沈む島が生き返った因島の布石に学ぶ…日本一囲碁の町平塚の何故②

平成9年9月 広島県因島市ホテルナティーク城山にて…

ロビーに掲げられた写真は趙治勲本因坊と挑戦者加藤正夫の対局だった。
しみじみ見入っている私にホテルの方が声を掛けた。「これは今年5月このホテルで行われた本因坊戦の写真なのです。こちらの方が本因坊の……こちらが…」と説明してくれた。

私が「そうですね、この挑戦者の加藤さんと私は実は同じ中学校を卒業したのですよ、私の家のすぐそばに囲碁の木谷道場があって,住み込みで精進していたんですよ。加藤さんも本因坊の趙治勲さんも木谷道場の門下生ですので一門兄弟同士の対局でした」と返答しましたらびっくりされた。

そこで私は、自分は平塚市の職員であること。平塚市に囲碁界の巨星木谷實さんの木谷道場があり、平塚と四谷の道場で多くの弟子を育成され、写真の二人はじめ大竹英雄、石田芳夫、武宮正樹、小林光一、など多くの超一流棋士が育ち、今や日本の囲碁界を席巻していること、そして木谷道場が平塚にあったことから平塚市では囲碁を町おこしの起爆剤にしようと考え、文化担当の私が囲碁の先進地である因島に派遣されて視察:勉強に来たことを説明した。
ホテル側では即、それならと反応してくれ、対局した部屋やお二人の宿泊した部屋など見せていただいた。また当日の観戦者の様子など細かくお話いただきました。
よければ今夜囲碁の対局相手も呼んでくれるという。さすが囲碁を市技に指定している町だなーと感心した。

市技に囲碁を指定した因島市視察

翌日は市の教育員会職員から囲碁への政策、予算、取り組み実務上の苦労話など色々お聞きした。本因坊秀策記念館碁聖閣などご案内いただいた。碁盤に残る訓語に興味深々。
囲碁行政は教育員会の担当で社会教育関係団体囲碁推進協議会が所轄し市民活動の位置づけで実施しているとのこと。競技大会など幅広く県外からも参加者募集している。日本棋院の支部も設置されている由。
すごいのが宿泊客に囲碁相手を出張していただけること。昨夜ホテルでさっそく誘われたことを報告した。島全体を案内していただいたが、最後に向こうに見える島が生口島で、実は平山郁男美術館があり、そちらは女性客が千客万来だそうで、美術館の魅力には囲碁もかなわないのかなーと実感のこもったお話もされた。

碁聖本因坊秀策の生誕の地でもあり、昔から囲碁が盛んに行われていました。

碁盤型の看板で「囲碁のまち」をPR
 この伝統文化を魅力ある地域づくりにつなげようと、1997(平成9)年、全国で初めて、囲碁を「市技」に制定しました。
 取り組みの一つに、「碁ランティア」によるもてなしがあります。これは、本市を訪れる宿泊客の方に対し、それぞれの棋力に応じて、無料で囲碁の相手をするもので、好評を得ています。また、タイトル戦の招致にも力を入れています。七大タイトルのうち、これまでに本因坊戦、棋聖戦、名人戦、碁聖戦、王座戦を招致している。


また倉敷市では倉敷出身の不世出の将棋棋士大山康晴十五世名人の顕彰と将棋文化普及のために設立されました大山康晴記念館を視察、来るべき木谷實記念館開設に向け大いに刺激を受け勉強を深めた。

視察3つの目的
①木谷記念館構想を踏まえ、倉敷市の大山康晴記念館及び因島の本因坊秀策記念館の設置状況調査
②市技に囲碁を指定するなど因島の囲碁を積極的に活用した町おこし状況の調査
③因島:倉敷におけるタイトル戦開催状況の調査

倉敷における大山康晴記念館は、市民芸文館の一角に旧大山邸の建築材料を生かして復元した特色ある記念館。大山康晴は倉敷に生まれ育ち、将棋の棋士として東京で活躍中も住所は倉敷に置いていた。だから市民における存在感は絶大だった。
これを参考に、マンション建築により木谷道場は残念なことに取り壊されたが、その際貴重な建築素材は博物館に残されることとなり、何時の日か、木谷實記念館として復元される際は再利用されることとなっている。
また平塚市民センターは昭和37年建設された古い建物だが、多くの市民に今も利用されており、一角に木谷道場を記念した星のフロアーとして囲碁を楽しめるコーナーが誕生した。ここには囲碁フアンがボランティアで詰めており、囲碁を通した市民交流の場として親しまれている。

倉敷では大山康晴記念館のシリーズとして倉敷芸文館で、毎年名物のなった11月には倉敷市などが主催する女流タイトル戦 大山名人杯倉敷藤花戦三番勝負の第二局、第三局がここで行われます。
因島では海沿いの眺めが抜群のホテルで本因坊戦等ビックタイトル戦が行われる。

これらを学習して平塚では相模川沿い風光明媚なロケーションを誇るホテルでその後タイトル戦も開催されるようになった。当初ビックタイトル戦は会場、設備、環境、受け入れ態勢等々絶対に不可能とも考えもあったが、その後関係者の皆さんのご努力で女流棋士戦から実現、念ずれば通じるである。
日本棋院での打ち合わせの際大竹英雄先生が率先して事業推進にご協力くださった。
実にフランクで親しみ易い人柄だった。こう工夫すればなんとか可能だという超前向きな姿勢なのである。お酒も強かったが、お話から囲碁を本当に愛し、木谷道場を愛し、平塚の姿勢に
共感してくださり心強くたくましい存在だった。

