米国軍部は大日本帝国軍都平塚に標準を定めた…本土上陸侵攻作戦の占領拠点に御林跡地を使え

第4幕  米国軍部は大日本帝国軍都平塚に標準を定めた…火薬とロケットを繋げさせるな、本土上陸作戦の拠点に御林を…


◆昭和20年3月10日東京大空襲 ↓投下爆弾 38万1,300発 
◆昭和20年7月16日平塚大空襲 ↓投下爆弾 44万7,716発


平塚市~大野町にかけての広大な土地に海軍火薬廠(現在の横浜ゴム平塚製造所)があったほか、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場(現在の平塚競輪場周辺)、第二海軍航空廠補給部平塚補給工場(現在のJT平塚工場周辺)、日本国際航空工業(現在の日産車体本社工場・第一地区周辺)などの戦争遂行に不可欠な軍需工場が多く存在していた。

アメリカ軍はこれらを破壊すべく空襲の主要目標都市として平塚をリストアップしていた。
軍都平塚の徹底的殲滅と、更に極秘にその中心点をピンポント温存させる計画が進められていたのだ。何故?


米軍は、平塚を大規模空襲するために、昭和20年の4月頃からその検討に入り、5月3日の段階で、その作業をほぼ終え、火薬廠及び日本国際航空工業について、報告書をまとめていた。以下はその報告書である


平塚海軍火薬廠

その重要性について:この標的は横須賀海軍軍需工場および兵器製作所の支部にあたる。
また、日本海軍軍需工場の1ヶ所で、爆弾開発の中心施設の一つである。

また、最も確かなこととして、昭和19年12月13日の偵察飛行によって、既に報告されていたBAKAのためのロケットの火薬を製造していること。
米軍は、この「BAKA」を「ロケット噴射推進式で操縦する自滅型航空機」と呼び、日本名は、特攻機「桜花」

そのほかの製造物としては、ダブルベース火薬、二卜ログリセリンの中規模工場(第七工場のこと)、黒色火薬や信管・雷管・爆弾および、恐らく砲弾も収納していること。
爆弾や機雷の容器の鋳造や鍛冶あるいは、小さな船舶用エンジンの組立および修理のための小規模工場もあること。軍用品および爆薬の貯蔵庫もあるとしていたのです


日本国際航空工業 平塚工場

その重要性について:火薬廠同様まず一番に、特攻機「桜花」に関する記述があります。

ここは、自滅型ロケット航空機を作っていると報告されている二つの会社の内、最重要工場であり、これらの航空機の部品の生産もしくは航空機の組立がおこなわれていること。

また、輸送機・訓練機、そのほかの航空機用のさまざまな大きさの機体が作られていること。
さらに、フランク(疾風の米軍愛称)用の可変プロペラの生産を行い、日本で3番目に重要なプロペラ製作所であると日本国際航空工業(以下「日国」と略称)を見ていました。

そして、さらに日国内の生産の流れについても記しています。
工場を南から北へ見ていくと南東の隅に倉庫建物があり、次の北および西に小さな製作場があり、そこでは、恐らくプロペラかロケット式航空機の小さな部品を作っていること。

敷地の中心に3棟の大きな建物があり、恐らく、機体の製作と北端の高屑になっている場所では、組立作業も行っていると思われること。
主敷地の西側に沿って2棟の大きな建物があり、あるいは機体や他の製作物用の組立ラインがあるのかも知れないこと。
敷地の北端の大きな建物は、1944年12月13日と1945年2月11日の間に屋根に天窓が付けられたこと。
その東には実験室と思われるものがあること。

そして、そこではハブ(プロペラの中心の円筒形の部分)とプロペラの最終組立かロケット式航空機の部品の改良(調整)をしているかも知れないこと。

組立を終わった機体は屋外の空き地に置かれ、その大半は輸送機タイレア(日本名不明、昭利20年2月11日の偵察飛行では、このタイレアが128機、工場及び隣接区域見えると報告されている)に使用されているようだが、他のさまざまな大きさの飛行機もあること。
翼の組立が見えないのは、恐らく、自滅型ロケット式航空機を除いて、ここでは組立が行われていないことを示唆していることなどが記載されていた。

 また、迫加情報に、日国によって製作されている航空機は、8種類あったこと。
日国が作っている自滅型ロケット式航空機を製作している工場が、大船(富士航空工業大船工場)にもあることなどでした。

