釜石製鉄、三陸汽船隆盛の礎:   大正を駆けた若き官選知事笠井信一物語②

第2話 釜石製鉄所、三陸汽船編

舞台は岩手県釜石。登場人物 田中長兵衛、横山久太郎、、笠井信一
明治40年1月から大正2年2月まで笠井信一は官選の岩手県知事であった。
時に笠井信一42歳、異数の大抜擢で岩手の財政再建に当たる。
金田一勝定等岩手の実業家と交流を深めた知事笠井信一は、更に横山久太郎を知る。
鉄は国家なり、正に新生日本の礎を築く国家的産業である製鉄業がここ岩手の釜石に存在するを知り、天命を感じた所であろう。横山の挑戦する製鉄業とその製品を運搬する三陸汽船の重要性に鑑み、岩手県知事として、国家経営に思いをはせる官僚として横山の事業に対し全面的に支援を行うのであった。


以下話は河北新報掲載の岡田益男 「東北鉱山の繁栄」 によります


釜石製鉄の歴史


日本で最初に工業的規模をもって製鉄をはじめたのは、実に安政三年、南部藩士大島高任が大橋山(現在の釜石在)に築いた洋式の高炉である。製鉄も東北が先駆者の名誉を保持しているといっていい。

鉄の街・釜石の歴史は、安政4年(1857)大島高任(おおしまたかとう)が我が国初の洋式高炉を釜石・大橋地区に建設したことに始まります

その後、官営製鉄所は明治13年に、近代資本主義を育成するために公布された「工場払下概則」によって民営へ引き継がれていきました。そして、高任の思想を生かし製鉄所を再興して操業を成功させ、釜石製鉄所の基礎を築いたのが海軍御用商人であった田中長兵衛をはじめとする田中製鉄所の人々でした。横山久太郎を初めとする操業への挑戦は2年近くにわたり、商業ベースにのった出銑に成功するまで、実に49回の挑戦が繰り返されました。

この釜石製鉄所の成功を契機に、日本の近代製鉄産業は大きく開花していきます。


大島高任、田中長兵衛、横山久太郎の三人は、釜石の名とともに永久にわが国製鉄史上に東北の誇りとして残るものである。現在も釜石製鉄所は富士製鉄会社の主力として活動している。

釜石製鉄所は陸海軍への糧秣(りょうまつ)や鉄材の納入を取り仕切っていた御用商人・田中長兵衛に払い下げられ、第2の創業を迎えます。明治17年(1884)に木炭を燃料とする小規模高炉を新たに建設した田中は、失敗を繰り返しながらついに明治19年(1886)10月16日、49回目にして初めて出銑(しゅっせん)に成功し、製鉄所再興の道が開かれました。この日は、釜石製鉄所の創業記念日となっています。

「成功だ、今度こそうまく行ったぞ」という技師の声に一同は思わず喜びの喚声をあげた。
49回の身をけずるような苦心はついに報いられた。
時に明治19年の秋10月16日である。
この日こそ日本製鉄史にとって記念すべき日であり、釜石市民は今日でも忘れてはならぬ日であろう。
ここにはじめて舶来の銑鉄に似た良品が生産されたのであった。


国が最新鋭の設備と最高水準の技術をもってしても成し得なかった官営製鉄を、貧しい畳表仲買いの倅にして丁稚奉公上がりの製鉄の素人が苦労しながらも49回目で偉業を成し遂げた。それに理解を示し資金を提供した主人にして義理の父でもある田中長兵衛もすごいと思う。
 何事もすぐあきらめてしまう昨今、釜石には久太郎や高橋亦助らの精神が息づいていると信じたい。

明治27年の製鉄所従業員は791人で、当時としては希有な大工場でした。
製鉄の活況と共に釜石町(当時)の人口も増え、明治29年(1906)の6,528人から明治44年(1911)には14,925人に増加しています。かつて東廻り海運で賑わった港町は、製鉄所の城下町に変貌していきました。

釜石の銑鉄生産は明治27年には13,000トンとなり、全国生産の65%を占めるようになりました。
産業基盤の「米」とも称される鉄鋼業のパイオニア的存在であった釜石製鉄所。
昭和35年(1960)には従業員8,000人を抱える大工場となったが、この後は時代潮流に沿い、
平成元年(1989)高炉の全面休止によって、釜石製鉄所の歴史に終止符が打たれたのであった。

実業家 横山久太郎

久太郎は製鉄以外でも釜石のために活躍しました。明治29年6月15日の夜、幾度かの地震の後、雷のような音とともに津波が押し寄せたのです。多くの家屋が損壊し、製鉄所も被害に遭いました。久太郎は工場を開放し炊き出しをして救援活動に当たりました。
 また、明治41年には陸路が不便だった釜石に三陸汽船会社を設立し社長に就任、明治45年には釜石電灯会社を設立し、県内では盛岡市についで2番目に電灯がともりました。大正4年には岩手軽便鉄道が設立され、久太郎は顧問に就任しました。花巻から遠野の仙人峠駅(現在の国道283号線仙人トンネル遠野口付近)までと大橋から鈴子まで鉄道が敷設されました。

三陸汽船の設立

よし自分たちの手で汽船会社をやろう」と有志のものが起ち上ったのが明治41年の春未だ浅いころであった。そしてその統率者として白羽の矢を立てられたのが、製鉄所の横山社長であった。当時は日露戦争後の不況時代で製鉄所の経営も最も苦心する時であったが、彼は持ち前の義侠心と満々たる精力とから、有志の乞いを快く容れ、自ら陣頭に立って資本金30万円の三陸汽船会社を創立した。


笠井信一知事の力

まず第一に船舶の新造に着手し東北丸、振興丸、黄金丸、笠井丸の四隻でいずれも145五トンの木造客貨船だが、その船名にも東北振興の新しい理想がうかがわれる。
新会社設立については岩手県知事の笠井信一の多大の支援をうけたので一隻に笠井丸と命名した
明治41年9月、第1船東北丸が鳥羽造船所で竣工し、翌年1月、笠井丸が竣工して4隻そろったが、営業が開始されると当然東京湾汽船と競争が起り、同年12月には運賃5割引にしたほど猛烈をきわめた。
翌42年には大阪から梅幸丸を買収して攻勢に出るほど競争ははげしく、せまい塩釜湾で両社の船が、時に衝突事件を起して局部者をハラハラさせた。
東京湾汽船は正面からの競争ではかなわぬとみてカラメ手から三陸汽船の株を割高で買収にかかったが、全株主は横山社長を信頼して一致団結して株の買収に応ずるものがなかったのは敬服すべきである。

41年には三陸汽船株式会社が創設され、塩釜と三陸沿岸とを結ぶ旅客や物資の輸送に大きな役割を果たした。同社は明治から大正、昭和の初期にかけ、航路も次第に三陸沿岸から東京、函舘へと拡張し、昭和2年には1000トンの汽船を函舘航路に、2000トンの汽船を東京航路に配置するなど、目ざましい活動をつづけた。


海から陸へ

明治初期から北上川を利用した北上回漕会社の船便による石巻~盛岡間の物資輸送が陸上交通の主流であった。また、沿岸地方では、三陸汽船会社の定期航路が釜石を起点として、宮古~塩竈間の海運を確保していた。しかし海と陸を結ぶ交通、横の交通は北上山脈によって阻害され、わずかに県道を開設したに過ぎず、早くから鉄道を開通させてほしいとした希望が県民の中に起こっていた。

次回は笠井信一の活躍する舞台を岡山県に移し、民生委員創設編を予定 

制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄

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