佐藤栄作氏ノーベル平和賞はソ連邦崩壊の後押し欧州の恐怖を取り除き安堵させた御礼が真相

佐藤栄作氏ノーベル平和賞受賞は、歴史的偉業に正しく関与したから受賞したもので、歴史的大転換を促した政策「沖縄返還」が受賞に値する価値があったと評価されたのである。

当の本人はそんな世界戦略の図式を窺い知らずローカルな日米交渉に骨身を削っていたが,幸運にも恵まれ知らぬ間に主役の片棒を担つぎ、見事に演じきった。

歴史的偉業、歴史的大転換…

2大共産主義国家中ソ関係に真上から楔を打ち込み、米中は大接近し、ソ連邦を単騎弱体化させ、ついには崩壊させた歴史的巨大な流れであり、これは「沖縄返還」あればこそ実現できたのも歴史的事実であった。

ソ連軍強力大戦車軍団の恐怖に陸続き欧州は長年晒されていた。
その恐るべき軍事超大国を米中接近により極東から挟み撃つこととなる「沖縄返還」を実現させた日本の行動は、欧州から見れば賞賛しても賞賛しきれない歴史的巨大な転換を生み出した正にノーベル平和賞に値するものだった。

五月書房発行  副島隆彦著「属国・日本論」239ページ

1969年11月19日 ニクソン・佐藤日米首脳会談

日本にとり戦後最大の課題「沖縄返還」が決まった。
同時にニクソンはにっこり笑い「サイロ型固定式核ミサイル「メースB」を撤去するよ」と佐藤に告げた。
このことの持つ歴史的意義を佐藤本人も当時だれも日本では分からなかった。
日本中が親米派、反米派に分かれ沖縄返還と日米関係だけに夢中だったが、大きな世界的動きの中で、米国政治家は、沖縄、日本、佐藤を将棋の駒として動かしていただけなのだ。
しかしやがて沖縄、日本、佐藤栄作という歩は成金にさせられ、終に玉を詰むお手伝いを成し遂げることになるのだ。

1971年7月9日

 沖縄返還、核撤去を手土産に米国大統領補佐官キッシンジャーが中国に入った。
17時間かけ周恩来首相と会談。
沖縄には核弾道ミサイルが配備されていて北京、上海に照準を定めていた。
沖縄の持つ地政学上の対中国戦略的位置の重要性は言うまでもない。
米国はそれを放棄し核兵器を撤去させるのである。
関係改善をしょうとのサイン。
中国は心良く受け入れた。
折りしも中国とソ連は共産主義のイデオロギ-上の大論争を交わし、両国間は緊張の一途だった。
国境線にはソ連軍45個師団が集結していた。
国境付近に展開するソ連軍の詳細を映した米国スパイ衛星からの写真を見て戦略家毛沢東は泣いて喜んだ。

7月15日 ニクソン訪中決定という電撃的大ニュースが世界に衝撃を与えた。
世界史の軸が大きく動いた。


その1カ月前

田久保忠衛氏、藤瀬五郎氏はマーシャル・グリー国務次官補と面談していた。質問に対し、「沖縄の返還交渉が中国にどのような反応を与えているかを気に留めたことはありますか」とマーシャルは答えウインクした。

{沖縄返還に関わる交渉事ばかり日本人は目が行っているが、返還の事実と、とりわけ核を取り除くことが中国に対して持つ意味を少しは考えたことがありますか}がウインクの意味だったが…
さすがにウインクで両名に大きな歴史の流れを教えたマーシャルにさえ本当にソ連邦が20年後崩壊消滅するとはその時点では見抜かなかっただろう。

しかし沖縄返還を餌に中国を味方に引き寄せ、ソ連邦を孤立化し、包囲網の強化戦略をとっていたのは事実である。
世界政治の地動説が、何事も日本中心の天動説の我々には視野に入らないのだ。

1972年2月 ニクソン訪中  毛沢東と会談 米中大接近しソ連を挟み撃つ。

1972年(昭和47年)5月15日 沖縄返還  

ニクソンが立案し、キッシンジャーとともに行動に移した世界戦略の゛だし゛に沖縄返還は使われた形で、佐藤栄作は忠実に演じて見せた。
返還の真の意味を佐藤は分からずに、結果的に中国を動かし、ソビエトの世界征服の野望を砕く上で重要な役割を果たしたのである。
世界平和の為に大きな貢献を果たす。

1974年(昭和49年)12月 佐藤栄作ノーベル平和賞受賞 前年キッシンジャー氏が同賞を受賞、彼はノルウエー国の委員会に佐藤を強く推薦した。


果たせるかな…


ニクソン訪中から20年後 佐藤栄作ノーベル平和賞受賞から17年後
1991年8月 ソ連邦は崩壊し消滅した
第2次世界大戦後地球を覆ってた暗黒の冷戦構造が終結し、新時代が始まったのである


