北条五代を大河ドラマに! に欠けるもの  北条五代観光推進協議会への提案

北条五代を大河ドラマに! 北条五代観光推進協議会チラシを拝見した。
早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の五代はなるほど細かく記述されているが、歴史のおさらいではない。

1年間ずっと居間のテレビを囲んで家族が気軽に観る番組でなければならない。
それには面白さ、わくわく、スカッと感が大切。

でも北条五代観光推進協議会の五代宣伝チラシには大河ドラマにする一番重要なポイントが全く記載されていない。
ヒントを少し…


絢爛たる北条の女たち 第1話 二代氏綱娘芳春院殿


北条氏綱には寵愛している娘がいた。
芳春院殿
顔立ちは美しく、姿は整っていて気品があり、物静かで深みをたたえていた。
唐の楊貴妃、韓の李婦人の美しさもこの方を超えることはあるまいと評判だった。

古河公方足利高基から子息晴氏の嫁に頂きたいとの言葉が氏綱にあった。
一度は辞退したが重ねての御使いが来てのお話に折れた。
天文9年1540年芳春院は公方足利晴氏に迎え入れられた。

永正16年1519年北条早雲は御年88歳で永眠。
氏綱は亡父の政道を忠実に継ぎ、仁義を尊び、孝行を積み、長老をいたわることを忘れず
忠臣に報い、勢いは日々盛んになっていった。
北条の領国=相模、伊豆両国は隅々まで統治されていた。
その他はみな管領上杉家の両国だった。

享禄3年1530年氏綱は武州府中に蜂起した上杉朝興軍を討つべく子息
氏康に命じた。氏康16歳、初出陣晴れの舞台だった。
敵を川越まで追い散らし氏康は小田原に凱旋した。
天文10年1541年2代北条氏綱は55歳で永眠。
永禄3年1560年古河公方足利晴氏は病から倒れ他界した。
芳春院は晴氏公の面影がいつも身に沿い忘れることができなかった。

過ぎ去った日々を恋しく思い流す涙でぬれていた。
せめてのお心から歌をお詠になった。

き跡を げくばかりの みだ川
 ながれの末は ながき滝瀬

むつまじく むすぶ契りの むつごとも
むなしき空に むらさきの雲

あわれさの あとに残りて あぢきなや
 あけぼのの照らす ありあけの月

みつしほに み法の船の み馴れ竿
 み陀の誓いと 身はなりにけり

だれにもみな たのみをかけよ た念なく
 た力の心 ただ仏なる

ふたつなく ふ捨の誓願 ふしぎやな
 ふかき願ひぞ ふ退とはなる

…6字の名号を各句の上において御心を読まれた。
すなわち6首でなみあぶだぶつとなる。

愛する夫の死を悼み、その悲しみをこらえた歌。
芳春院の心持が汲まれる。


同じ年 3代氏康は隠居、万松軒と称した。
家督を4代氏政に譲った。



管領上杉家崩壊

天文14年1545年10月
公方晴氏が出陣した。
北条が籠る川越城を攻めた。
関東領国は一斉にこれに呼応。
俄かに8万の大軍に。

しかし北条の侍は大軍に驚かず小敵を侮らない訓練を受け、武門の誉れを身につけていた。
天文15年4月
油断していた上杉大軍8万を北条勢8,000が夜襲。
重い鎧はつけず、首も刎ねず捨て置き、前から後ろから四方に動けが合言葉。
劣勢勢が古今まれな大勝利をあげる。
上杉譜代が次々降伏。
北条の勢いは増すばかりになった。

北条氏康は公方上杉晴氏に書状をしたためた。
[私の妹が公方様へ宮使いに上がりました。
若君義氏ご誕生以来忠義と誠に励んできました。
しかるに川越城を攻められやむなく大敵を切り崩しました。
天道様が正直にふるまう私を憐れんでくださったのです。
君子の道を外れた行いはどうしたことなのか。
ご考慮を促すため書面でもって申し上げます。
平氏康]


二代氏綱娘芳春院殿は正に禄壽応穏の人だった。


参考資料
教育社発行 江西逸志子原著 岸正尚訳「小田原北条記」上下  

ブログ発信  金丸亜紀雄

NHK大河ドラマ「禄壽応穏 小田原北条五代物語」を実現する会 応援しています。




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