絢爛たる北条の女たち第三話 氏康長女早川殿 流転の契り

絢爛たる北条の女たち 第三話  三代氏康長女早川殿 流転の契り
画像
                                     西原亜希演じる¨はる¨こと早川殿

誕生…相模国

早川殿は、相模の国の大名、北条氏康の長女として生まれた。
生年本名は分かっていない。
生母は、氏康の正室・瑞渓院だったと言われている。

流転1…駿河国へ輿入れ

天文23年(1554年)武田・北条・今川氏の間で甲相駿三国同盟が結ばれると、その証として同年7月に早川殿は今川義元の嫡男、氏真のもとに嫁ぎました。
この時、今川氏真は17歳。
今川重臣・太原雪斎の斡旋だった。

早川殿の年齢は分かっていませんが、後年の出産年齢などから考えると氏真よりも少し年下だったのではないかと思われる。
甲斐で記された『妙法寺記』には、輿入の行列の見事さが伝聞として記されている。
伊豆と駿河の国境を流れる境川に架けられた農業用水の「千貫樋」は、北条氏康からの聟引出物として建設されたという伝承もある。
この駿河での結婚生活の間に早川殿は氏真の長女(後の吉良義定室)を出産しています。

流転2…駿府から掛川へ

永禄3年(1560年)、今川家を揺るがす大事件が起こる。
当主である今川義元が尾張の国の桶狭間で織田信長に討たれてしまった。
夫の氏真は家督を継いで当主となった。
永禄11年(1568年)12月、甲斐の武田信玄が三国同盟を破り、駿河に侵攻を開始。
氏真は武田軍を迎え撃つため出陣するが、駿河の有力の国人の多くがこれを機に武田に内通したため、今川勢は潰走を余儀なくされ、駿府も敵に奪われてしまう。

早川殿は家臣たちに守られて駿府を脱出しますが、この時、武田氏は早川殿の保護を怠ったために、早川殿は乗り物を用意することも出来ずが徒歩で逃げる羽目になった。
このことに父の北条氏康は激怒し、武田との同盟を破棄して長年の宿敵だった上杉謙信との同盟に切り替え(越相同盟)、今川氏を支援するために駿河に出兵した。
早川氏真殿は氏真とともに掛川城へ身を寄せた。

流転3…伊豆の国戸倉へ

翌年、掛川城の開城により、氏真・早川殿と長女らは伊豆国(当時)戸倉城に移った。
北条の庇護下に入った。」
そして5月23日には北条氏政の子・氏直を養子とし、駿河を譲ることになった。

掛川開城…
掛川城は家康によって包囲された。
掛川城は堅固であり、年をまたいで永禄12年(1569年)に入っても陥落せずに、半年近くもよく持ちこたえていた。
一方でその間、駿府の陥落を聞いた北条氏康が今川氏救援のために駿河へ侵攻するが、こちらも武田軍との決着はつかずに戦局は膠着。
また、武田軍は家康との約束を破って遠江国への侵攻もはじめたため、家康は氏真との和睦を模索するようになる。
そして同年5月17日、氏真は家康から「武田信玄を駆逐したら駿河一国を氏真に返す」という条件で和睦を受け入れて降伏、開城となったのである。

流転4…相模国早川

ついで実父を頼って氏真らとともに小田原の早川へ移っており、「早川殿」の称はここから来ている。
元亀元年(1570年)、長男今川範以(のりもち)を生む。
氏真が33歳で得た嫡男である。

流転5…浜松へ

元亀2年(1571年)10月、父氏康が死去し、跡を継いだ氏政は武田との同盟を復活させ甲相同盟を結ぶ。
これにより氏真の駿河帰国が頓挫すると、早川殿は12月に氏真とともに小田原を出奔し、浜松の徳川家康を頼った。
『校訂松平記』には、北条氏政が武田信玄と結んだ際、信玄が氏真を討つべく人数を小田原に送り込んだが、これを知った早川殿が大いに腹を立て、小田原に在住していた譜代の者を集めて船を仕立て、氏真とともに白昼に小田原を退去した、との記述がある。
家康にとっても、旧主である今川家の嫡流、氏真を庇護下に置いておくことは駿河を統治する上でメリットがあった。

天正元年(1573年)には伊勢大湊の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。
天正4年(1576年)、次男品川高久を儲けた。
さらに三男西尾安信、天正7年(1579年)には四男澄存を産んでいる
武田の侵攻、今川家の滅亡、他家に庇護されての暮らしという苦境のなかでも早川殿の氏真に対する愛情には、少しの陰りもなかったのである。

天正3年(1575年)の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』(内閣文庫蔵)に書き残されている。
信長公記』によると、3月16日に家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と京都の相国寺で会見した。
信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家達と共に信長に蹴鞠を披露している

天正10年(1582年)3月。
織田徳川連合軍による侵攻を受けた甲斐の武田家が滅亡します。
武田が今川へ侵攻してから14年後のことでした。
この時、早川殿の異母妹である桂林院殿は、夫である武田勝頼に殉じて19歳で自害して果てている。
かつての自分と同じように、名門に嫁ぎながら敵の侵略を受けて城を追われ、それでも夫から離れることなく最後まで側にいることを選んだ妹の死の知らせを、早川殿はどんな思いで聞いたのか。
本ブログ北条の女たち第二部参考

流転6 島田

氏真も武田の残兵掃討に従事したのち、徳川軍による駿河・諏訪原城(静岡県島田市)攻撃にも従い、同年8月に諏訪原城は落城している。
そして翌天正4年(1576)、この諏訪原城が家康によって牧野城と改名されると、氏真はその城主を任されることに。実に7年ぶりの城主返り咲きであった


流転7…京都

天正18年(1590年)頃に京都に移る。
仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経初め冷泉為満・冷泉為将ら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。
文禄4年(1595年)の『言経卿記』には言経が氏真と共に石川家成を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかの繋がりがあることが推測される[27]。
京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている。

流転8…江戸時代


慶長17年(1612年)には京都を離れ、江戸品川に移る。
次男高久はすでに徳川秀忠に出仕していた。
慶長17年(1612年)正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した。
4月に氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している。
『寛政重修諸家譜』によれば、氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。
氏真はそのまま子や孫のいる江戸に移住した

慶長18年(1613年)2月15日。
江戸の地で早川殿は、氏真に先立って亡くなりました。
どんな苦境の時も自分から離れずに、ずっと寄り添っていてくれた妻に先立たれた氏真の寂しさはいかばかりか。
その翌年の慶長19年12月。
あとを追うようにして氏真も亡くなった。

甲相駿三国同盟で結ばれた夫婦のうち、最後まで添い遂げたのはこの氏真と早川殿だけだった。

25回忌の折に澄存によって造立された墓が、高家今川氏の所領であった観泉寺(現・東京都杉並区今川二丁目)に現存している。

画像
     長い流転と添い遂げた二人 北条氏康長女早川殿と今川氏真

三代氏康長女早川殿は正に禄壽応穏の人だった。

参考資料
NHKホームページ
新人物往来社発行 黒田基樹著 北条早雲とその一族
教育社発行 江西逸志子原著 岸正尚訳 小田原北条記
新紀元社発行 相川司著 戦国北条一族

ブログ発信  金丸亜紀雄

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック