絢爛たる北条の女たち 第九話 五代氏直正妻督姫は徳川家康の娘でもあった

絢爛たる北条の女たち 第九話 五代氏直正妻督姫は徳川家康の娘でもあった

督姫(とくひめ)

永禄8年1565年11月11日に三河・岡崎城で誕生した。
父:征夷大将軍 徳川家康
母は家康最初の側室・西郡局(鵜殿長持の娘)


第一幕 督姫 徳川家から北条家へ

10月27日に北条家と徳川家の和睦が成立した。
上野は北条氏直の領地となり、甲斐・信濃は戦いを有利に進めた徳川家康が領有。
また、徳川家康の娘が、北条氏直の正室として嫁ぐことで同盟成立となった。

和睦条件の一つとして天正11年(1583年)8月15日、督姫は氏直の正室として嫁いだ。
督姫は氏直のもとで二女を生む。
一人が文禄2年(1593年)に没し摩尼珠院殿妙勝童女。
もう一人は池田利隆室となるが慶長7年(1602年)に没した、宝珠院殿華庵宗春大
禅定尼


襲い来る大波
対豊臣秀吉対応について、北条家は北条氏政、北条氏照、北条氏邦らの強行派・主戦派と北条氏直(中間派)、北条氏規(穏健派)に別れ、北条氏直は徳川家康の娘である妻と、強行姿勢の父・北条氏政の間で苦しんだ。
豊臣秀吉は北条討伐令(小田原攻め)を全国の諸大名に通知。
1589年12月13日、豊臣秀吉は宣戦布告の朱印状を以って陣触れを発した

小田原落城
天正18年1590年7月5日、北条氏直(北條氏直)は豊臣秀吉に降伏し、小田原城を開城
この時、氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉から助命されて高野山に流された。

翌天正19年1591年2月 家康の取り成しもあり、秀吉は氏直を赦免した。
1万石の知行をあてがわれ、織田信雄の旧宅も与えられた。
氏直は8月大阪城に出仕し、督姫も赴いた。
朝鮮国成敗の従軍も命じられた。
殊勲を挙げれば再び国主への道も…厚遇であるが、娘婿の為家康が背後で手を打ってくれていたのだ。
しかし氏直は疱瘡を患い、なんと11月に30歳で死去したため、督姫は父徳川家康の下へ戻ることとなった。
督姫は二人の女の子を生んだが男子はいなかったため、北条家は断絶した。

第二幕 督姫 北条家から池田家へ

文禄3年(1594年)12月27日、秀吉の肝煎りで1594年に三河の吉田城主・池田輝政(15万石)に再嫁した。
この時、北条氏に伝来していた「酒呑童子絵巻」(狩野元信筆、現在はサントリー美術館所蔵)と「後三年合戦絵詞」(重要文化財、東京国立博物館所蔵)を持参している。
池田輝政には既に正室・糸姫(中川清秀の娘)がいたが、産後の体調不良を理由に離縁したうえで、督姫を継室
に迎えたのであった。
糸姫は、摂津茨木城主中川清秀(賤ヶ岳の戦いで戦死)の娘。
実家の当主は弟・秀成で豊後国岡に所領を与えられていた。
糸姫はこの地で生涯を過ごした。
元和元年(1615)12月22日に死去。
院号は大儀院。

池田輝政は督姫を得て、関ヶ原の戦いでも徳川家康に味方し、86万石に加増され初代姫路城主と大出世する。

督姫の子供たち

輝政との夫婦仲は良く五男二女をもうけた。

千姫  叔父の徳川秀忠の養女として京極高広に嫁ぐ。
;池田忠継:伏見の池田屋敷で生まれる。幼名藤松丸。
池田忠雄:、姫路城で生まれる。幼名勝五郎。
池田輝澄:。幼名松千代。
池田政綱:幼名岩松。
振姫  :夭折した叔母市姫に代わり伊達忠宗に嫁ぐ。
池田輝興:幼名小七郎。

督姫は北条氏直(北條氏直)との間に生まれていた娘を池田輝政の長男・池田利隆(13歳)の正室とした。

☆岡山城主・小早川秀秋の後継争いでは、督姫が江戸幕府を動かして、1603年、わずか5歳の第1子・池田忠継を岡山城主にすえ、本来城主に成り得池田輝政の嫡男・利隆を幼少な我が子忠継の執政代行役に任じた。

