筑豊炭鉱を支えた女性炭鉱婦…誠実で勤勉、堅実で、繊細、優良な女性大軍団が石炭エネルギーを燃え支えた

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岩波書店発行 山本作兵衛著 筑豊炭鉱絵物語 371ページ  圧巻の炭坑絵227枚


日本初のユネスコ世界記憶遺産に登録されたのは2011年山本作兵衛の炭鉱記録画である。
炭鉱労働者として実践の目で当時の炭鉱社会を克明に描き切り、子細な事柄まで正確に文章で記録した事実に国連教育科学文化機関ユネスコは世界記憶遺産として登録したのだ。

ベートーベン第九交響曲草稿やフランス人権宣言とともに日本人で初めて登録された快挙。
山本は必死に働きながらこの現場を残したいと思い残した絵画が世界に認められたのだ。
 世界記憶遺産に登録された原画は、田川市石炭・歴史博物館に保存されている。

衝撃的なこの本の 最初のカラー挿絵は地底坑内で二人が掘っている絵だが、男女なのである。
説明に低層炭は寝そべって掘ると書かれ、男性女性とも上半身裸で石炭を掘り出している。

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カラー3枚目の絵は1撰炭機に取りつく女性陣撰炭婦9名の絵。
掘り出された石炭が鉄パンのベルトコンベア方式で流れてくるのを両側に囲んだ撰炭婦が両手使って洗っている。

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白黒挿絵になるとまず半分の絵に坑内で様々な肉体労働に精出す女性の姿があった。
3枚目では子供を背負った母親が坑内に入っていく姿。
説明に午前0時入坑はザラとある。
道具と弁当を抱えて夫の末坑内現場に赴く。
子供を他人に預けると一日10銭で大変、託児所もないので子ども連れとなる。
従って子供は学校を長期欠席。

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22枚目23枚目では坑道の天井や壁が緩んできて危険なため、夫婦で懸命に修理する絵がある。
間枠を入れ補強している。
背に低い女性なので足元を大きな石で支え踏ん張っている絵。
成木を懸命に運ぶ女性の絵。




そしてついに第2章は「ヤマの女」特集

炭坑での女性労働の現場報告 勇婦19枚に感嘆。
NO35、36など
バラスラと呼ぶ竹製の篭に一杯石炭を入れ地上まで運び出す女性の姿。
傾斜17度の坂を積載250キロ運び上げる作業、男でも力が必要だが女性の方が巧みに操っている。


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NO50  坑内作業を無事終え帰宅。
男は入浴後さっそく大酒。
しかし女性はここから食事、洗濯、育児と大変。筑豊炭坑ならどこの家庭である胡坐かき酒飲み男と働く続ける女性のシーン、棟割長屋の家庭の絵。


三井書房  永末十四雄著  筑豊万華 237ページは筑豊炭鉱産業の労働力供給面から女性労働を分析している。


労働力供給
福岡県全域、九州、四国、中国全域にわたる。九州内では大分、熊本、佐賀が中心で南九州は少なかった。
その他広島坑夫と言われるほど広島県人が多かった

女性労働力 女性の坑夫も歓迎された。
勤勉、誠実、節約、堅実、炭坑により4割、明治41年筑豊主要25炭坑で女性比率31%だった。
北海道、高島を除く全日本炭鉱でもほぼ同率だった。

石炭を採掘する先山、運搬する後山それぞれ家族、兄弟など身内で組を形成した。
一千と呼んだ。いつさき
落盤など大災害の死亡事故で家族身内全滅が名簿に見られ過半数を超えていた。



大発展する筑豊

筑豊の急速な発展拡張の景気は日清戦争である。
出炭量は明治25年 100万トンの大台に乗った。
明治27年200万トン、30年には300万トンと急成長。
全国出炭量の62%を占めるようになる。
鉄道会社設立、鉄道網開通、港湾整備、水運と陸運が瞬く間に構築され、八幡製鉄所なども誘致された。
地縁に結びついていた土俗的体質の炭鉱主に変わり、中央資本が進出、地場鉱主を圧倒した。


同じ世界遺産でも高島の分析…

官営高島炭坑では、囚徒を使用していたが後藤象二郎、岩崎弥太郎に譲渡される過程で納屋頭を雇い入れ、坑夫募集と取締りに当たらせた。
納屋頭は誘拐同様の手段で募集し,離島の炭坑に暴力的に監禁、過酷な圧政を加え搾取した。
囚人労働と変わらぬ状態が続いた。
明治21年5月松岡好一により雑誌日本人に「高島炭坑の惨状」が発表された。
世論は沸騰し政府は警保局長を高島に派遣「納屋」制度改善を勧告した。

納屋頭制度
経営側の必要とする労働力を納屋頭が供給する「労働力供給請負契約」を締結し、実際の現場での労働指揮、納屋経営の任に当たる労務供給に関する中間請負制度。

潤野炭坑
明治19年1886年8月、穂波群潤野に採炭と販売目的の「日本石炭会社」設立、資本金300,000円
社長吉田千足、取締役に広岡信五郎、三野村利助
後に高雄炭坑とともに官営の二瀬炭坑になった。



三菱高島炭鉱へと戦時期に多数の朝鮮人が連行された。
高島は長崎港から約一四・五キロメートル先にあり、端島はさらに五キロメートル沖にある。
端島から南の野母半島までの距離も五キロメートルほどある。逃亡は困難だった。
連行された人々にとってそこは「圧政のヤマ」「生きて帰れぬ地獄島」であった。

端島は「軍艦島」の名でも知られる。桟橋近くに残る門は「地獄門」とも呼ばれ、周囲の高い堤防は逃亡を止める壁の役割もはたしていた。
端島坑は1974年に、高島炭鉱は1986年に閉山となった。
高島の炭鉱施設の多くが破壊された。
端島は現在無人島である。

2002年、端島の所有権は三菱から高島町へと移った。
 高島炭鉱への朝鮮人連行については、市民団体の1984年調査の結果、端島坑での死亡者に関する「火葬認許証下附申請書」が発見され、死亡状況の一端が明らかになった。


 高島では18世紀はじめから石炭が採掘されたという。
高島沖にある端島では19世紀はじめから石炭が採掘された。
高島炭鉱の開発は日本の資本主義とともにすすんだ。
1868年には佐賀藩とグラバー商会によって経営されるようになり、1874年には官営とされ、すぐに後藤象二郎に払い下げられた。
三菱は1881年に高島を、1890年には端島を経営するようになった。
これらの島々の海底の厚い炭層から産出される石炭はその質が良く、高島炭鉱は三菱の代表的な炭鉱へと成長していった。
三菱は長崎での造船にみられるように日本の軍需産業として成長していくが、石炭はその生産を支える動力源となった。

 高島では多くの労働者が生命を失っている。
三菱経営後の1885年にはコレラが流行し、561人が死亡(この年の死者は844人に及ぶ)、1906年の高島蛎瀬坑の事故では307人が死亡した

三菱経営以後、敗戦までの労災や病気による死亡者は一千人をこえる。開発のために高島の大地を掘ると人骨が出ることもあるという。このころの高島での死者を追悼する碑が、「三菱炭礦時代法界萬霊塔」(一八九二年)、「蛎瀬礦罹災者招魂碑」(一九〇六年)、千人塚の「供養塔」(一九二〇年)の形で残されている。しかし、死亡者の名前は現地で明示されてはいない


制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄

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