日本一豪雪、貧困、多病の村が生命尊重の村政により乳児死亡率ゼロ、老人医療費無料化を実現…沢内村物語

…自分たちで自分たちの生命を守り続けることが、主義主張を超えた政治の基本でなければなれない。全てがこの生命尊重の理念に奉仕すべきものである。
私の生命は、住民の命を守るために賭けよう。 
      昭和36年4月 沢内村第18代村長 深沢晟雄

 
あけび書房発行 太田祖電、増田進、田中トシ、上坪陽共著 「沢内村奮戦記」を読んで

序章 豪雪・貧困・多病との闘い  
この章を深沢村長から教育長に呼び出された太田祖電氏が宿命の村゛沢内゛への挑戦を描く。

第1章 生命を守る村自戦記

健康管理課長で沢内病院長でもある増田進氏が生命行政の哲学と実践編を書く。

第2章 看護婦・保健婦35年
健康管理課保健婦長の田中トシ氏が村民の健康の歩みを報告する。

第3章は全国老後保障地域団体連絡会事務局長の上坪陽氏が沢内村から学ぶことと題して住民本位の行政改革論を述べる。

最後に参議院での予算委員会へ呼ばれた増田進参考人の証言録が載る。
村の人々、村並み、自然を伝える白黒写真44枚がすばらしい。

この本は深沢村長自身が書いた記事はない。一緒に苦労して国もはるかに凌駕する生命尊重の村政を実現したスタッフがその記録を丁寧に報告したものである。市長や知事さんがゴーストライターに書かせた市政自慢ものとはだから視点と内容がまったく違う。写真の村人や自然は写っていても村長はいなかった。あくまで村人が主役である。異色の社会保障の原書だ。

岩手県沢内村
周囲を標高1,000m級の山々が囲む盆地にあり、冬季は2m以上の積雪もある豪雪地帯である(豪雪地帯対策特別措置法に基づく特別豪雪地帯に指定)。

村の東西には、1,000m級の険しい山地があり、村はそれに挟まれた南北方向の和賀川の渓谷内にある。

異色村長の出現
昭和32年 村長になった深沢は、昭和35年 乳児と高齢者の医療費無料化を打ち出す。
昭和37年には乳児死亡率ゼロを日本で始めて達成。老人の医療費も全国平均から極めて低額になった。何がここで起こったのか。

村長になった深沢は同士として太田祖電を招き、太田は教育長として村長と一緒に徹底的に村を回り、僻地の沢内の問題点を炙り出した。①雪、②貧困、③病気だった。

豪雪への挑戦
岩手県と秋田県境の山脈に囲まれた沢内村は冬季2mから4mの雪に覆われる。
日本の豪雪地帯は230ある。その一つが沢内。この雪の除去が交通など村機能の確保の基盤問題だった。ブルトーザーをレンタルで手に入れる。家屋も雪下ろしの必要ないモデル家屋を普及させた。積雪寒冷地帯特別措置法の指定も得た。徐々に雪の弊害をなくして行く。

年の半分近くも交通を途絶させた2、3メートルの雪と貧困、病。死の循環を断ち切ったのが、佐々木さんが助役として仕えた深沢晟雄(まさお)(1905-65年=明治38年-昭和40年)だ。
 1957年(昭和32年)に村長となった深沢は、村の総予算が3800万円だった当時、議会の猛反発にめげず約500万円でブルドーザーを購入、翌冬から隣町への除雪を始めた。その結果、木炭や丸太の積み出しが可能となり、ひと冬で約3000万円の収入が村民を潤した。



貧困への挑戦

乳児死亡率が日本一。死んで初めて医者に来る。それは埋葬のための死亡診断書を手に入れるため。医者の玄関先には同じ目的の村人が並んだ。そんな悲惨な僻地であった。
1,200世帯のうち生活保護世帯が125世帯、分配所得が岩手県下最下位の貧しい村でもあった。

社会教育の徹底
深沢と太田、増田等は若妻教室、婦人教室など社会教育を徹底的に実施した。昭和35年乳児医療費とともに65歳以上高齢者の医療費を無料に。昭和37年には日本の市町村で始めて乳児死亡率ゼロ達成。昭和36年から国民皆保険制度が発足したが対国への配慮も議論があったが地方自治の本趣旨を貫き通した。
東京都が老人医療費無料化を始めるとき、なんと沢内村を鏡として導入論を展開した。大東京が…。いずこの地方自治体で繰り返されるのが近隣の状況である。近隣市町村のデータを集め横並びで安心する。地方自治はどこにあると言いたい。沢内村は自分たちで問題を把握し、分析し、対策を自分たちで考え実践しただけである。

