日本に活を入れ、伊藤博文が持つべきは友なりと最も信頼した男…雨宮敬次郎

河出書房新書発行 江宮隆之著 「天下の雨敬 明治を拓く…鉄道王 雨宮敬次郎の生涯」  273ページ


雨宮家三女ますえの語りで明治の巨人の物語は始まる

雨宮という傑物の大きさ

大隈重信が雨宮を事業の気宇の大きさから「天下の…雨敬」と言い出した
体も大きかった 体重86キロ、身長182センチ
九段靖国神社の隣に雨宮御殿はあった

日本最初の製粉工場、軽井沢開拓、熱海開発、甲武鉄道、川越鉄道、北海道炭坑鉄道、東京市街鉄道、中央本線開発、雨宮軽便鉄道等々世の為、人の為、国の為に人の千倍も働いた

正に明治を経済、事業面から切り拓いた 私益を追わず国の為世の為を優先した傑物だった

甲州山梨郡牛奥村に1846年弘化3年生まれた

14歳の時、1両元手に10日考え卵の販売を思いつく
父は次に5両を渡す→繭と生糸を商う
15歳元服→今度は江戸に出てみる。見ると聞くとの大違いを実感 5年分学んだ
17歳 商売は順調、600両貯蓄→生涯600余の商売に手を染めた
江戸が東京になった

明治4年1月15日 敬次郎は塩山牛奥を出た
横浜に向かった「大きな商人になる夢」を持って


 
 山梨県出身の経済人、事業家をひとまとめて甲州財閥と呼ぶ。
三井、三菱、安田財閥とは異なる甲州、郷党意識でまとまった集団である。
東京の基礎を間違いなく甲州財閥が作り上げた。
東京の、電車、バス、電気、ガス、水道…都民に欠かせないインフラを甲州財閥の力で整備された。
開国開港は一挙に一旗組を東京、横浜に道を開いた。

篠原忠右衛門が最初の甲州商人、生糸の道を切り開く。
明治元年若尾逸平49歳、雨宮敬次郎23歳、甲州商人恐るべし。
外国人相手に生糸の商売のうまみを知った若尾。若尾は22歳で行商を始めたが俺は14歳から始めた。
若尾には負けない。
塩山を後に横浜に向かった。



売り買いは即決即断、風林火山の教え 
26歳生糸の中継ぎ問屋信州屋ののぶと結婚 
信州屋の主人に収まる。 
売り買いの手堅い商売だが物足りない。

のぶは100円を見せ、これで好きなことをおやんな。
生糸相場を張ることに。

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明治9年 イタリヤへ渡航。欧州の生糸不足をキャッチ、大儲けする。
先見性、情報、海外事情が商売に重要だと学ぶ。

危険分散と選択肢
逆転の発想=買いに走ると 売り、売りに入ると買うのだ
人の考え行動するのとその逆を行くのだ

借家を大家と交渉し購入、資金は銀行から借りる、担保は買った家。
滞納していた家賃も全部銀行からの借金で返済。まだ資金が残った。
相場で勝負する資金がこうして作れた、

文明の商売「石油」を始める。
東京深川に製粉工場建設。パンつくり創始者に。

…国家経済は超インフレに…
大阪商工会議所初代会頭五代友厚に合う。
不換紙幣価値の下落回復の共同作戦展開。
松方デフレと対抗。
国家経済とともにある自分を学ぶ。
天命と知る。
デフレとインフレの差益で20億円を儲ける。

吐血。これも天命か。


☆熱海

結核療養の為熱海を勧められた。
小田原から一日がかり人力車でようやく到着。
豊富な温泉、箱根の山の幸、相模湾の海の幸、冬暖かく夏涼しい、このような理想的な保養地良いところに人が来ない。
鉄道を整備すればここは絶対発展する。
病の中で逞しい商売根性を維持していた。
湯宿はまだ25軒だった、




結核の闘病経験から相場のように金儲けに一喜一憂する自分を反省する機会になった。
地道に、人の為になる、国家を考えるようになった。

☆軽井沢

明治16年軽井沢の開墾地を購入。
火山灰の不毛の土地と言われていた。
雨敬の勘である。ここを開発することが人の為になる。
約1100町歩(ヘクタール)を2千円で買った、長野県一の土地持ちに。



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大正10年11月25日
摂政宮(昭和天皇)御就任

11年8月3日
朝香宮 雨宮別荘に避暑来軽

12年8月1日
軽井沢町 町制施行



貯蓄を始めた。落葉樹林の貯蓄を。
700万本の素晴らしい樹林が実現。
軽井沢の成沢地区は雨宮新田、雨宮村と呼ばれた。
現在の軽井沢の景観が彼によって作られたのだ。
明治24年藍綬褒章第1号になった。
軽井沢の開墾開発の国家的貢献が認めれた。


