蘇る真の女傑 広岡浅子物語

蘇る真の女傑 広岡浅子物語

京都三井家編

商売上手は1、才覚、2、算用、3に始末である。
浅子には三井殊法大姉の血が流れている。
殊法様は始末、締めくくりに徹して生きた。
一切の無駄を省いて節約をした。
浅子に父高益が教えたのは一つのことに徹する大切さである。

大阪加賀屋編

嫁に入った加賀屋の舅は「商人の家に、おとなしいだけの女はいらん、根性と才覚のある御寮はんになっておくれ」と浅子に期待した。
…大阪商人が大阪城に集められた。
既に三井家は倒幕側に賭けることを決めていた。徳川に見切りをつけていた。
浅子は情報としては三井から聞いていたが、まだ加賀屋を徳川か否か決めかねていた。判断出来なかった。
しかし徳川方の諸藩に大量の貸し付けをしていたのは事実であった。
死活のかかった選択…慶応4年、江戸は東京とされた。
その東京に浅子は借金のあいさつ回りをするため出発した…


潮出版発行  古川智映子著「土佐堀川…女性実業家広岡浅子の生涯」


制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄



新しい時代が始まった。
三井家は新政府の信用を得て大きくなった。日本経済の中心に位置するようになった。
大変動期の日本経済の真ん中で、浅子は加賀屋の行方に模索を続けた。
浅子は「バンク」という言葉、「両替」ということに興味を惹かれた。
何ごとも積極的に取り掛からねばならないと覚悟していた。
新しい産業として石炭が頭から離れなくなった。


九州筑豊編

大阪の加賀屋の広岡どす。
この炭鉱をやらせてもらうことになりました。
蒸気機関車は石炭が必要だ。
石炭が文明の利器を動かすのどす。
どうしても石炭が必要です。
石炭を掘るのは皆さんです。

皆さんがあって加賀屋があります。
女かて立派な仕事をする者もいる。
馬鹿にしたら許さない。
掘ってくれたら必ず売れる。
賃金が入ります。
外国では男女平等だ。
必ず将来日本もそうなる。
お互い助け合ってええ世の中作るのや。

烈々とした気迫がこもっていた。
浅子はピストルの銃口を飯場主に向けた。
石炭を掘るのは確かに加賀屋の為だ。
しかし国益のためでもある。
日本の発展が皆の方に掛かっているのだ。
このピストルは他人を撃つためのものでない。
大阪を出る時私は死ぬ覚悟をしてきた…銃口を浅子は自分の喉に当てた。
こげん思いつめとるとは知らなかった、どうだみなやるか飯場主の呼びかけに
炭鉱杭夫たちは親分の言うとおりにする明日から働くと誰も異議を唱えなかった。



大阪土佐堀川編

土佐堀川沿いに散歩しながら石炭が頭から離れない浅子だったが、そしてもう一つ商いで儲けた利益は出来るだけ社会に還元したい、それにはバンクだ、銀行設立に向け研究と準備を進めたいとの念願が高じてきていた。

鉱山の規模は3倍になっていた。
出炭量は5倍に跳ね上がった。
念願の加島銀行の設立。

渋沢栄一に浅子は会った。
単刀直入に加島屋さん「銀行にとって一番欲しくて大切なものは何だと思いますか?」と渋沢は浅子に言った。
浅子は「それはお金でしょう」
渋沢「それは逆です、お金は要らないのですよ」「一番大切なのは信用です」
信用があればお金は自然と人が運んできます」「信用は経営内容の充実から生まれます」「お金は扱う人の器量の大きさに従うものなのです」
浅子は渋沢から経営の根幹を教わった、これからは自分を大きくしていくのだ」
渋沢は測りきれない度量と深さを秘めていると浅子は感嘆した。本物の人間の器を見た。
明治21年加島銀行創立。場所は土佐堀川河畔両替商加島屋跡にした。
銀行と加島商店と九州の加島炭鉱と朝子は跳ぶ多忙さだった。
銀行の行員に積極的に女性を採用した。
採用面接で「どんな苦労があっても根性を出してついてきてくれるか」をポイントにした。気分だけで職業婦人に憧れてきた女子はここで篩にかけられた。
浅子は福沢諭吉の本を読み漁った。
福沢の慶応義塾について自分も女性の啓発の機会を持ってみたいと考えるようになった


