最も若くして総理大臣になった男「伊藤博文」は最も偉大な政治家でもあった

伊藤博文、初代内閣総理大臣就任時の年齢は44歳で、これは首相就任時の最年少記録としていまだに破られてはいません。

初代内閣総理大臣   伊藤博文  就任44歳
第2代内閣総理大臣  黒田清隆  就任47歳
第34代内閣総理大臣 近衞文麿  就任45歳


歴代内閣総理大臣は現在第95代目、再登板もあるので62人が就任、すべて男性
40歳代はこの3人
50歳代が19人
60歳代が最も多く30人
70歳代は10人いる
最高齢は鈴木貫太郎の就任77歳


伊藤は、まさに近代日本のフロントランナーだった。
幕末に於いて既に、英国へ密航し、英仏米蘭との戦争の和平工作に挺身し幕府相手の革命的挙兵においても、先頭を走った。


明治国家になってからも、岩倉使節団の先導役として参加し、サンフランシスコの公式の場で初の英語のスピーチをし、明治六年の政変では大逆転劇を舞台裏で支え、内閣制度をつくっては初の総理大臣となり、非西洋世界における初の近代的な憲法を制定し、議会制政党政治で党首となり、その頭脳が多方面であったこと、その性格が調和的であったことだ。

青年時代とくに親しく共に国事に奔走し、終生政治家として交際のあった大隈重信は、言った。
「元来政治家には頭脳が多方面であるということが非常に必要である。
政治ということは国家を形造る各種の勢力を色々の方面から視察して時と場所に応じて料理按配していくことで、軍事とか、外交とか、財政とか、あるいは教育、宗教、民情、風俗とか、よく之を比較考量して政治を行わねばならぬ。
従って政治家にはその頭脳が多方面に発達して之を洞察する力がなくてはならぬ。

…伊藤の生涯はまさに政治家そのものであり、政治家とはかくなるものかという格好な見本をここに見ることが出来る。
伊藤は、現実の厳しさを知りながら、粘り強く決して絶望せず、常に前向きであり楽天的であった。
その視野はすでに国内だけでなく世界に及んでおり、その意味で、伊藤は近代日本が生んだ偉大な政治家であった。


講談社発行  伊藤之雄著  伊藤博文  近代日本を創った男 606ページ

木戸孝允は伊藤博文を評し「剛凌強直」強く厳しく強く正直な男と言った。

明治6年、伊藤32歳の時の木戸の言葉だ。
維新に奔走した意気込み、地位や命ですらいつでも捨てる覚悟で信念を通す生きかた、志半ばで倒れていった仲間への責任感につながるものだ。

◎日本のかたち、憲法をつくる

伊藤はヨーロッパ君主国の憲法を参考にしながら、日本の政治、文化になじむような憲法を制定するのを目標とした。

ヨーロッパ先進国の法や制度を単に翻訳して日本に適用するようでは、日本の実態に合った憲法にはならず、日本に定着しない。自ら欧州に行き、実地にそれらの機能を学び、理解したうえで、日本に合うよう修正し、日本の憲法を制定すべきと考えた。
時間と労力をかけず、安易に制定してわずか1年余で停止されたオスマン帝国憲法の轍を踏むことは避けたい。

明治15年3月14日欧州憲法視察に出発。
翌16年8月3日帰国

ドイツにはビスマルク首相がいたがグナイスト教授の憲法講義を優先し学んだ。
伊藤は新政府での実際の行政経験が豊富であったし、またあらかじめ英語を通し、米国の憲法や共和国制定経過、英国の憲法、国体形成等を学んでいたため、ドイツ語が出来なかったが短期間で苦労しながら大きな成果を上げつつあった。

オーストリアではウイーン大学シュタイン教授により、君主専制国家のありかた、市民革命の影響を受け出現した当時最先端の君主機関説など深くお聞きし、日本の天皇制の実態に合った憲法を作る糸口が見えた
シュタインの影響下、伊藤は日本の実情に合う、憲法の下に君主権を制限して行く君主機関説を導入することになる。

翌16年3月3日ロンドン到着。
約2月間、政党内閣制などドイツと対局的な英国モデルや憲政の運用について主に学ぶ。

英国日憲法を日本の政治が成熟した将来めざすべき手本と考えていた。
18年後伊藤は実際に立憲政友会を組織し憲法政治の完成を志向した。

英国に学ぶ


英国 富国強兵のからくりを知る

さて,明治5年7月3日(1872.8.6)、一行はボストンから船出し、7月14日、リバプール着。
駐日公使のパークスの案内で英国各地を視察する。
英国に120日も滞在することになり、ロンドン市内はむろんこと、南はポーツマスやブライトンから北はグラスゴー、エジンバラまでくまなく回覧することができた。

そして日本とあまり変わらない島国がいかにして富強国家になりえたかの秘密を学ぶことができた。
正式の使節として最大限の便宜を与えられ、これほど組織的に徹底して各産業の実態を見、貿易のからくりやインフラ設備、政治制度や万般を勉強できたことは幸いだった。

大久保、伊藤というその後の日本丸の舵を握る二人にとってのこの英国での密度の高い視察旅行は極めて重要な意味をもつことになるのだ。
大久保は、親しい後輩の大山巌宛にこう書いている。
「どちらに参り候でも、地上に産する一物もなし。ただ、石炭と鉄とのみ。制作品はみな他国より輸入し手これを他国に輸出するのいなり。製作場の盛んなることはかって伝聞するところより一層にまさり、至るところ黒煙天に朝し、大小の製作所を設けざるなし」

