絢爛たる北条の女たち第六話力合わせ北条へグレードアップ氏綱と養珠院殿

絢爛たる北条の女たち第六話力合わせ北条へグレードアップ氏綱と養珠院殿


氏綱正室養珠院(横江北条氏女)

養珠院殿(ようじゅいんどの

堀越公方・足利成知の家臣である横江北条家の娘
北条氏綱の正室。
北条氏康の生母

養珠院殿が果たした伊勢から北条へのグレードアップ

大永3年(1523年)6月から9月の間に氏綱は名字を伊勢氏から北条氏(後北条氏)へと改めた
養珠院の夫、早雲の息子氏綱が「北条」に改姓したのは、関東における余所者、『他国の凶徒』と呼ばれていた伊勢家に関東支配の正統性を与えるためだった。

領国支配を正当化するために執権北条氏の後継者である事を認める発想は早雲の代からあったが、氏綱の代にてようやく成功したのであった。

ちなみにこの改称から数年後に左京大夫に任命され、家格的にも周辺の今川氏や武田氏、上杉氏と同格の扱いを受けた。
北条家発祥の地とされる伊豆を領有していたことで、その土地の名「北条」を名乗る権利を有していたが
朝廷に願い出て勅許を得ての正式な改姓ゆえ、さらに強い根拠をえたことになる。


養珠院は、3代目・北条氏康を産んだ。

永正12年1515年に北条氏康が生れた他、1520年には北条為昌、1522年には北条氏尭が生れている。
氏康は、武田信玄や今川義元と堂々渡り合い、関東管領となった上杉謙信の小田原城攻めをも防いだ

夫 氏綱の治世

養珠院との婚姻により北条への改称に成功。
他国者伊勢氏綱でなく正当後継者相模国太守北条氏綱の誕生である。

合戦、外交とともに重要なのが権威と民衆の見る目である。
治世者氏康は、鶴岡八幡宮、寒川神社、箱根権現、伊豆権現、三島大社等を造営改築した。

政治力がある武将で、父の頃に行われていた豪族での連合体制を修正して治外法権をなくし、自身への権力集中を計った。
検地を実行し、家臣団と領民の統制整備を行い、有能な人材を評定衆・奉行衆に登用し、適材適所の配置を行った。

北条氏綱が使用した朱印に刻銘された「禄寿応隠」は北条家が滅亡するまで代々の当主が使用することになる。
…刻銘の「禄寿応穏」は、「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての 禄を寿を北条氏が守っていく…

関東に影響力を持っている古河公方・足利晴氏に娘・芳春院を継室として送って同盟。
また、太田道灌の孫・太田資高を寝返らせて江戸城を確保し、続いて岩槻城(岩付城)を攻略した。

北条氏綱は1541年に死去するが、その直前に「5か条の訓戒状」を残した。
「北条氏綱公御書置」「五箇条の御書置」とも呼ばれる。

一、大将から侍にいたるまで、を大事にすること。
たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。

、武士から農民にいたるまで、全ての民をしむこと。
必要のない民などいないからである


一、決して驕らず、またへつらわずに、身にあった限を守ること。
一、約に勤めて重視すべし。

一、勝利はほどほどにせよ。
勝利し続けると、自らにり、敵を侮ることがあるからである。

…本ブログでは米国ルーズベルト大統領を感嘆させた男「勝って兜の緒を締めよ」北条氏綱を近く発信予定です…

養珠院没年は大永7年1527年7月17日没
天文10年1541年7月19日 満55歳で北条氏綱 永眠

2代氏綱正妻養珠院殿は正に禄壽応穏の人だった。



参考資料
新人物往来社発行 黒田基樹著 北条早雲とその一族
教育社発行 江西逸志子原著 岸正尚訳 小田原北条記
新紀元社発行 相川司著 戦国北条一族

ブログ発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄

NHK大河ドラマ「禄壽応穏 小田原北条五代物語」を実現する会 応援しています。

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