この海軍火薬廠、日本国際航空工業の2工場の製作物に関して共通する点は、自滅型ロケット式航空機とあり、「BAKA」とあだなされた「桜花」の記述があることです。
火薬廠で推進火薬を製造し、日本国際航空工業で機体を製作・組立ていたことが、平塚が空襲を受ける直接的な理由の一つとなったのでした。


平塚空襲とは一般的に1945年7月16日から17日日にかけて行われた攻撃をさす場合が多いが、同年2月16~17日、7月30日にも空襲があり死傷者が出ている。

7月16日の空襲の経過

16日夜、マリアナ基地を発進したB29爆撃機138機の編隊が伊豆半島方面より侵入。
花水川河口へ照明弾が投下される。
その後、22時30分の空襲警報発令と同時に焼夷弾が投下され始める。
大磯駅周辺や高麗山、相模川対岸の茅ヶ崎など旧市の外周部より投下が始まり、次第に第二海軍火薬廠などのある旧市中心部へと攻撃が移る。
空襲は翌17日午前0時35分まで続いた。


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空襲の被害

死者数は調査により異なり228名(米国戦略爆撃調査団報告)、237名(神奈川県警調べ)、343人(平塚市調査)などの数字がある。
当時の市域10,419戸中の約8,000戸が消失した。
投下された
焼夷弾447,716本、1,173トンは一夜に投下された量としては八王子空襲に次ぎ国内2番目の多さと言われる。

日本本土空襲の規模で何故平塚と八王子が群を抜き大規模だったか。
火薬廠があったからよりも真実の目的が別にあった…だから東京空襲より平塚空襲はすさまじかった。
平塚空襲が「大空襲」と呼ばれるのは、落とされた爆弾の量が東京空襲より多かったためである。
東京空襲が焼夷弾38万本だったのに対し、平塚は焼夷弾447,716本・総トン数1,173トンで単位面積当たりの爆撃量は日本最大。
焼夷弾は市民一人当たり8.2本となる。

米軍の爆撃方法にはカーペット・アタックとスクリュー・アタックがあり平塚は後者の爆撃方法だった。
これは目標爆弾を中心点に落とし、それを芯に時計回りに爆撃してゆくと火のカーテンが何重にもでき、中に挟まれた人間は酸欠と高温で死ぬはずだというものだ。

明らかに一般市民を無差別に殺戮する爆撃で、ジュネーブ協定(1899年・ハーグ陸戦条約で一般市民への無差別爆撃を禁止)違反である。

米軍は偵察飛行により、建物で囲まれた平塚の攻撃面積を6平方キロと見積もっていました。
このうち、3.7平方キロの広さが市街地、2.3平方キロの広さが工業地区としています。
そして攻撃の結果、破壊した市街地は2.1平方キロで全市街地面積の57パーセント、工業地区はO.5平方キロで全工業地区面積の23.4パーセントにあたるとしており、攻撃面積の44.2パーセントを破壊し尽くしたとしています

本土決戦対米軍上陸侵攻作戦

昭和19年7月、アメリカ軍は日本本土侵攻への重要な足掛かりを掴んだマリアナ諸島を占領するとすぐに、「日本本土上陸侵攻作戦」の本格的な研究を開始します。

そして、翌20年5月に九州上陸侵攻作戦と関東上陸侵攻作戦の両作戦が正式に決定承認されます。
この両作戦のうち、関東上陸侵攻作戦は、暗号名"コロネット"と呼ばれました。
この作戦の上陸地点は、湘南海岸と九十九里海岸であるといわれます。
湘南海岸については、具体的な上陸地を茅ヶ崎海岸として、西側面平塚側の防備に相模川を利用し、北上侵攻することになっていました。

同年8月12日に"ブラックリスト作戦"を開始します。
この作戦では、戦後平塚に進駐し、神奈川県西部を占領・統治するための師団司令部設置予定地に火薬廠を想定していました。


