笠井堰が、晴れの国が泣く岡山県倉敷市真備町大洪水

第一幕  平成最初の年…
平成元年 岡山県のトータルイメージを表現する言葉として「晴れの国、おかやま」決定
岡山県広報誌を「晴れの国、おかやま」とネーミングした。

その晴れぶりは☛降水量1mm未満の日:276.8日で全国第1位 (気象庁「全国気候表(1981~2010年(30年間)の平年値。

第二幕 大正3年~8年 岡山県高梁川流域住民は度重なる氾濫に苦闘していた、そして知事笠井が動いた

晴れの国、おかやま、結構なネーミングだが、だがしかし明治から大正にかけ、岡山の3大河川の一つ高梁川は洪水の川でもあった。
当時の岡山県知事笠井信一は、高梁川流域市町村首長、議員及び自治会等から度重なる必死の陳情に、大雨が降ると頭から川のことが離れなくなったという。

彼が岡山県高梁川の洪水対策にどう取り組んだかは本ブログ2013年平成25年5月29日号で以下の内容を発信し、笠井が地域住民とともに築いた笠井堰の教訓を決して忘れてはいけないと再認識したのであるが果たして今回大洪水が発生してしまった。


岡山の治水事業に奮闘  大正の若き官選知事笠井信一物語④

第4話 笠井堰編
   登場人物 岡山の農業者、洪水に苦しめられている周辺住民、笠井信一


笠井信一と岡山

笹井信一は、1864年静岡県富士郡で生まれた。
1892年国家公務員として内務属により山形県参事官、岩手県警務部長、台湾総督府、熊本県、岐阜県書記官を歴任。
1907年岩手県知事(42歳)、若きリーダーとして大抜擢に応え後に´銀河鉄道´と呼ばれた岩手軽便鉄道敷設や釜石製鉄所設置など岩手の財政再建等重責を果たした。
岡山県知事には49歳大正3年(1914)6月着任、大正8年(1919)5年間岡山県第10代官選知事として行政任務を遂行した。
そして大正6年、我が国社会保障制度の屋台骨となった岡山県令『済世顧問設置規定』後の民生委員制度を創設公布した。
「一村その人を得るならば、その村.は安し」と笠井は言い、一人の民生委員がいれば、その地域の人々の安心がつ くられると語り、100年後もその精神は受け継がれている。
国と地方、公と民、今こそ誰もが言う公私協働の制度精神をあの中央集権の時代に唱えた笠井信一。

さて為政は治水から…県政は福祉の他懸案は多かった。
中でも最大課題であった高梁川治水事業に笠井はどう立ち向かったか…
高梁川の水は私たちの命の源!

高梁川(たかはしがわ)は、岡山県西部(備中の国)を流れる高梁川水系の本流で、一級河川。
吉井川、旭川と並ぶ岡山三大河川の一つ
鳥取県境の明智峠(標高755m)に近い花見山(標高1,188メートル)の東麓(新見市)を源流とし、高梁市・総社市を経て、県西部地域のほぼ中央を南北に流れ、倉敷市で水島灘に注ぐ。
中国山地に生まれ、吉備の国・倉敷平野・水島工業地帯を育む岡山西部の母なる川である。
                                    
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流域

県下最大の穀倉地域であり、古くから用水地域として開発されてきた高梁川下流三角州地帯に展開している平坦地 明治25,26年の大洪水を契機として明治43年から大正14年まで行われた内務省による第一期改修によって、それまで倉敷市で東西両派川(はせん)に分かれていた東派川を締切り、西派川に統合する大改修を行いました。
その後、廃川(はいせん)となった東派川の廃川地の造成、水島の工業用地土地造成などが行われ現在の高梁川の姿となっています。

地域のあらましと洪水と旱魃の歴史

延享年間(1770年頃)より大正時代までの高梁川の洪水を拾ってみると18回を数える

特に高梁川は川が若く水勢が強いため、川筋が安定した後も洪水による堤防が絶えず沿岸諸村に大きな被害をもたらす事が少なくなかった。
 この記録として、井尻野の隣村である常磐村史の水害史には、明治に入ってからも高梁川は数年おきに氾濫を繰り返した。
特に明治26年10月の暴風雨洪水は県下一円の大災害を来し、その上前年の25年7月の災害に倍加された結果その被害は甚大であった。
 被害として死者 423人。負傷者 991人。流失家屋3,342戸等未會有の記録が残っている。

江戸時代から明治時代の終わりまでの約300年間にわたる干拓で出来た、倉敷・船穂・玉島など1万数千haの土地を守るため、明治40年から高梁川改修工事が行われた。
それに伴い、それまで11あった取水樋門を1つに統合する形で東西用水が造られた。

笠井堰とその恩恵

高梁川は江戸時代から明治時代にかけては、東西2つの流れに分かれており、どちらの川もたびたび洪水被害を出していました。
 特に明治25年から27年にかけての大洪水を契機として、高梁川下流の大規模改修工事に着手され、巨大な堤防を築くとともに、東西2本の流れの内、東高梁川が締め切られ、西高梁川の1本に統一することとなりました。
 
また、東高梁川に7箇所、西高梁川に5箇所のあった農業用水の取水口が1箇所にまとめられましたが、取水口は、大正14年に完成し,建取り組んだ当時の
岡山県知事であった笠井信一氏の名前をもらい「笠井堰」と呼ばれています。
 
高梁川流域市町村首長、議員及び自治会等から洪水の恐怖、農業用水不足に対する度重なる必死の陳情に、笠井は大雨が降ると頭から川のことが離れなくなったという。
治水事業には大いに意を用い、その具体化の一つが高梁川笠井堰に見られるのである


