神奈川県警殉職第1号、明治10年に起きた祝井巡査殉職の墓碑改修  祝井巡査の使命感後世に

平成25年3月18日 神奈川新聞  

明治10年の立てこもり事件

県警殉職第1号の墓碑改修で供養式、巡査の使命感 後世に

平塚の教善寺で供養式 ひ孫ら参列
檀家総代:警察友の会会員の飯島則忠氏改修提案実る

 


県警察殉職第1号とされた祝井巡査の墓碑が改修され、開眼供養式が行われた4
平塚市平塚の教善寺


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 1877(明治10)年11月に上粕屋村(現伊勢原市)の立てこもり事件で犯人に刺殺され、県警察殉職第1号とされた祝井盛武3等巡査=当時(28)=の墓碑が改修され、開眼供養式が17日、平塚市平塚の教善寺(石田時和住職)で行われた。

平塚、伊勢原、大磯署員と各警察官友の会などの寄付で実現した。
参列したひ孫の医師祝井文治さん(65)=東京都=は「5年前に墓碑があると知った。
皆さんの力で改修していただき本当にありがたい」と感激していた。

 祝井巡査は薩摩藩の郷士出身。妻子を鹿児島に残して上京し県の巡査となり、小田原署伊勢原分署員だった。事件は、50歳の男が旅館に押し入り、その旅館の娘との結婚を要求したもの。
祝井巡査は非番だったが、分署長から後輩巡査の付き添いを頼まれ私服のまま現場に行った。
説得中に男が突然、隠していた日本刀を振りかざしたため後輩巡査は逃走。
祝井巡査は素手で立ち向かい、全身9カ所を刺され死亡した。男は逃走し4日後に逮捕された。

 当時は、74年に警視庁の創設、事件のあった77年の1月に県内に11警察署が設置されたばかり。
警察官の質がそろわず、後輩巡査のような失態も多発した。祝井巡査の殉職は、優秀な警察官ゆえの悲劇だった。

 事件は西南戦争直後でもあり、“敵側”の政府の役人のうえ、賊に刺され死んだのは不名誉ということで、鹿児島の両親は遺体の引き取りを拒否。
無縁仏になったことを聞いた同郷の教善寺住職が遺体を引き取り同寺に墓碑を建立した。

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 墓碑は1976年の同寺の火災で損傷。
修繕を重ねたが状態が悪化したため、檀家(だんか)総代で友の会会員の飯島則忠さん(80)が改修を提案、3署の署員と各友の会、祝井家、教善寺が資金を出しあった。
開眼供養式には、祝井家、県警幹部、3署長ら約30人が参列。
岩倉利光平塚署長は「祝井巡査の誇り、使命感を引き継いでいきたい」と誓っていた。


 県警発足(1954年)前を含め、県警察の殉職者は現在までに196人。
祝井巡査の殉職を受け、11月に毎年、殉職警察職員慰霊祭が行われている


平成24年11月1日  神奈川県警
 
「使命感忘れぬ」196人の冥福祈る、県殉職警察職員慰霊祭/神奈川


県殉職警察職員慰霊祭が1日、横浜市栄区の県警察学校で営まれた。
遺族や県警職員ら約420人が参列し、職務で犠牲になった196人の冥福を祈った。

 慰霊祭は1877年に始まり、今年で136回目
戦前は疫病の流行や関東大震災などで多くの職員が殉職。戦後は交通違反の取り締まりや凶悪犯の逮捕時などで犠牲になった。

 久我英一本部長は「あなた方が身をもって示した崇高な使命感を忘れない」と追悼の言葉を述べた。参列者は一人一人、祭壇に白い菊を1輪ずつ献花した。

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平成24年11月 国の行う殉職警察官らの慰霊祭 

殉職した警察職員や、人命救助など警察活動に協力して命を落とした民間人の慰霊祭が18日、東京都千代田区のホテルで開かれた。
野田佳彦首相や片桐裕警察庁長官ら約230人が参列し、今回で40回目。

 今年3月、東京都清瀬市で職務質問中に車にはねられ死亡した警視庁東村山署の高畑佳典巡査部長=当時(30)=の妻文奈さんも出席。
 警察庁によると、高畑巡査部長を含む殉職警察官8人と民間人3人が新たに祭られ、合祀者は計6157人になる。