平塚空襲の目的はワシントン公文書館公開文書によれば、

①平塚は米軍の本土上陸作戦の上陸地点であったこと

沖縄上陸作戦でのあまりの米兵死者の反省から、上陸作戦は上陸地点の一切の建物を消滅し、狙撃兵の遮蔽物を破壊消滅しておくこと

③それでも生き残った日本人はサリンで全滅させる

④作戦は平塚に上陸したあと、一直線に八王子に北進。(平塚大空襲と八王子の空襲はそれでリンクしている。
八王子大空襲は昭和20年8月2日未明、B-29爆撃機170機により焼夷弾67万発投下、市街地の8割が消失、住民450名死亡)八王子から右折して中央線に沿って都内に侵入するというものだった。

⑤  平塚空襲の目的は海軍火薬廠の破壊ではなく、米軍上陸地点の構築が目的であった。

平塚空襲被害者46名の証言録「硝煙の街平塚」から

▽大久保サキさん著「焼野原の8月24日」文中に「…でも、住民の被害に比べて火薬廠はごくわずかといえるほどのものでした。いったい何のための空襲だったのでしょうか…」

▲尾崎仁三郎さんの著「無惨な夜明け」文中「平塚は壊滅したといえるでしょう、なのに火薬廠の被害や犠牲者はわずかに過ぎませんでした」

▼古谷次郎さんの著「幻の花火大会」文中「火薬廠内の破壊、損失は予想に反し不思議なくらい小さかった。諸施設の相当数は消失をまぬがれたのであった。B29の大群がことごとくが火薬廠の目標を誤認したのだろうか。いやけっしてそうではない。彼らは眼下の火薬廠を正確に見定めて、あえてその地点を冷静に避けつつ周辺に焼夷弾を大量に投下した」

等々、焼夷弾地獄の街で火薬廠がなんら空襲に襲われてない事実に市民が気がついていたことが分かる記述が見える。何人もが報告しているのだ。

▼早野市三さんは当時火薬廠勤務をされてました。早野さんの著「焦土に立ちて」には「官舎から火薬廠までわずか300メートルの距離がいかんせん進めない。緑したたる松林が紅蓮の炎、これをようやく突破、西門にたどりついた。守衛に報告では今のところ廠内に大きな被害は出ていないとのこと。戦争遂行に最も重要な火薬製造施設が爆破されていないのは天佑ではあるまいか。さしたる被害がないことを火薬廠防空本部の人々と喜び合った。…空襲後直ちに従業員家族に小麦粉など食料を配布した。平塚駅長さんから駅が焼失したので復旧させたい、廃材でもよいのでいただけないかとの申し出があり、総務部長と相談し許可をもらい火薬箱製造用の厚い杉板を支給の緊急措置をした、ほどなく駅とブリッジが出来上がり戦災の中を明るさが蘇った…

■この証言集ではないがブログ氏は実際に空襲に合った方が空襲の生の記憶を語る会において「親からバラックをつくるからお前は火薬廠で木を貰って来るよう言われ火薬廠に来るともう既に何人も並んで木材を支給してもらっており中には子供を抱いた母親が大工道具なども支給され涙を流して喜んでいた記憶」を語っていた 悲劇の大空襲から市民が立ち直るべく火薬廠がいち早く復旧復興に寄与していたことが良く分かる。

▽もちろん火薬廠がまったく無傷だったわけではない。火薬廠勤務で当夜宿直だった青柳信明さん著「消火作業に奮迅す」によれば「第4工場の仕上げ場だけで焼夷弾が30数発確認された。ジーゼル発電機が危ないと雨あられの焼夷弾の降り注ぐ中、水槽に何回も飛び込み5人でバケツリレーの消火作業に取り組んだ。発電機が焼失したら廠全体の機能が停止する。空襲の終わった後もなお身も心もくたくたになりながら消火作業を続けた…の記載が見られ、特に焼夷弾を落とす前、燃えやすくするため得体のしれない油脂状の物体が投下されていた、この油脂状のものは消しても消しても発火したことなど米軍の恐ろしい仕掛けが述べられている。

…推測だが、これらにより工場の木造建築物部分は被災したが、火薬廠の頑丈な鉄筋コンクリート建築部分はこれらをはねかえしそれで被害が少なかったこともあったのではないか?しずれにしろ…


これらから⇒平塚は火薬廠があったから大空襲に襲われたのではなく、火薬廠を避け市民が暮らす市街を虫1匹残らず殲滅する激しい殲滅行為が行われたのだ。
これは何を意味するのか↓