沖縄返還交渉の持つ世界史的意義を正しく評価したノーベル平和賞選考委員会はさすがに人類最高の知性を代表する機関と言えよう。

佐藤栄作元首相は、日本の針路を誤らなかった正にノーベル平和賞に値する゛幸運な゛政治家だった。


通説 「沖縄の返還」に政治生命をかける

1974年12月10日、ノルウェーの首都オスロで、佐藤栄作にノーベル平和賞が贈られた。
受賞の理由として、「平和裏に沖縄返還を実現した功績」が挙げられたが、とくに、その沖縄返還の基盤となった「核兵器を造らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則の意義が強調されたという。

戦後のワシントン講和条約(1951年)によって、沖縄は日本から切り離され、アメリカにその施政権が与えられていた。つまり、アメリカに取り上げられたようなものである。
もちろんのこと、沖縄をはじめ本土からも、沖縄の早期返還を望む声は高まっていた。ところが当時は、極東の緊張もまた高まっていたため、(早期に)沖縄が返還される見込みは、かなり低いと見られていたのだ。

それが、1969年11月に開かれた日米首脳会談(ニクソン大統領と佐藤首相)のとき、沖縄が返還されることに決まったのである。
記念すべき「沖縄が復帰を果たした日は1972年5月15日である。

「沖縄の返還」に政治生命をかける
この1974年のノーベル平和賞受賞から遡ること、1965年8月19日、初めて沖縄を訪れた佐藤栄作は、那覇空港で次のように声明文を読み上げた。

「沖縄が本土から分かれて20年、私たち国民は沖縄90万人の皆さんのことを片時たりとも忘れたことはありません。私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦争が終わっていないことをよく承知しております」

しかし当時の情勢では、沖縄返還が実現する可能性はかなり低いように感じられた。
アメリカにとっては、朝鮮半島情勢のこともあり、沖縄は「極東の要石」とも位置づけられていたのだ。つまり、東アジアの戦略拠点とされていたわけである。

「極東の安全をどう考えるのか!」1967年11月、ワシントンでの首脳会談で、当時のジョンソン大統領は、日本側にそう問いかけてきたという。当時の極東情勢については、ことに厳しかったことだろう。
それでも、佐藤はひるまず、国民の気持ちを率直に伝えることに徹したという。

「日本は日米安保条約を堅持し、防衛力を強化する。憲法上、軍事協力はできないが、経済協力の面で極東の安全に寄与したい」極東の安全については、そのように答えた。
このときの首脳会談で、ジョンソン大統領は沖縄の返還については明言を避けたが、小笠原の早期返還については合意がなされた。
さらに大統領は、沖縄の早期返還を求める日本国民の要望は充分理解しているとし、その返還についても、今後とも前向きに日米共同で検討していく用意があるとした。

そして、1969年の11月、新しく就任したニクソン大統領との首脳会談のとき、それまでの4年にわたる努力が実り、ようやく沖縄が返還されることが正式に決まったのである。


もう一つの通説 ライシャワー氏


「ニクソンは沖縄のことをいつ爆発するかもしれない火薬ダルだと評した。
アメリカは日本側が受け入れられるような主張をしなければならないと考えていた。
1969年1月、国家安全保障会議は対日関係の見直しを開始した。
1969年3月、国家安全保障会議は、日本の要求をこばめば、琉球列島と日本本土の双方で基地を全く失ってしまうことになるかもしれないと報告した」

 
★これは、60年安保闘争が終結したとはいえ、国民の中に反米意識は残存しており、佐藤が煽った沖縄返還を実現しなければ、また反米闘争に火がつく可能性があったことを意味している。
 
★もし、そうなれば、米国を失うだけでなく、本土にある在日米軍基地までも失うことになりかねない。
そうなるくらいであれば、実態として重要である在日米軍を置いたまま、沖縄を返還した方が得であると考えたのであろう。

更に別な見解も… 西山太吉氏

ベトナム戦争の長期化によるインフレによってアメリカ経済はめちゃくちゃ。復帰にともなう施政権返還をきっかけにして、アメリカは在日米軍の経費を徹底的に日本に負担させることを考えます。
                               
 
 「米軍移設改善移工費」は、本来アメリカの負担でしたが、それを「地位協定」を無視して、日本が負担したのが沖縄返還時の<沖縄密約>です。


受賞の陰にⅠ 外交官加瀬俊一

佐藤のノーベル平和賞受賞に向けて積極的なロビー活動を行い、受賞決定後に佐藤は「今回の受賞のかげに加瀬君の努力のある事を忘れるわけにはゆかぬ」と自らの日記で述べている


受賞の陰でⅡ

、平和賞を選考するノルウェーのノーベル平和賞委員会は、2001年に刊行した記念誌『ノーベル賞 平和への100年』の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で、米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。
後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。

この記念誌はノルウェーの歴史家3名による共同執筆で、同年8月の出版記念会見の際にその一人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と見解を述べて当時の選考を強く批判し、「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」と語った。

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