と話す。


 5月9日に座間市緑ケ丘のハーモニーホール座間で開かれる70周年記念の訪日歓迎大会には、80歳代の元少年工と付き添いの家族ら300人が顔をそろえる。多くの元少年工も「台湾民主化の父」と慕う李登輝元総統の記念講演も予定されている。石川さんは出席者全員に本を寄贈する。
 
本は5月7日に並木書房から発売される。四六判230ページで1600円(税別)。問い合わせは、並木書房電話03(3561)7062。


高座海軍工廠と台湾少年工

大和での第二次世界大戦の歴史を語る時に、忘れてならないのが「高座海軍工廠」の存在です。

高座海軍工廠とは

 1942年海軍省から神奈川県あて海軍航空兵器製造工場建設の協力要請があり、43年座間市、海老名市にまたがった地に設置されました。
この施設では「雷電」をはじめとする海軍の戦闘機を生産しており、計画どおり完成すれば日本最大の機体生産工場になる予定でした。
この工場では台湾から動員された12歳から19歳の少年たち約8,000人が働いていました。

当初の計画

 30万坪の用地を確保し、工員3万人、年産6,000機という設計のもとに、我が国で最大規模の航空機生産工場の建設が進められた。
正式には昭和19年4月に開庁し、局地戦闘機、雷電の本格的な生産にはいったが、戦局の悪化とともに、当初の目的を達成することはできなかった。(展転社発行、「台湾少年工と第二の故郷」より)


高座海軍工廠の役割

 台湾からの少年工受け入れ基地であると同時に、国内各地への派遣の基地としての機能をもっていました。
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海軍工廠

台湾少年工の歴史

 太平洋戦争下の日本国内では大量の青年男性が戦場に動員され、極めて深刻な労働力不足に陥っていました。こうした中、航空機生産の拡大と熟練工確保の必要に迫られていた海軍当局は、安定した優秀な労働力を確保するため、「皇民化」が徹底されていた台湾の少年たちに的が絞られ、動員が決定されました。

動員の条件

 ①労働力の中核部分として12歳から15,6歳までの少年と、彼らを指導し、まとめるために17歳から19歳迄の中学生(旧制)を集めること。 ②学習成績の優秀なもの ③身体健康なもの


日本行きの決心

 当時の台湾では主要な仕事はすべて日本人が占め、仕事もなく生活の展望が見いだせない状況でしたが、募集に応じたのは、5年後には上級学校の卒業資格がもらえて、台湾に帰れば技術者として就職できるという募集の条件を信じたからと思われます。

少年工たちの暮らし

 現在の大和市上草柳地区にあった寄宿舎で暮らしていました。
彼らのここでの生活と労働は過酷で、特に日本の寒さと食糧不足は深刻でした。
しかし、月2回あった休みには買い物をしたり、江ノ島に遊びに行ったり、中には新宿まで行ったと証言している人もおり、楽しかったという証言もあります。
生活の全般は年少者が大半であったため、年長者の台湾の中学校卒業生たちが世話をしていました。

少年工たちの教育

 特に重視されたのは、日本人になりきるという「皇民化」教育でした。
神社の参拝は言うに及ばず、日本の風習に慣れるような訓練が行われました。
また、何よりも日本語が重視されました。

少年工の犠牲者

 8千余人の台湾の少年工たちが長い人で3年近くの間、戦時下の日本にいたため、犠牲者も多く出ました。そのうち大和市内関係のものとしては、1945年7月30日に市内上草柳の山林での空襲があげられます。夜明けで工場から寄宿舎に帰る途中を狙われたもので、3名が犠牲となりました。この他10名が死亡し、これらの犠牲者の供養のために、1963年11月、市内上草柳の善徳寺の境内に「台湾戦没少年の慰霊碑」が建てられました。
    

帰 国

 各地で終戦を迎えた少年たちは、市内上草柳の寄宿舎に次々と送り返され、寄宿舎は少年たちで一杯になりました。少年たちは年長の指導者を中心に、役割分担をしながらまとまって整然と集団生活をしました。
1946年1月横浜から乗船した少年たちの第1陣は、遺骨と負傷者およびその付添い人たちを乗せて無事に台湾に到着しました。
一部に残留者がいたものの大半は帰国しました。


その後の少年たち

 帰国した少年たちのごく一部は「高座海軍工廠工員養成所見習科」の卒業証書を国から受け取ったものの、多くの人たちはそれさえもなく、その後自国の言葉をもう一度学び直したり、職業を得るのに大変な苦労をしました。
しかし戦時下の苦労を共にしてきたことをなつかしく思い、高座会を結成し、その中には今でも当時交流した日本人との関わりを大切にして、手紙や直接会うなどして交流を深めている人たちもいます。