日本本土上陸作戦コロネット


関東地方へ上陸する作戦である。
上陸予定日はYデーと呼ばれ、1946年3月1日が予定されていた。
コロネット作戦は洋上予備も含めると25個師団が参加する作戦であり、それまでで最大の上陸作戦となる予定であった。

上陸地点は湘南海岸(相模川沿いを中心に北進し、現相模原市・町田市域辺りより進路を東京都区部へ進行する計画予定)と九十九里浜から鹿島灘沿岸にかけての砂浜海岸が設定され、首都を挟撃することが予定されていた。
湘南海岸には第8軍、九十九里浜には第1軍が割り当てられていた。

第8軍 ブラックリスト作戦
この作戦では、戦後平塚に進駐し、神奈川県西部を占領・統治するための師団司令部設置予定地に火薬廠を想定していました。


Yデーの3ヶ月前から艦砲射撃と空襲によって大規模な破壊を行ない、攻撃の中にはミサイル、ジェット戦闘機、化学兵器の使用も含まれていた。
1946年3月に関東平野の南東と南西から上陸する連合軍は、古典的な挟撃作戦によって約10日で東京を包囲する。
計画では湘南海岸に30万人、九十九里海岸に24万人、予備兵力合わせて107万人の兵士と1,900機の航空機というノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ規模の兵力が投入される予定であった

両軍共に当作戦に備えて数々の新兵器を準備しており、アメリカ軍側はF8Fベアキャット、ジェット戦闘機P-80シューティングスター、重戦車M26パーシングを生産し、イギリス軍は最新鋭のジェット戦闘機グロスター ミーティアを、日本側も特攻兵器を主軸としつつジェット戦闘機橘花改、戦闘機烈風、試作局地戦闘機震電、ロケット戦闘機秋水、五式中戦車などの開発を急いだ。

この作戦計画については、米軍統合参謀本部内で意見の対立があった。
統合参謀本部議長のレーヒ元帥は、「すでに壊滅している日本に対し作戦を遂行する必要なし」として中止を提案。海軍作戦本部長キング元帥も、「地上兵力投入による本土侵攻より海上封鎖が有効」と主張。
陸軍航空隊総司令官アーノルド元帥も「本土への戦略爆撃と海上封鎖が有効」と言う慎重論が出た。
彼らがこのような主張をしたのは、日本軍との各諸島での戦闘、とりわけ硫黄島や沖縄戦での損害の大きさに、本土戦での犠牲者の数を懸念したためである。

それに対し、「本土侵攻による大戦の早期終結を」と主張するマッカーサー元帥や、陸軍参謀総長マーシャル元帥と太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥がこの計画を支持した。最終的に作戦は承認され、マッカーサーに対して作戦準備指令が下っている。

ダウンフォール作戦全体の連合軍側の損害予測として、レーヒは死傷者約27万人、マッカーサーはフィリピン戦などの経験に基づき死傷者約5万人と見積もっていた。

作戦中止

ルーズベルト大統領の死去に伴い、跡を継いだトルーマン大統領は、ポツダムでの会議中に原爆実験の成功の報を聞き、ソ連の日本参戦を阻止するため、そして日本をソ連の助力なしに英米のみで屈服させることが可能になったことから作戦中止を決定する。


幻の第5幕  本土決戦に日本軍は勝利していた
 

本土決戦では日本は必ず勝つとすべての陸海軍参謀は確信していた。
一方、アメリカ軍上陸攻撃隊司令官は戦後日本軍の陣立てを見て驚嘆し「米軍は上陸に3回失敗しただろう。
上陸に3回失敗すれば米軍の戦力はほとんど消耗し、戦争はベトナム戦と同様な状態となり、アメリカ国内で戦争反対の世論が起こりベトナム戦で米軍が負けたと同じく米軍は日本から敗退せざるを得ない。
もはや戦えないので日本に和睦(降伏)を申し出るしかなかったであろう」と述べている。

 ポツダム宣言を発した米国大統領トルーマンは、急死したルーズベルトから戦争を引き継いだとき「日本の国土の平野は僅か14%しかなく大部分は山林等であり、攻めるのが非常に困難な地形である。
しかも廻りは海で近づきにくい「不沈空母」である。
地形のみならず無傷の750万の世界最強(マッカーサーが議会で証言)の日本陸軍が本土と東南アジアに展開し、この敵とどう戦いどうやって打破する事が出来るか見当もつかない。」と溜息して日記に書いている。


