もう一つの閣議決定、こちらはわずか3日間で戦闘用火薬製造大国に…平塚海軍火薬廠設置を徳川家康は絶句

平成26年8月9日、16日
平塚八幡山公園の洋館にて
歴史講座「日本火薬製造株式会社の設立」があった
講師 平塚市博物館元館長  土井浩氏


第1幕 徳川家康、平塚の地に中原御殿造営、御林植え付けと大野村特産八幡芋の誕生
…忍び寄る帝国海軍増強の大波


1、1596年慶長元年、徳川家康、鷹狩りの休泊施設を平塚:中原の地に造営。中原御殿と称した。

2、1601年(慶長6年)東海道平塚宿設置、中原御殿への逓送業務の中継拠点となした。
「御鷹野御殿」「東照宮御旅館」「雲雀野御殿」ともいったが当時の呼称は「御旅館」。
規模は東西約140m、南北約100mで約7100坪の広大な敷地を持っていた。

3、中原御殿周囲は往還より見透かされないよう防ぐ要害、また防風、砂防から造林され、広大な松林となり幕府直轄林の御林で囲まれた。松、欅、楢、漆など多種に亘り植林され厳重に保護・育成が図られた。
  平塚町から大野村にかけ、総反別126町6反2畝5歩に及んだ。
  木は江戸城御用、川筋普請、幕府造船用材、品川沖台場などに幅広く活用された。

中原御林
  中原御殿の周囲を囲うため慶長6年(1601年)に家康は代官頭伊奈忠次に命じて、松苗を植栽させたのが「中原御林(おはやし)」の始まりといわれている。
御林とは幕府の直轄林を指し、他の地頭林・寺社林・百姓林などと大別されていた。
中原御林の規模は15箇所、約120町歩余にわたり、この結果一面芝地であった付近一帯は松の生長に伴い、御殿の囲いのみならず防風・防砂・水源涵養などの役目を併せ持つ地域へと徐々に変わって行き、田畑としての耕作地の拡大が図られた。

  明暦3年(1657年)に江戸へ解体移送された御殿の跡地に松苗が植栽され、結局御林は16箇所、126町9反2畝5歩が確定した。
この中原御林16箇所は、御殿地・上宿・比丘尼・北中・阿孝・諏訪部(すわべ)・天王・入口・南中・浅間・十八間・浜嶽・新宿・入会・西清水・東清水の各御林で、市域の砂丘列上に植栽された。

  享保10年(1725年)の「御林改め」によると55,195本(雑木549本を含む)が植栽されており、管理取締は代官江川氏の権限により御林守が任命されている。
そして生育した御林の木は土木用材・建築用材・船舶用材などに利用され、これらの用材の運搬には須賀湊から船に積み、曳航されて目的地に運ばれた。


4、1657年(明暦3年)御殿は廃止され、跡地に東照宮御宮が勧請された。
徳川家康を祀る「東照宮」が中原御殿跡にあったころは、家康の命日にあたる4月17日を「権現祭」といい、その後に東照宮は「東照権現社(権現様)」と呼ばれるようになった。御殿跡には中原小学校など建築され東照宮は
現在は近くの日枝神社に移転し東照大権現祭として4月17日の前後の日曜日に祭礼を行い、鷹狩行列や神輿・車山車なども参加する。

5、そのため平塚宿は神聖な近寄り難い宿とみなされ賑わいを制限され、、御林は宿までも覆っていた。

6、その証拠に十返舎一九の東海道中膝栗毛のどんちゃんさわぎする宿姿に平塚宿は登場させていない。

中原の地は水害のない砂丘上にあり、中原街道で江戸から日帰りできる御殿造営に適した土地といえる。
その後は江戸幕府の基礎固めに関する重要な密議の場所として使われ、大阪の陣・武家諸法度・大久保忠隣改易などの重要な政策決定がこの中原御殿で行われたといわれる。

  『風土記稿』によると中原御殿は東西七十八間(141m)・南北五十六間(101m)で、その面積は四千三百六十八坪(1.4ha)と書かれ、中の建物としては家康の居間・寝所のほか、御蔵・御賄所・御殿番所・小者詰諸・鷹方屋・御馬小屋などがあった。
四方には幅六間(10.9m)の堀がめぐらされ、敷地外には典医屋敷・鷹匠屋敷・中原代官屋敷などもあり、城郭・城下町的な構造を持った御殿だったといえる。
家康の中原御殿への宿泊は慶長10年(1605年)以降詳しく記録されており、この時期に家康が大御所として居城の駿府と江戸を頻繁に往来していたことがその背景にある。家康は中原御殿において土豪との会見や民情視察を行うと共に、外様大名や将軍家臣との会談、大名の改易処分や論功行賞などもおこなっていた。このように中原御殿は臨時に政治を行う場として、家康の大御所政治を担う重要な機能を持っていた。

 中原御殿は御殿番士によって管理され、寛永19年(1642年)に修復されているが、徳川第4代将軍家綱の明暦3年(1657年)に撤去された。この年に江戸では明暦の大火が発生し江戸城と城下町が焼失したため、多くの材木が伐採されて江戸に運ばれた。

7、維新後これらの御林は維新政府が管理する官有林となった。

8、明治18年12月皇室財産の確保維持発展を旨とする宮内省御料局が設置され、官有林は御料林とする転換が図られた。明治21年中原御林は宮内省御料局管理する御林地に編入された。

9、明治32年7月、中原住民らが御料局長に嘆願書提出。
御林が300年間近隣村々により維持され、水源の涵養にも役立ってきた。民間に払い下げる動きがあるが、村人に貸し出し下さるようにとの内容であった。結果、42町歩余が大野村住民に貸し出されることとなった。
以後大野村は、大麦、小麦、甘藷、特に八幡芋の名産地と全国にその名が知られるように一大農産地帯となる。

10、平和な時代、平和な風景は残念ながらいつの時代も長く続かない。
大日本帝国海軍が日本海合戦に勝利したその頃、平塚町・大野村の御林は極秘裏に海軍省所有地に下付されていた。
日露戦争の激動の波は平和の御林をも翻弄し始めたのである。



次回ブログは、大日本帝国の火薬庫は閣議決定3日間の出来事だった…平塚海軍火薬廠はバルチック艦隊全滅数ヶ月後誕生した
 第2幕 大日本帝国海軍の決死と発展の5日間を発信します。

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