登山先駆者の町平塚で映画[劔岳点の記]を観る

映画「剱岳点の記」が人気沸騰している。私も観て感動した,そして身近な湘南平には一等三角点があり、山岳会の先駆者の碑もあることで更に興味が沸いた

1、柴崎芳太郎

明治39年、参謀本部陸地測量部の測量手柴崎芳太郎(しばさきよしたろう)は、五万分の一地形図作成のために三等三角点網(もう)を完成すべく、北アルプス剱岳への登頂と三角点埋設(まいせつ)の至上命令を受ける。
当時の剱岳は前人未踏の信仰の山であった。
ほぼ同時期には日本山岳会(当時は山岳会と呼称)が結成され、剱岳初登頂を虎視眈々とねらっていた。

 柴崎は、かって剱岳に挑んだが登頂できなかった先輩の古田盛作(ふるたせいさく)を訪ねる。
古田は信頼できる案内人として、宇治長次郎(う じ ちょうじろう)を紹介した。そして柴崎は現地へと向い、宇治長次郎と登頂路を探すが、なかなか見つからない。

そんな中、不思議な行者(ぎょうじゃ)との出会い、山岳会の小島烏水(こじまうすい)との出会いがある・・・。
 悪天候や地元の反感、山岳会との葛藤など様々な困難と闘いながら、柴崎測量隊は山頂をめざして進んでいく。そして、難行苦行の末、剱岳山頂に至るが、そこで柴崎らが見たものは・・・。

※「点の記」とは - 国家基準点(三角点、水準点)ごとに、点名、所在地、設置年月日、選点者、観測者、そこに至る順路と略図等を記載したもの

2、木村大作

2007年は、国土交通省国土地理院の前身である参謀本部陸地測量部に所属した柴崎芳太郎が、剱岳に登頂し観測をした年からちょうど100年が経過しました。
これを記念し、各地でいろいろなイベントが開催されました。
 また新田次郎作「劔岳 点の記」が東映にて映画化され、2009年6月20日に公開されています。

平成21年6月7日(日)、つくば市の国土地理院において、「測量の日」功労者として、木村大作氏に感謝状が贈呈されました。
「木村氏は、新田次郎原作「劔岳点の記」の映画を、想像を絶する困難が続く中で、撮影とあわせ監督まで一手に引き受け完成させた。
この映画の完成は、国土の状況を把握することの重要性や基準点の大切さに対する理解と関心を広く高めてくれた。

木村大作監督映画劔岳点の記

配給 東映(株)  ■監督 木村大作  ■公開 2009年 6月20日
■キャスト


○浅野 忠信 :柴崎芳太郎(陸地測量部測量手)
  
○香川 照之 :宇治長次郎(測量隊案内人)
○松田 龍平 :生田 信(陸地測量部測夫)
○宮崎あおい :柴崎葉津よ(柴崎芳太郎の妻)
○仲村トオル :小島 烏水(日本山岳会)
○役所 広司 :古田 盛作(元陸地測量部測量手)
○モロ 師岡:木山竹吉(陸地測量部測夫) ○螢雪 次朗:宮本金作(測量隊案内人)
○仁科  貴:岩本鶴次郎(測量隊案内人) ○蟹江 一平:山口久右衛門(測量隊案内人)

○小市慢太郎:岡野金治郎(日本山岳会)


3、平塚で一番高い山浅間山と一等三角点そして山岳の先駆者達

①一等三角点

湘南平浅間山頂上には一等三角点が設置されている。この三角点周辺は公園化されている。
三角点周辺を公園化しているのは全国的にも珍しい。

広い地域に統一した測量を行うため、精密な天文測量により経度、緯度、方位角を定め、一等三角点を原点として、これにもとずき全国的な地図を作成し、地質の調査を行う。重要な基準である。

浅間山=東経139度18分15秒、北緯35度19分7秒、標高181,28メートルとある。

丹沢山、浅間山、大島の三角形の頂点とすると、丹沢山と浅間山の距離が分かり、二つの角を測ると、丹沢と大島の距離が測定出来る。
浅間山と大島の距離も分かる。浅間山は大島と丹沢をとりもつのである。三角点を設置し、角を調べて、測量を全国的に進めることを三角測量と言う。

国土地理院の地図で表示され、一等、一等補、二等、三等、四等の5種類ある。
一等三角点が日本の骨格となる。全国で330点、四等は32、726点ある。
大島三角点と丹沢山角点の距離は46年間で10万分の60センチ短くなって来ている。
これが地殻変動の予知資料となるのだ。