このように多くの方の協働により市民に囲碁のすばらしさを振興する事業、多くの方々を平塚に招く町おこし事業、木谷實道場の文化的価値を再認識し顕彰する事業などの方向性も今数多くの事業として実現大きな成果をあげている。でもまだまだ学ぶところは限りない。

町おこしに囲碁や将棋をテーマとしている市町村 

余りにも有名な天童市の将棋
生産高・・・全国の将棋駒の95%を占める。
●製造の歴史・・・江戸時代末期、窮乏する家臣の救済策として、天童織田藩は将棋駒製造を奨励した。 明治、大正、昭和を経て、現在ではプロ棋士によるタイトル戦の対局駒として使われるなど、 彫駒の技術を確立させており、数々の名品を産み出してきた。
●天童の将棋駒は、日本一。まちの特産品として、天童を代表する顔である。

将棋資料館(300円)
将棋駒実演見学 (無料)
『人間将棋』    
  将棋の駒の生産量日本一を誇る山形県天童市で、22日、武将姿の地
元高校生らが駒になる恒例の「人間将棋」が行われ、大勢の観客が野
外の大将棋盤で繰り広げられた時代絵巻を堪能した。

人間将棋は、豊臣秀吉が桜満開の伏見城で小姓と腰元を駒に見立てて
将棋を指した、という故事にちなみ、市が「将棋のまち」のPRを目
的に昭和31年から毎年続けている。
この日勝負に臨んだのは、千葉涼子女流王将と甲斐智美女流初段。
ソメイヨシノが咲く中、両棋士は、甲冑などを身にまとった天童高の
生徒らを支持し、タテ約17m、ヨコ約14mの盤上で熱戦を展開した。


玉名市の将棋
熊本県玉名市の青少年大使が天童市を訪れました。玉名市は天童と同じく「将棋のまち」づくりを進めているところで、「東の天童 西の玉名」を目指して頑張っているそうです。青少年大使は天童市役所を訪れたあと天童高原キャンプ場に宿泊し、将棋駒作りを体験したり天童近辺の観光地「山寺」などを見学するそうです。
将棋の渡辺明竜王(21)に木村一基七段(32)が挑戦していた第18期竜王戦7番勝負第4局は、29日から熊本県玉名市の「白鷺荘別館」で行われ、30日午後5時48分、101手で先手の渡辺が勝ち、4連勝で初防衛を果たした。

佐藤康光二冠ら一線で活躍する棋士が寝食を共にしながら、子どもたちを指導する「第12回全国将棋寺子屋合宿―目指せ21世紀の大『名人』」を開催します。
対象は小学2年~中学3年で、男女問いません。佐藤二冠のほか、木村一基八段、増田裕司五段、山本真也五段、藤倉勇樹四段、佐藤天彦四段、関口武史四段、鈴木環那女流初段、稲葉陽三段の9人が将棋の楽しさを伝えます。また、座禅・写経なども体験できます。



雲仙市小浜の囲碁
長崎県小浜囲碁大会」(西日本新聞社、県小浜囲碁大会実行委員会主催)が25、26の両日、雲仙市小浜町の小浜観光ホテルを会場に開かれる。浴衣姿で気軽に楽しめる囲碁大会として九州各地の囲碁ファンから親しまれている名物大会。運営はすべて地元有志によって行われており、地元では歓迎ムードが高まっている。

 同大会は、囲碁好きだった小浜観光ホテル先代社長の故木村澤治さんと、元小浜町長の故桑戸諄一さんが中心になって1954年に発足。木村さんは当時、ホテルのお抱え大工を碁盤製造で有名な宮崎市の工務店に修業に出し、自前で200面の碁盤をそろえたという逸話も残している。

兵庫県丹波市柏原町の囲碁
囲碁ボールは兵庫県丹波市柏原町で生まれた競技です。
なぜ柏原で生まれたのかと言えば、町にまつわる故事のひとつに「碁賭けの勝負」があります。
 その昔、谷垣石見守と言う殿様は、とても囲碁が好きな殿様で、隣村の殿様とよく碁を打っていました。 ところが村人達の間では、石戸山の領地の境をめぐって争いが絶えなかったため両方の殿様が碁の勝負によって境を決めることになりました。

その結果、谷垣石見守が勝ち、その後は領地争いがなくなりました。
その故事にちなんで今でも谷垣石見守が祀られている石見神社は「碁の神社」と言われています。
こうした神社がある柏原が「囲碁のまち柏原」を目ざして、ニュースポーツ『囲碁ボール』が生まれました。


文化というとお金がかかり効果が少ないと市政の中でも国策でも遠いところに追いやられる運命です。しかし有名なお客が大勢押しかける所は京都、パリと言わなくても必ず文化資源の魅力に引かれてのことです。
平塚市は昭和37年市民センターを開所させました。その後39年市役所庁舎を建設しました。市庁舎より先に市民センターを平塚は優先させた。時の津田文吾知事は「町をあげて文化を大切にしている、この町は必ず栄える」と評価された。
そして平塚には熱海や横浜からさえお客が来る時代を迎えた。活気ある繁盛の町で、平塚から全国区の長崎屋や十字屋も生まれた。

その後時代は移り、市の中心に待望の広大な総合公園が開設されましたが、スポーツ施設ばかりで野外ホールや茶室などの文化施設が作られませんでした。
市の上層部が市民センターのコンサートなど鑑賞においでになったのを見たことは残念だがなかった。
文化を省みなくなった市政と比例するように平塚の商店街や工業の地盤沈下が叫ばれて久しい。

その町には必ず貴重な文化資源があるものです。これを有効活用しない手はない。
そして時は来る。明日は文化再興に新しい息吹が市政に吹き込まれた経過と、囲碁の巨星木谷實夫人の美晴さんの70人の子供たちが囲碁界を席巻する経過をお送りします。

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