池田輝政には既に先妻末姫の男児が4人いたが、督姫は待望の我が子忠継が誕生したとき、輝政の長男利隆は16歳、次男政虎は10歳になっていたのに、督姫は、忠継を次男とし政虎を三男とした。
督姫は輝政の子を5人産んだので、政虎は結局七男とされた。
本来四男の利政は九男として扱われた。


☆督姫は第2子忠雄には、慶長15年(1610)、9歳で淡路国6万石を与え、由良城主とした。

督姫の第3子輝澄は6歳で、第4子政綱は7歳で、家康から松平姓を下賜された、なお末姫の子利隆は24歳でやっと下賜されている。

毒饅頭事件
忠継の母・督姫が実子の忠継を姫路城主にすべく、継子で姫路城主であった利隆の暗殺を企て、岡山城中で利隆が忠継に対面した際、饅頭に毒を盛って利隆に勧めようとした。女中が掌に「どく」と書いて見せたため、利隆は手をつけなかったが、これを察知した忠継は利隆の毒入り饅頭を奪い取って食べ、死亡した。
こうして身をもって長兄で正嫡の利隆を守ったという。
また、督姫もこれを恥じて毒入りの饅頭を食べて死亡したとされる。


真相調査
昭和53年(1978年)に忠継廟の移転の際に発掘調査が行われ、その際に毒死疑惑検証のため遺体の調査が行われた。
その結果でも毒物は検出されることはなかった

慶長20年(1615)2月4日、家康の娘として絶大な影響力を維持しつつ督姫は亡くなる。
図らずも輝政の前室糸姫と歿年が同じであった。
輝政の死後、家康と会うため滞在していた二条城で疱瘡にかかりそのまま死去した。
享年は51。
墓所は知恩院の塔頭・良正院(京都市東山区)。墓は知恩院山腹の墓地内にある。

☆督姫考

督姫自身の子供への権力を駆使してまでの処遇について、どこかの国の総理大臣みたいに親しい友人に権力を使って厚遇するのと同様に批判的な見方も当然だが、だが、正妻として北条に嫁ぎ、その末路、断末魔の悲劇を身をもって体験した督姫が、、池田家での再生にあたり、子供たちの将来を憂い、精一杯保険を掛けた人生措置とも見ていいのではないか。

いつ何が起こるか分からない戦国の世、…事実督姫が亡くなり家康も亡くなった後、江戸幕府新体制が着々構築され、当然のように姫路城は外様池田家ではなく、徳川譜代の酒井、本田、松平家が城主となっていった。
池田家は鳥取に移封された。

しかし外様の池田家でも、輝政と徳川家康の二女・督姫の間に生まれた忠雄の家系であることから岡山の宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられた。
また、通常大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で家来に預けなくてはならなかったが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが出来た。
これは鳥取池田氏の他には御連枝や越前松平家の一門といった徳川家一門の親藩と、やはり他の外様大名より家格の高い加賀藩前田氏のみに許された特権であった。

5代氏直正妻督姫は正に禄壽応穏の人だった

追記…こちらもしぶとかった…河内佐山北条の蘇生
氏直に男の子がいなかったため北条家100年の幕は閉じられたのであるが…
ただし、北条の家名は、氏盛が継ぎ、所領の一部相続が認められた。
氏規は赦免され朝鮮に従軍、1594年秀吉から河内狭山で7、000石を与えられた。
その子氏盛は関ケ原の戦いに家康軍に従軍、河内佐山藩1万石の藩主となった。

氏盛の死後、狭山藩は12代に渡って北条氏が支配し、明治維新を迎えるまで存続した。
明治維新後、12代狭山藩主であった北条氏恭は子爵に列せらた。
その四男は公明党の参議院議員に、またその甥である北条浩はその支持母体である創価学会の4代目会長を務めた



参考資料
新人物往来社発行 黒田基樹著 北条早雲とその一族
教育社発行 江西逸志子原著 岸正尚訳 小田原北条記
新紀元社発行 相川司著 戦国北条一族

ブログ発信  金丸亜紀雄


NHK大河ドラマ「禄壽応穏 小田原北条五代物語」を実現する会 応援しています。



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