元台湾少年工 映画で証言

 第2次世界大戦中、座間、海老名市にあった軍需工場「高座海軍工廠(しょう)」で働いていた元台湾少年工の証言を記録した映画「緑の海平線~台湾少年工の物語」(郭亮吟監督)が31日まで、「シネマ・ジャック&ベティ」(横浜市中区)で上映されている。
元少年工の生き残りとして映画に出演した大和市在住の呉春生さん(79)は、「少年工の本当の姿を知ってほしい」と呼びかけている。
緑の海平線」は、同市在住の映画プロデューサーで慶応大講師の藤田修平さん(35)らが2006年に製作。今年5月に大分県で開かれた「ゆふいん文化・記録映画祭」で優秀作に与えられる「松川賞」に入選した。地元・神奈川で上映されるのは今回が初めてだ。

 4年がかりで撮影された映画は、歴史に埋もれていた台湾少年工に光を当て、貴重な同工廠の写真や映像、元少年工のインタビューを紹介、彼らが戦後をどう生きたかを描いている。

 15歳だった呉さんは台湾の国民学校高等科で級長を務めた。「みんな選ばれた人間という意識を持ち、誇り高く、張り切っていた」と回想する。

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少年工が製造に組み込まれた戦闘機「雷電」と右に呉氏

読売新聞 10月30日朝刊記事(31面)

「決して無理やり連れてこられたわけではない」

 読売新聞の地元(「湘南」)面

呉氏は、「少年工」として、戦時中に台湾から日本へと渡航。
台湾から日本への渡航の理由として、云く、「「台湾は貧しく、勉強ができなかった。働きながら勉強でき、なおかつ国のためになると思った」と当時を振り返る」と。
当時の心境については、「15歳だった呉さんは台湾の国民学校高等科で級長を務めた。
「みんな選ばれた人間という意識を持ち、誇り高く、張り切っていた」と回想する」とある。
働きながら勉強したい。
日本でその夢が適う。ましてや、選ばれて日本に来たのだから誇りも高かった

呉さんは終戦後、日本に残り、外交官を夢みて、働きながら勉強を続け、中央大学に入学。だが、日本国籍がないため、卒業後もすぐには職につけず、25歳で横浜市瀬谷区にある米軍・上瀬谷通信施設の法律顧問としての職を見つけ、70歳になるまで働いた


台湾高座会ホームページから

 日本会議相模原支部の地域的範囲には、旧高座郡(相模原市、座間市、大和市、綾瀬市)の各市と津久井郡が含まれています。
この地域の中には相模原市に設立された数多くの旧陸軍施設、また、座間市、大和市には旧海軍の施設が設置され、国家防衛の大きな一翼を担っていました。
その関係でこのホームページでは、この度、海軍高座工廠での戦闘機製造を懸命に遂行された、台湾の少年工のご苦労と、その後のご活躍、日本との交流の一端を載せさせて頂く事にしました。


神奈川県高座郡の中に海軍空C廠(高座海軍工廠の前身。現在の座間市に所在。)がありました。
大東亜戦争勃発から2年目の1943年(昭和18年)に新設され、その工廠で海軍の主力戦闘機だった「雷電」、「ゼロ戦」、「紫電」、「月光」などが昼夜兼行で生産されていました。


  海軍では、本土の国民が徴用され戦地へ赴く様になり、労働力不足解消のため、その海軍空C廠で戦闘機生産をしながら学習し、一定の年限を経て中学校(現在の高校)卒業と同等の資格が取得できる事をうたって、国民学校高等科修了の少年を中心に募集をしました。
当時日本の統治下にあって日本と不可分一体だった台湾の少年達が、祖国防衛の戦力増強の一助にとの覚悟を持って、競って募集に応じて厳しい選抜試験を受け、優秀な15才前後の8400余名が合格し、意気揚々と台湾を後にしたのでした。

 少年工たちはひたむきに働く中で、共に働く本土の日本人と深い信頼関係と、友情を築き上げていきました。生産ラインでの作業でできた血豆の腫れた手を、優しく介抱してくれる母を思いつつ、少年たちは懸命に働きました。内地へのB29の爆撃で戦没していく仲間もありました。

そして終戦。
それまで日本人としての誇りを胸に懸命に働いてきた少年工たちは、突然異国籍者となり、中学校(現高校)卒業の資格も得られないまま、志半ばで台湾に帰還されたのでした。

 帰還しても、海軍高座工廠で勉学に、戦闘機製造に歯を食いしばって頑張られた彼らは、日本への深い連帯感を持ち続けられ、高座の地を第二の故郷と思い続けられました。

 1963年(昭和35年)、彼らの教官だった海軍技手の早川金次郎氏は、大戦末期の空襲で犠牲となった台湾少年工の霊を慰めるため、自宅の再建よりも、その慰霊塔の建立を優先された。
その話は、蒋介石総統の国民党による戒厳令の下でも台湾に伝わり、瞬時に全島に広がりました。
「日本はまだ我々を忘れていない」と誰もが思ったと言います。
慰霊塔は大和市善徳寺に柳沢住職の協力を得て建立されました。

 その内、台湾には高座工廠で働いた方々が台湾高座会を設立され、日本では日本で生活されている方々の「日本高座会」が設立され、交流を重ねてこられました。

台湾高座会の方々は、留日50周年を契機として、大和市の引地川公園に【台湾亭】を建立し、大和市に贈呈されました。

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【台湾亭】は現在高座地区の観光名所になっています。



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