殉職



殉職(じゅんしょく)とは、一般に、特定の業務に従事する職員が、職務・業務中の事故が原因で死亡することをいう。
殉職の一般的な事例として警察官、消防吏員、自衛官、海上保安官、刑務官、入国警備官、税務署員、消防団員、運転手、船員などがある。
ただし、公営競技を除いては、スポーツ選手が競技中の事故で死亡した場合や、サラリーマンが通勤途中に交通事故などで死亡した場合は含まれない。

一般企業や工場においても、勤務・作業中の事故が原因で死亡した場合は殉職と呼び、この場合産業殉職者として顕彰会が建つ。
土木工事では、黒部ダムで171名、東海道新幹線で210名、青函トンネルで34名など、多くの大規模工事において殉職者が出ている。

このような場合、完成後に施設近辺に慰霊碑を設ける事例も多い。
鉱山開発においても多数の殉職者をだす事故が度々発生していた。
特に石炭採掘では、坑内火災やガス中毒によって時に一度の事故で100名を超える殉職者を出すこともあり、石炭採掘の斜陽化に拍車をかけた。
炭鉱事故の殉職者の中には、火災やガスの充満などで救出が困難により、坑内に置き去りとなった者もいる。
また、それぞれの職種ごとに遺児への教育資金援助や慰霊式典を行なうため、殉職者の顕彰会が設けられている。

1947年の神奈川税務署員殉職事件後には、特殊な第三国人等に対する検査調査を行う税務職員への特別手当を支給することとする法案が出されるなど、殉職者が出ることによって一定の是正措置が取られることもあった。

広島県の場合、広島市への原子爆弾投下で警察官と警察事務職員ら233人が即死し、その後も原爆症により病死する者が1946年までに119人いたが、これらは殉職として扱われた。
その後も何例かあり、被爆から19年後の1964年12月に原爆症で死亡し一階級特進で警部になった者もいる。


殉職と2階級特進制度


自衛官、警察官、消防吏員、海上保安官、刑務官、入国警備官といった職務階級が明確な職業において、殉職に伴って在職階級から二段階昇進させる制度または慣行で、名誉・叙勲・その他の遺族に対する補償も特進した階級に基づきなされる。

この結果「二階級特進」が、しばしば「殉職」の別称とされる。
特進とは「特別昇進」の略称である。

•なお、警察官の場合、巡査(-巡査長)-巡査部長-警部補-警部-警視-警視正-警視長-警視監-警視総監という階級構成であるが、巡査・巡査長が殉職すると、各々警部補に特進する。これは巡査長が正式な階級ではなく階級的職位にすぎず、階級上は巡査と同格だからである。

なお、巡査部長の場合は2つ上の警部に特進する。
ただし、近年の職務執行中の交通事故による殉職(取締活動中に前方不注意の自動車にはねられ死亡)の場合には、1階級のみの昇進にとどまる。



神奈川税務署員殉職事件(かながわぜいむしょいんじゅんしょくじけん)とは、1947年(昭和22年)6月23日に神奈川県川崎市桜本町(現在の川崎市川崎区桜本)で発生した殉職事件である。


事件の発端


戦後初期に出回ったカストリ酒
終戦後、極端な米不足のため、正規の酒の生産量が落ち込んでいた。
その間隙を縫って「カストリ酒」なる密造酒が横行しはじめた。

1947年9月現在の密造酒生産量は50万2000キロリットルで、正規の酒の生産量34万3000キロリットルを大幅に上回っていた。
従来のように農家の自己消費用としての密造酒ではなく、販売を目的とする大掛かりな密造で、在日朝鮮人集落が密造酒製造の巣窟であった。
単に酒税収入の激減のみならず、米が酒用に転用される分、主食用の米が減ってしまうので、飢餓が起きる可能性があった。またこれらの酒の質は劣悪で、中には有害なメチルアルコールを薄めたものまであったため、税務当局は健康上の観点からも厳しく取締りを行った。

当時の在日朝鮮人は、行政府職員への脅迫により米の配給を二重三重に受けることによって密造酒を醸造して闇に流すなどしており、深刻な問題となっていた[3]。これらを取り締まろうとする税務署に対しては大勢で押し掛け、取締を行わないよう要求するなど組織的な妨害活動を繰り広げていた。
事件の発端となった川崎市桜本町には在日朝鮮人集落があり、堂々と密造酒を製造していた。
税務当局はGHQの指令もあり、一斉捜査を実施することになった。