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軽井沢の歴史-06
 高原野菜をはじめとする農耕文化から芸術文化や教育文化に至るまで、外国人や文化人避暑客から伝播した文化が卓越していることが、軽井沢の特色です。わが国の高冷地における高原野菜の栽培は、軽井沢高原で始められました。

 ここでは、明治18年(1885)雨宮敬次郎が拓いた雨宮新田で初めてキャベツが栽培されたといわれています。さらに明治26年(1893)、避暑に来ていた外国人の注文によって、常時キャベツを栽培するようになりました。


カラマツは、日本に字税している唯一の『落葉針葉樹』です。
漢字では「落葉松」とも書きます。 

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町内のほとんどのカラマツが、植樹されたものなのです。
元々、天明の浅間大噴火後の草原の軽井沢に、1883年頃より雨宮敬次郎氏が
軽井沢の開発事業・植樹を始めます。
いまや住宅建材も輸入材に随分頼り、植樹のカラマツは間伐されることもなく
細く長く成長しきってしまっている姿を良く目にします



新しい明治国家創造、新しい文明、鉄道だった。

国内に蓄積されていた多くの資本が鉄道事業に向った。
西南戦争は貴重な教訓を明治政府に与えた。
兵力の輸送である。
兵站の重要性を認識させた。
殖産興業と同時に軍事上鉄道網の整備が緊急の大課題になった。

明治22年東京八王子間の甲武鉄道に力を入れた→故郷山梨県甲府まで延伸を念願した。
明治24年川越鉄道開業

伊藤は言った「甲府まで国の金で鉄道を通す、雨敬の力を貸してくれ」「山梨の県民は涙を永し喜ぶでしょう、もちろん全力で無償で協力します」
伊藤は唸った「持つべきものは友人だな」

明治25年鉄道敷設法交付、国鉄の誕生である。
その筆頭に中央線があった。
明治36年6月11日新宿甲府間がついに開通。
笹子トンネル工事には6年掛かった。

完成の祝いに雨敬は伊藤博文と山縣有朋に記念の額を書いてもらった


伊藤は「因地利」山縣は「代天工」と記した。
二人とも山梨の人雨宮敬次郎あってこそ笹子トンネルは貫通し甲府まで中央線が開通できた、雨敬のおかげだ…東京まで2日3晩掛かったがこれで6時間!


雨敬と同じ甲州の巨人若尾逸平に同郷根津嘉一郎が言われた「金儲けなら発明か株だ、発明は学問がなければならないが、株は運と気合だ」
「株なら将来性ある乗り物か明かりだ」
根津に雨宮は言った「相場は一時の利益の話、男子たるもの事業を興し、事業を守り立て国家に貢献する、これが男子の本懐だ」

根津は後に事業を起こし鉄道王四呼ばれる。
日本で始めて電灯を灯した東京電灯の甲州財閥支配を若尾は策した。
熱海への鉄道…豆相人車鉄道25キロ公道を利用安価に。
明治29年3月開業。小田原熱海3時間。

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熱海の人びとの待望が実現、明治40年機関車が轢く軽便鉄道に。
時間30分に短縮。熱海鉄道株式会社。

●大正14年国鉄熱海線開通、昭和9年丹那トンネル開通東海道本線二昇格。熱海黄金時代が到来。

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●江ノ電も鎌倉まで延長させた。

●鶴見に10万坪を雨敬は購入し曹洞宗総持寺に寄付、能登から鶴見に移した。勧請。



惚れるのは3つだ、1、妻に惚れろ、2つ、家に惚れろ、3つ。事業に惚れろ。

明治44年1月20日雨宮啓次郎永眠。享年65歳。
墓は軽井沢に建てられていた。
菊島本家→雨宮惣右衛門→敬次郎、長男彦太郎の長女ゆわが雨宮を相続。

敬次郎妻のぶの本家は市村家。
のぶの弟藤吉が軽井沢を守り育てた。
甲州の広瀬家からてるの婿に亘がいるが大正4年没。

言葉…
世の為人の為。先の先、後の先、列強の後から行って先をとった、日露の勝利。
戦後先の先を日本が成すが中国韓国が後の先をとった。
後の先は有利なのだ。

軽井沢の墓の他塩山市の雨宮橋、熱海梅園の中に偉業を讃える碑が建立されている。

 制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄

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