②岡野金次郎の碑

映画の中で柴崎芳太郎等と初登頂を競ったのが小島烏水や岡野金次郎ら日本山岳会初期のアルピニスト。この岡野金次郎は平塚の人である。晩年平塚に住み平塚で没した。

岡野金次郎は明治7年(1874年)、現在の横浜市保土ヶ谷区で生まれました。後に日本山岳会初代会長となる

小島烏水とは、明治27年の徴兵検査で出会いました。
明治35年(1902年)、岡野と小島は日本人登山家として初めて槍ヶ岳への登頂を果たしました。
その翌年、岡野らは自分たちより前に槍ヶ岳に登ったウォルター・ウェストン(日本アルプスの名付け親)と出会い、日本にも山岳会をつくることを勧められます。

これが日本山岳会の設立につながりました。

昭和15年(1940年)、平塚に移り住んだ岡野は、昭和20年に戦災に遭い、平塚を離れますが、昭和28年には再び平塚に戻ります。 そして、昭和33年に亡くなるまで、平塚に住み続けました。

富士山が好きだった岡野は、散歩に出かけては平塚海岸や八幡山から富士山を眺めていたといわれます。
昭和36年湘南平に記念碑が作られた。


※全体は石碑だが、人物部分は銅製のレリーフとなっている。
その碑面には・・・「山を愛し 山を楽しみ 晩年平塚に住み 平塚で終った 日本山岳会に於ける先駆者 岡野金次郎翁を偲ぶ」 とある。 なお、生没年は1874~1958、享年84歳。

小島烏水と岡野金次郎の槍ヶ岳登山は日本近代登山の幕開けとなる登山として有名である。
この登山がきっかけとなり、ウエストンとの交流が生まれ、日本山岳会の発足につながったからだ。

 二人は日本近代登山の扉を開いたのに、私は岡野の業績が軽く見られているように感じている。
岡野は二人で登山を始める以前にすでに塔ノ岳に登っていることからして、山の経験は烏水より上であったと考えられる。
二人で乗鞍山頂から槍の尖塔を見て、岡野の次は槍という言葉が槍ヶ岳登山決行になったらしい。またウエストンの槍ヶ岳登頂や彼が横浜在住と知り、烏水に知らせたのは岡野である。

 しかし小島烏水の名を知っていても、岡野金次郎の名を知るものは少ない。やはり烏水が積極的に紀行文を残したことや、その後の山岳会での役割が烏水の名を残すことになったようだ。このような例はよくあり、山の世界は山行の価値だけでなく記録の大事さを認識させられる。


③村井米子


平塚の人で巨人と言える「村井弦斎」。その娘が村井米子。
米子は大正12年(1923)日本女性登山家第1号として穂高から槍を縦走する快挙を遂げた。彼女の平塚の家は父弦斎が対岳楼と名付け、富士山の眺望がすばらしかった。
米子は大正6年16歳の時富士登山を行い山に目覚める。

当時は女人禁制の山も多く障害も多かったが東京女子大在学中に各地の山に登り随筆、紀行文をしたため、雑誌等に発表した。お姫さまの道楽、といわれたこともあっただろう。だが、一貫して山にこだわり続け、自然保護活動と、女性の意識向上に影響を与えた功績は、実に大きい。
昭和9年NHKに入社。
離婚、娘の死など辛いことも多かったが、山があったから乗り越えられたと言う。
昭和61年12月86歳で没した。

•『酒道楽』上下 新人物往来社 1977年(村井米子編)
•『釣道楽』上下 新人物往来社 1977年
•『定本食道楽』上-春の巻、夏の巻、下-秋の巻、冬の巻 新人物往来社 1978年(村井米子編)
•『食道楽』上 岩波文庫 2005年
•『食道楽』下 岩波文庫 2005年
•『酒道楽』  岩波文庫 2006年
•『食道楽の献立』角川春樹事務所 1997年
•『台所重宝記』平凡社 2001年 (村井米子編訳)

女性登山のパイオニア、村井米子さんが、だれにも見とられることなく孤独のうちに亡くなられたのは、1986年の暮れも押し迫った12月19日だった。86歳であった。
その二週間ほど前、日本山岳会恒例の年次晩さん会に出席され、お元気だっただけに、突然の訃報は、人の命のはかなさを突きつけられたようで悲しかった。
だが、山を愛し、自然保護を訴え続け、また、念願の父村井弦斎の「食道楽」の現代語訳を完成されるなど、やるべき仕事を終えた後のことであった。最期まで誇り高く生きてこられた村井さんは、私たちに明治女の心意気を示されたといえる


薬になる食べもの その薬効と調理法  村井米子著
タイトルと責任表示: 山岳の驚異 / 村井米子∥著 * サンガク ノ キョウイ
出版事項: 東京 : 偕成社, 1956


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