事件の概要

1947年(昭和22年)6月23日、税務当局は税務署員88名と検事2名、警察官206名、占領軍憲兵の応援を得て、一斉取締りを敢行した。
取締りそのものは順調に進み、100名以上を検挙し、密造酒15,000リットル、原料、醸造機材などの証拠物件を押収した。

検挙の際には拉致されそうになる職員もあり、税務署が威嚇されることもあった。
当該事件の被害者となる端山豊蔵・神奈川税務署間税課長は、現場の責任者として陣頭指揮を執っていた。

端山課長は、この日の取締りの事務処理を済ませて、午後9時に川崎税務署(現・川崎南税務署)を出た。
京浜川崎駅(現・京急川崎駅)に到着しようとした時、賊数名が端山課長を取り囲み、「税務署員か?」と聞いたため、端山課長が「そうだ」と答えると、いきなり殴る蹴るのリンチを加えた。

端山課長は直ちに病院に収容されたが、3日後に死亡した。
後に犯人は逮捕され、傷害致死罪で懲役7年の実刑判決が下った。

同年7月4日、片山内閣は端山豊蔵間税課長殺害事件を受けて、閣議に「酒額密造摘発に関する態勢確定の件」を上程し、端山課長が殺された事件は、単なる密造事件としてではなく、日本政府の経済緊急対策の成否にかかる重大問題として扱うべきであるとし、今後は税務署が中心として行う酒税法違反の摘発とするだけでなく、食糧管理法違反等と合わせて関係官庁が協力することとする閣議決定がなされた。

同年7月5日、端山課長の葬儀が東京財務局(現・東京国税局)や全国財務労働組合の合同慰霊祭として行われ、栗栖赳夫・大蔵大臣、石橋湛山・前大蔵大臣、池田勇人・大蔵事務次官を始め数百人が参列した。1951年(昭和26年)6月26日、端山課長の命日に合わせて、東京国税局(東京都千代田区大手町)に殉職間税課長顕彰碑が建立された。顕彰碑の碑表は池田勇人・大蔵大臣の筆、碑誌は阪田泰二・東京国税局局長の筆による。

『殉職税務官吏故端山豊蔵之碑』
大蔵大臣 池田 勇人

「建碑趣旨 故大蔵事務官端山豊蔵氏は終戦後世態の激変に伴う道徳の頽廃に因り税法違反日に多きを加へんとするに際し神奈川税務署間税課長としてこれらの悪質犯則者の摘発に日夜鞅掌しつつありたるが偶偶昭和22年6月23日第三国人密造の報に接し率先課員を統率してこれが取締に当りたる処不幸に兇漢の不逞の報復に遭い遂に前進有為の身を犠牲に供しその職に殉じるに至りたるは寔に痛歎の極にして遺族の衷情を察するとき真に哀悼に堪えぎるものあるも君が烈々たる職責遂行の信念と事に当りての果敢なる行動は全国六万税務官吏の旗標として同僚を奮起せしむると共に国民の正義感に訴え弛緩せる道義心を粛然たらしむるものあり茲に同僚有志にして君が殉職を○む者相語り資を捐て碑を建て君が名声を永く後世に伝えんとするもの
なり

昭和25年10月1日
東京国税局長 坂 田 泰 二 誌
警察白書(昭和48年~平成19年度版)警察庁によれば、03年~06年の警察職員による殉職者数は24人。
交番や駐在所に奉職する「地域警察官・おまわりさん」に限っても、
00年~05年で17人の殉職者が出ています。

また、警察博物館3Fの展示資料の中に「警視庁警察官の殉職者数」があり
H18.10.17現在では
明治には1071名(うち918年は西南の役で918名)、大正には139名(関東大震災で95名)、
昭和には441名(戦前・戦中253名、戦後183名)、
平成には34名の殉職者が・・・

米国殉死
2007年に殉職警官の数が186人、原因は全米の犯罪の増加と発表しています。
2006年の殉職が151人であるのに対して23%増。

ちなみに中国では
2002年~2007年までに派出所勤務の警察官約600人が殉職

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