東京目白編

目白には浅子実家三井家の別荘がある。ここに建てよう。
浅子の女子大学構想に三井10家は賛同した。
本邦初の女子高等教育機関日本女子大学校は明治34年4月開校した。
設立功労者広岡浅子は評議員になった。

設立に向けた第1回発起人会が帝国ホテルで行われた。
副総理兼外務大臣大隈重信が金本位制を例えに女子啓発の重要性を機知とユーモアに富む挨拶をした。
浅子の談判に大隈は言ったのだった。

「早稲田は広く天下の大衆に募金をする。女子大は財界有力者がよろしかろう、その方が成功率が高い」浅子は大隈の偉大さに打たれた。
大隈は浅子を天性偉大な広岡夫人と形容して称賛した。
当初「新淀川」「淀川」だった呼び分けは、次第に「淀川」「旧淀川」となったが、旧淀川は上述の区間ごとの名称で呼ばれることが多い


※土佐堀川

中之島より上流が大川、または天満川、下流が安治川と呼ばれる。
中之島では南北両岸に分かれ、北が堂島川、南が土佐堀川(とさぼりがわ)と呼ばれる。なお、河川調書では土佐堀川は別河川扱いとなる。

都島区毛馬町で淀川(新淀川)より分岐して南流、川崎橋をくぐると西流に転じ、東からは寝屋川が合流、天神橋の直前で、中之島の北へ堂島川、南へ土佐堀川となって分岐する。
土佐堀川は堂島川との分岐後すぐに南へ東横堀川を分岐、端建蔵橋の直前で南へ木津川を分岐する。
かつては錦橋の直前で南へ西横堀川も分岐していたが、1962年(昭和37年)に阪神高速1号環状線の建設のために埋め立てられた。

中之島より下流には、かつて淀川河口に蓋をするように九条島が横たわっていたが、1684年(貞享元年)に河村瑞賢が水運と治水のために現在のような直線状に開削し、安治川と命名。
九条島は分断され、安治川右岸側は西九条と呼ばれるようになった。
沿岸の三角州には江戸時代半ば以降新田が作られたが、明治以降工業地帯へと変わっていった。

大阪中之島 小異を捨て大同につく編

中之島公会堂で浅子は講演をすることになった。
講演要旨
◎成功の秘訣は、活力である。その人のどのくらい活力があるか。成功者は人の何倍も活力を持っている。
◎真我と小我=大局を忘れがち、普遍的審理がある。これが真我。真我を目指すとき行き詰まりはなくなる。

講演の帰途暴漢に襲われる。
危篤。
8日目に生き返る。
九死に一生を得たことから生命保険事業に開眼。小異を捨て大同につくから新社名は大同生命創立へ。

加島炭鉱、加島銀行、広岡商店、大同生命、尼崎紡績…正に9転10起の人生。

1919年(大正8年)1月14日、東京にて死去。享年70歳。

>;「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、遺言を残さなかった。
日本女子大学では同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催した。
同大の同窓会機関紙「家庭週報」(第524号)に当日の詳報が載っている。
浅子とともに評議員をつとめた大隈重信が追悼を述べた。
「天性偉大な廣岡夫人」と題する長文で、「男子も及ばぬ多大な力を発揮した。
その精神と人格は永久に生きていくことを信じる」としている。
浅子の逝去を報じた新聞各紙に「男優りの女傑」「女傑伝中の第一人者」という見出しが躍っている。
葬儀は21日に東京・神田青年会館で、23日に大阪市西区土佐堀青年会館で行われた。
 浅子が逝って約100年。
9月28日スタートの次回NHKの連続テレビ小説「あさが来た」で浅子がこの秋よみがえる。



※ 今回は筑豊炭鉱女性経営者の物語でしたが、炭鉱の実態、地底の修羅場では驚くべきことに女性の大活躍があった。男女平等は既に筑豊の修羅場に実現していたのだ。次回ブログはこれをテーマに発信予定…

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