「堰」は、必要に応じて流水をせき止めたり、流したりできるよう、川の水量を調節する河川構造物です。

洪水防御(こうずいぼうぎょ)
笠井堰により、川底を深くして、川幅を広げて洪水が安全に流れるように堰を改築しました。

潅漑用水
笠井堰から取水された水は、酒津配水池から、倉敷市や船穂町などの農地(マスカットスタジアム約1,100個分)へと供給され、農業経営の安定に役立っている


環境保全
堰によって水量を調節し、川の生き物たちがすみやすい環境づくりのための流量を確保する役割も果たす。

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酒津配水池は、3.1haの面積があり、笠井堰から取水した用水を貯留したり、沈砂池としての役目があります。これより、6つの用水路に21の樋門により決められた用水量を分配しています。 これらを管理運営するため、大正5年に高梁川東西用水組合を設立し、今年創立90周年を迎えているところです。現在、その組合が入っている管理棟は、この建物は大正14年に建築された近代洋風建築で、岡山県近代化遺産に指定されました。 

高梁川の水は私たちの命の源!

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笠井堰(かさいぜき)を造った際、12箇所あった取水口が1箇所に統合されましたが、各々取水していた水をこれまでと同じように配分するため、笠井堰で取水した水をいったん配水池に貯めて、樋門からこれまでと同じ量を配分することとしました。
樋門の高さを同じにし、幅を変えることでこれまでと同じ量の水を配分するようにしたわけです。
 そしてこの配水池や樋門を管理するため、東西用水組合という組織がつくられました。
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笠井堰から高梁川の流れを分ち、酒津遊水池を経由し、倉敷市西部方面に配水している西部用水路は農業用水としても貴重。
夏には親子達れが水路の流れに身をまかせ、プールでは味わえない爽快そのものの水遊びに興じている。また、こども会連合会の主催で七夕まつりが開催されるなど、清流を体感しながらの交流の場としても利用されている。



第三幕 平成最後の年 高梁川バックアップにより大洪水 真備町4分の1が浸水 真備町の死者51人

以下ロイター電…

①現場
平成30年7月6日の1日の降水量は138.5ミリ、倉敷市としては観測史上2番目の多さだった。
6日深夜から7日未明にかけ遂に小田川と高馬川の3カ所で堤防が決壊し、真備に水が流れ込んだ。
水位が高まった高梁川が支流の小田川の流れをせき止める「バックウオーター現象」が起き、小田川は高梁川との合流地点の手前3・4キロ付近などで決壊。

②倉敷市
伊東香織・倉敷市長7月6日午後11時45分最初の避難指示を小田川の南側の地区に出した。
7日の午前1時30分拡声器、携帯電話のメール、テレビ、ラジオを通じて小田川北側の住民に避難を指示した。
決壊4分前だった。

倉敷市では2005年以降、国土交通省に対し、整備工事を始めるよう毎年働きかけてきたという。
しかし、国にとって優先度が高いとは認識されなかった。

③岡山県
国と県、倉敷市による河川整備計画は2010年に策定され、今秋に着工される予定だった。
岡山県議会議長を勤める高橋戒隆氏は、河川工事が遅れた背景には、予算の縮小もあると指摘した。
真備町で育った高橋氏は長年、洪水対策の重要性を訴えてきた。

④国
国交省中国地方整備局の山内洋志・河川調査官は、2014年の小田川付け替え事業について、適切な手続きに従ったとしたうえで大規模河川整備事業は、通常、長い期間がかかる、と述べた。

過去20年間、全国的に公共事業への支出は大幅に削減されてきた。
1999年度のピーク時には14.9兆円だった公共事業費は11年度に5.3兆円まで減少し、今年度は6兆円だった。
石井啓一国土交通相は13日の会見で、今回の豪雨で倉敷市に大きな被害が出たのは、与党の政策が間違っていたためで「人的災害」だったのではないかとの質問に、直接答えることはしなかった。

⑤河本ダム
河本ダムは治水目的のダムの一つで今回緊急放流を行っている。
午後3時頃から急激に流入する水が増加し、毎秒500トンを超えていた。
そこで午後7時に毎秒391トン、平時の39倍を放流。午後8時に平時の40倍、その後も9時、10時とそれを上回る放流が行われ、午後11時には流入量とほぼ同じだけ放流する緊急放流が行われた。

画面など午後7時の時点ですでに危険水域の8メートルを観測していた中、なぜ緊急放流を行ったのか?
河本ダムを管理する岡山県の担当者はこう答える。
「ダムの容量というのは限られていますので、その容量まで水が溜まるんですけど、それ以上溜まりますと、ダムの決壊という非常に大災害の恐れがありますので、それは絶対に避けなきゃいけない。まだ検証とかそういった話が出来ていませんのでどの辺が影響あったかのかはこの場では言えない…」

高梁市の防災責任者「実は河本ダムに言ったんですよ。『これ以上流すと氾濫するから、もう放流はしないでくれ、頼むからやめてくれ』と。
でも河本ダムからは『放流しなければダムが決壊する。そうなればもっと甚大な被害が出るから無理です』と言われました」

⑥強い堤防より産業優先のダム
地域住民は何度も国に陳情し、ようやく国交省が今年の秋にも真備地区の洪水対策の工事を始める予定だった。
しかし、間に合わなかったのだ。
その一方で、1972年の洪水以降、高梁川上流に3つのダムが作られている。
治水の専門家である京都大学名誉教授(河川工学)今本博健氏は日本の治水行政における“ダムありき”の限界を語る。
「河本ダムはそれなりの働きはしているのです。だけど、被害を食い止めることができなかった、これがダムの限界だと思うのです。国交省は、ともかくダムを先に作る、優先して作るということで、強い堤防を作ることを後回しにしてきているのです」


制作発信  金丸亜紀雄

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