絢爛たる北条の女たち第五話早雲と3人の妻たち、南陽院殿、葛山氏娘、善修寺殿

絢爛たる北条の女たち 第五話 早雲と3人の妻たち 南陽院殿、葛山殿、善修寺殿

北条早雲には正室の南陽院殿、そして側室の葛山氏娘、善修寺殿という3名の妻がいた。
その血を引く者たちが、禄壽応穏を旗印に100年にも及ぶ小田原北条家の繁栄を築いて行った。

正室 南陽院殿

正室である南陽院殿は、室町幕府名門細川家家臣小笠原備前守政清の娘。
1485に早雲と結婚し、その2年後長享元年(1487年)には嫡男の北条氏綱が誕生した。
また、他には早雲の次男とされる北条氏時という人物の母でもあった。
永正3年(1506年)7月18日死去


南陽院殿長男 氏綱

永正16年1519年8月15日 御年88歳で早雲は亡くなった。
新九郎氏綱は亡き父の政道を忠実に継いだ。
伊豆相模隅々まで統治。
大永3年(1523年)6月から9月の間に氏綱は名字を伊勢氏から北条氏へと改めた
湯本に早雲寺を建立。
江戸城攻略
鶴岡八幡宮改築
天文10年1541年7月19日 氏綱は帰らぬ人となった。
3代氏康に残したのが「北条氏綱、五か条の訓戒」であった。
小田原北条100年を貫く禄壽応穏の治世はこうして作られたのである。
本ブログでは近く「米国大統領ルーズベルトを感嘆させた男北条氏綱」を発信する予定です。


側室 葛山氏娘
側室の葛山氏娘の実家は駿河国東部の豪族で、早雲の小田原攻めに協力した人物として知られている。
早雲はこの葛山氏娘との間に三男葛山氏広を産んでいる。

葛山氏広=駿河国東部の国人領主・葛山氏の養子となって葛山氏の家督を継いだ。
宗瑞早雲の側室に葛山氏の娘(葛山殿)がおり、彼女が母だったこともあり葛山城主葛山氏春吉の養子になり1516年に葛山家の家督を継いだ。
葛山氏広は今川氏に従属しており駿府に屋敷を構え今川氏に出仕していた。
天文元年(1532年)4月13日には、官途名中務少輔を称している。

同6年(1537年)、長兄氏綱と今川義元が争った河東一乱の際には氏綱側に味方している。
同8年(1539年)4月には死去が確認されるが、詳しい死亡時期は不明。
また生年についても不明だが、兄氏綱(1487年)から弟長綱(幻庵、1493年)の間に生まれたことになる。

葛山氏元(かつらやま-うじもと)は1520年生まれで、葛山貞氏の子でしたが、葛山氏広の養子となりました。
葛山氏元(葛山備中守氏元)の正室として、北条氏綱の娘である「ちよ」が葛山館に入っている。


側室 善修寺殿

善修寺殿は伊豆中心部にて平安から続いている名門狩野氏を実家としていた。
狩野氏は伊豆衆のリーダーともいえる存在で、宗瑞(早雲)の伊豆支配に対しては最後まで抵抗していたが、明応5年狩野氏は宗瑞に降りた。
その縁で娘が早雲側室に入った。

早雲の四男で
北条五代全てに仕えた北条幻庵ら3人の子供の母とされる人物である。

長女 長松院殿 天正13年(1585年)6月14日死去。法名:長松院殿月渓宗珊珊。

四男 幻庵宗哲(長綱)(1492~1589)箱根権現別当
 北条家五代にわたる重鎮中の重鎮の長老幻庵は、二代当主である氏綱の腹違いの弟である。
 氏綱の母は正室の南陽院殿。京の小笠原家の姫です。
幻庵の母である善修寺殿(ぜんしゅうじ)の出自は、伊 豆狩野氏
兄氏綱始め5代氏直まで仕え、文武をもって政治を助けた。
 馬術弓術の達人でもあった。風流人でもあり諸芸に通じていた。
 天正17年1589年11月1日逝去 享年97歳


次女 青松院殿 法名:青松院殿天光貞修大姉

天正2年(1574年)7月25日死去 名:善修寺殿梅嶺宗意大姉

初代早雲妻南陽院殿、葛山殿、善修寺殿は正に禄壽応穏の人だった。


参考資料
新人物往来社発行 黒田基樹著 北条早雲とその一族
教育社発行 江西逸志子原著 岸正尚訳 小田原北条記

ブログ発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄

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