なべかり人間ドック浸透
昭和52年 全村民を人間ドック入りさせている。昭和48年田中内閣は老人医療費無料化を打ち出したが、10年後有料に逆戻りした。選挙の対策はあっても理念が着いて行ってなかった。集団検診は検診に合わせなくてはいけない。人間ドックは自分の予定確保
歯ブラシが2万本以上売れ出した事実。ドックは嫁の実家帰りの骨休み効果:健康談義の花:対話の効果

行政
健康管理課の設置、4500人の村で保健婦4人。日本最先端レベル。住民の健康台帳作成
住民の生活と生産が村政の柱に、おちこぼれを防ぎつつ丸ごと取り込み形の生命行政
保健婦が集団就職列車に同乗、親の替わりを勤める。うつむいていた子がサインをねだる。友達のサインが…集団列車はそんな悲しい現実だった。
また、「引率指導型の政治」ではなく「演出指導型の政治」によって、住民が主体性を発揮させるよう努めてきた。豪雪を突破するにも冬期交通確保期成同盟 なる組織を作り、実現させていったのだ。
沢内のこれほどの生命尊重の村政実現の要因は間違いなく生活水準の向上、住民の意識変化によるもので、保健婦諸姉の業績であり、行政の成果でもある。

老人と乳児医療費無料化

岩手県沢内村に追随し、国が1973年(昭和48年)に始めた老人医療費無料化は、安易な「薬漬け、検査漬け医療」を招き、巨額の赤字を残した。沢内村は一貫した健康管理と病気予防に努めた結果、1人当たりの医療費が減り、83年に国が一部有料に戻した後も「自治の伝統を守ろう」と無料化を堅持している。高齢化が進んだ93年(平成5年)には村民の雪かきボランティア「スノーバスターズ」(100人)が発足、冬の暮らしを支え合う。「へき地にも生存権がある」と訴えた深沢晟雄村長の遺産は生きている。

治療より予防:広報より広聴

住民の意識向上、医療を治療から開放し、日常の健康増進、診断、治療、社会復帰の流れを体系化確立させた。
村民の現実と要求の把握、研究、調査、討論そして行政成果の反省、総括する力があった
部落座談会の開催によって広く村民の声を聞く広聴活動と、「広報さわうち」によって社会教育重視の広報活動とを具体的に展開する。


沢内の村人のこころ

さらに村政の充実の秘密は、村立沢内病院の医師や保健婦さんをはじめ、村民一人ひとりの粘り強い活動が深沢村長を支えていたからに他ならない。
特に、沢内村の老人たちは明るく元気である。

1983年、国が老人保健法を改正し、老人医療費を一部有料化に踏み切ったとき、沢内村では、老人クラブ連合会が自ら署名を集めて無料化の存続を訴え、ついに沢内村の議会は存続を全会一致で採択した。

かつて「国がやらないのなら、私がやる。国は、必ずあとからついてくる。」と言ったのは深沢村長だったが、深沢村長の死後、国が止めても存続させたのは、紛れもない村民の力だった。

今も沢内村の人々は、故深沢村長の生命尊重の精神を守り、さらに自然保護と産業開発との調和など新たな課題に挑戦している。

深沢晟雄(第18代・沢内村長)の言葉

政治の作用は、概括的にモノを対象とするものと、人を対象にするものとに大別することができようが、建設行政や産業行政には、たとえ不十分ではあっても、きわめて意欲的であるのに反し、厚生行政や文教行政については、はなはだ関心が低いように思われる。

生命や教育、すなわち人づくりに重点を置かないようでは、結局は政治の失敗となろう。
思い切って第一着手として、生命と健康については、国家は一切責任を負うことにしてはどうか。
生命行政は、一切の行政に最優先させることこそ福祉国家の面目というべきであろう。所得格差を問題とするより先に、人命格差を問題とすべきであろう。


社会保障が、福祉が後退し格差が大きな国民的課題にもなって来た。こういう時勢だからこそ
沢内村深沢晟雄村長の村政を振り返ることも必要であろう。
昭和40年1月惜しくも深沢村長は病死した。日本一健康な村を実現したのに。
山伏峠から帰ってきた彼の亡骸を5000人の村人はこぞって出迎え、老人が孫の手を抱え「お前の命の恩人だよ」と泣きながら語った。


顕彰碑は語る
…特に医療行政において老齢者、乳児に対する国保の10割給付を断行し、村民の平均寿命延長、乳児死亡率ゼロの金字塔を打ち立てたことは村史に銘記すべき不滅の業績である…
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制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄

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