そしてこの度の回歴は誠に面白く「英国の富強なる所以を知るに足れり」。
伊藤も、おそらく大久保と同様の感想をもったであろうし、「米欧回覧実記」における久米邦武の次のような記述は、それを代弁しているように思える。

「当今ヨーロッパの各国、みな文明を輝かし、富強を極め、貿易盛んに、工芸秀で、人民快美の生理(生活)に悦楽を極む」。しかし、よく観察すれば、それも「0180年以後のことにて、著しくその景象を生ぜしは、40年に過ぎざるなり」

試みに40年前の欧州諸国を想像してみれば「陸に走る汽車もなく、海を*(速く走る)汽船もなく、電線の信を伝ふることもなく、小舟を運河に曳き、風帆を海上に操り、馬車を路に駆り、飛騎を駅に走らせ、兵は銅砲*(火縄)銃をとりて、数十歩の間を戦い、羅紗は富家の美服にて、綿布は海外の珍品なり」

日本と比べればその差が気の遠くなる程だが、歴史を見れば僅々四十年くらいの差でしかない。
日本人は才が劣るのでなく能力が拙なるわけでもない。



憲法を守る

軍部の独走を危惧して、明治憲法を守るため、修正を考えた。
伊藤は憲法についても一歩先をみていて、その修正を視野に置いていた。
とくに危機感をもったのは軍部の暴走であり、それを食い止める仕掛けを作ることを画策した。
朝鮮国の統監になった背景にも外から枠をはめて軍の突出を防ぎ憲法の悪用を防ごうとした形跡
がある。
そして伊藤は「文明政治」という理想をもっていた。
それは韓国に対しても清国に対してもそうであった。
その意味で一歩先だけでなく、長期的な広い展望も持っていたとしていることである。

◎浪楼閣

明治4年伊藤は高輪に居を構えた。
7年芝に転居
9年高輪に戻る
21年小田原緑町に転居、22年小田原の十字町に別荘を建て浪楼閣と名づける。
29年大磯に転居、浪楼閣をここに移し本拠とした。
和風平屋87坪、洋風2階建て70坪が建坪だった。徳富蘇峰は田舎の町役場見たいと評した。
2軒東に大隈邸、3軒目は陸奥邸、4軒目が山縣邸。4人はここで緊急時国策を論じ合った。腹心西園寺邸も加わった。

◎大磯は東京から近いし自然が豊かで温暖、癒し効果もあった。日本の近代化をリードする超多忙時期、伊藤は転居によりストレスを発散したのかもしれない。
しかし浪楼閣ではじっくり落ち着き英気を養う老境に入っていた。


伊藤は日本酒好み
洋食など濃厚なものを好んだ 鰻も好物。
しかし自宅ではお茶つけなど質素だった。
面会客が多く丁寧に皆会った。
体力、気力が必要で、山縣など面会は余りやらなかった、伊藤は違った晩年ほど多かった。


回天義挙の教え

元治元年12月15日(1865年1月12日)、高杉晋作は長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)でクーデターを起こした。
当初は12月14日を挙兵時期に定められていたと言われる。
これは吉良邸討入と同じであり、高杉の師である吉田松陰が東北遊学の為に危険を冒して脱藩した日である。挙兵に際して自らを死を覚悟して義のために戦った赤穂浪士や初めて清水の舞台から飛び降りた師の覚悟を挙兵する自らになぞらえていたとされる。なおこの日の天候は吉良邸討入時と同じく下関では珍しい大雪であったとされる。

功山寺に集結したのは伊藤俊輔(伊藤博文)率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84人だけであった。

伊藤は山縣に比べ、背も低く、身分も低く、年齢も若かった、しかし山縣より早く初代内閣総理大臣、初代枢密院議長、初代貴族院議長を務めた。
その訳は1点、高杉晋作の奇兵隊挙兵に一番早く手を挙げ参加した。
それが回天義挙の教えだ、伊藤博文の全てはここにある

長州藩の中も、まだ時期尚早、幕府相手に勝つ訳ないなど危ぶむ者が多かった。
山縣のその一人だった。どうなるか分からない、ここは様子見と…


伊藤博文は剛凌強直の男、倒幕の挙兵だ、命を賭けて勝負だ。仲間を連れ一番乗り勢いで参加した。
確かに高杉奇兵隊は一度は失敗した。
しかしやがて戦局は長州に有利に。
流れは変り、ここから長州藩は皆参加し始めた、山縣もその一人だった。
維新後この差は決定的になる。
山縣は実質的に官僚機構を作り上げ軍部も押さえた。
伊藤と山縣は共にあるときは連携しある時は反目しながら日本の新しい国を作って行った。
しかし初代内閣総理大臣、初代枢密院議長、初代貴族院議長には伊藤博文がなった。当然のように。
闘いが始まる時、挙兵にいの一番に参加した同志の絆は固く強く永遠のものである。
命を惜しまず体を張って共通の厳しく高い目標に向った同志だからだ。

回天義挙
回天」とは、天下を回す、則ち、革命を起こす。
「義挙」とは、我が身をかえりみず、信念に従って兵を挙げる。


この本は600ページに渡り詳細に伊藤の行動を追い分析するが、伊藤を伊藤博文足らしめた奇兵隊一番乗りについては1行で終っていたのは残念である。

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