第6幕   米軍占領⇒国家的親米への大転換

 米軍の日本占領計画にWGIP計画というオペレーションがあった。
これは War Guilt Information Plan といい、直訳すれば「戦争の罪を日本人に教え込む教育」というものだった。
計画はスタンフォード大学教授 アーネスト・ヒルガード(1904~2001)とミルトン・エリクソン博士が指導した。
知られていないが、二人は20世紀を代表する催眠と洗脳の専門家で、日本人に対しこの戦争のすべての悲劇(広島・長崎を含めて)の原因と罪が、日本人にあることを教育・洗脳するため壮大な「洗脳教育」を実施した。

文春文庫 慶応大学 江藤淳著「閉ざされた言語空間・占領軍の検閲と戦後日本」…

先の大戦の終結後、日本はアメリカの軍隊によって占領された。
そしてアメリカは、占領下日本での検閲を周到に準備し、実行した。
それは日本の思想と文化とを殲滅するためだった。
検閲がもたらしたものは、日本人の自己破滅による新しいタブーの自己増殖である。

 WGIP 計画では、平塚大空襲の責任は「海軍火薬廠などをつくった君たちにあるんだよ」ということを平塚市民に教え込み「サリン散布」関東・大上陸作戦などに平塚市民の目を向かわせないようにすることにあった。

戦後六十年たっても、市民のほとんどが平塚大空襲は海軍火薬廠のせいだったと思い込んでいるのだから、計画は成功したと言えよう。
朝から晩までアメリカ音楽が流れ、ほとんどの日本人がアメリカを大好きになった今、WGIP 計画は大成功したといえよう。



…昭和20年8月15日 終戦

未曽有の終戦という事態に各地では混乱も起こったが、火薬廠は平穏に事が進んだ。
女子挺身隊や学徒隊は直ちに解散。
徴用工員も解除された。
従業員も残務整理を命じられた者以外は速やかの新しい職を求めて行った。
残っていた者も12月1日には全員が廠を去った。

ここに火薬廠は永久消滅したのである。
明治38年日本火薬製造所平塚工場創設から海軍火薬廠へ40年の歴史であった。

徳川家康が中原御殿、御林を設置した江戸時代から、明治維新を経て、大正、昭和、平成と続く新国家創設と動乱の歴史の中で、平塚の街づくりの背骨として過去から現在そして未来へと貫く「貴重な平塚人の魂の歴史」でもある。
この碑はそう語っている…


第6幕  平成の御林跡

徳川家康の作った中原御殿と御林はかくも数奇な運命を歩んでいる。
江戸の大地震の復興に御林の木々が活用されるのを家康は少しは役に立ったかと感慨深かったろう。
しかし日本初の戦争用火薬大工場に変貌し、まして米軍が御林跡火薬廠を本土決戦上陸拠点に考えていたことにはもう怒り心頭に達していたに違いない。
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      御林の中心部は日本庭園に生まれ変わった

今、御林は市民の誇る総合公園に生まれ変わり、子供たちが大声で遊ぶ広場が広がり、サッカー競技場になり、ベルマーレが大活躍している。
やっと徳川家康も笑顔で御林を見ていることだろう。
家康に二度と怒られないよう、笑われないよう、この地を平和な御林として町づくりを進めなければならない。

    日本庭園のほど近くにはベルマーレ本拠地平塚競技場 御林跡に応援の歓声が響く オーレ、オーレ
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八幡山の洋館
平塚市追分の横浜ゴム平塚製造所内の敷地に存在していたこの建物は、1912年頃に無煙火薬を製造していた「日本火薬製造」(資料によっては『日本爆発物製造』とも)によって建造された。
当時の最新建築デザインであったアーチ型の窓や塔屋が特徴である。
その後1919年に日本火薬製造が海軍によって買収され「海軍火薬廠」となってからは主に将校クラブの応接室や娯楽室などとして利用された。

海軍火薬廠の数少ない跡、現存する記念館は横浜ゴム社から平塚市により八幡山公園に移設され、本テーマの土井先生の講演もこの会場で行われた。
絵画展やコンサートなども開催され平和を祈念する建築物「八幡山の洋館」として市民に親しまれ活用されている平塚市民誇りの大切な記念館である。


制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄


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この記事へのコメント

aa
2015年11月11日 23:34
今週、横浜ゴムのイベントをやりますね

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