松園と一葉が歩み進めた日本の女文化は日本文化の創造と推力だった

強き母 と男尊女卑に逆らう松園の誕生   

上村松園は誕生2ヶ月前に父を亡くしている。
母仲子は女手一つで松園と姉、二人の娘を育て上げた。

子どもの頃から絵がたまらなく好きだった松園は、小学校を卒業すると、京都に開校したばかりの日本最初の画学校に12歳で入学する。

しかしカリキュラム優先の学校よりも、尊敬する師匠の内弟子となって修業する方が身になると思い翌年退学、鈴木松年に師事する(1888年)。
めきめきと腕をあげる彼女は“松園”の号を与えられた。

親戚や周囲には彼女のこうした生き方を非難する声も多かった。

明治の世では「女は嫁に行き家を守ることが最上の美徳」とされており、教育を受けたり絵を習うということは中傷の対象だったのだ。
明治の女性が画家を志すなど、世間で認めるところではなかったが、仲子は常に松園を理解し励まし支え続けた。

松園はその著書『青眉抄』で母を追憶して「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。
私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と述べている。

画家松園

飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍する松園は、「女のくせに」とライバルの男性画家たちから激しい嫉妬と憎しみの対象になった。
それは晩年に松園が「戦場の軍人と同じ血みどろな戦いでした」と記すほどで、女性の社会進出を嫌う保守的な日本画壇の中で、ひたむきに、孤高に絵筆を握り続けた。

誹謗や中傷が渦巻く中、1904年(29歳)には、展覧会に出品中の『遊女亀遊』の顔が落書きされるという酷い事件も起きる。
会場の職員から絵を前に「どうしますか」と尋ねられた松園は、「そのまま展示を続けて下さい。この現実を見せましょう…」と語ったという。
小柄な松園だが精神力は鋼のようだった。描かれる女性達はどれも凛として気品に満ちており、画風はどこまでも格調高かった。

別れと松園の自立


1934年、ずっと影で松園を支えてくれていた母が死亡。
その2年後の1936年、61歳の松園は代表作となる『序の舞』を完成させる。
それは女性が描く“真に理想の女性像”だった。
様々な苦悩を克服して描かれたのは、燃える心を内に秘めるが如く、朱に染められた着物を着て、指し延ばした扇の先を、ただ真っ直ぐに、毅然として見つめる女性だった。
「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。
一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなのです」(松園)。

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母を亡くした後には、「母子」「青眉」「夕暮」「晩秋」など母を追慕する格調高い作品が生まれた。
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1948年(73歳)、女性として初めて文化勲章を受章。その翌年74歳で逝去した。
現代の画壇では「松園の前に松園なく、松園の後に松園なし」とまで言われている。


「気性だけで生き抜いて来たとも思い、絵を描くために生き続けて来たようにも思える」(松園)


松園の語る道

母は自分の身を犠牲にして一心に私に絵の勉強をさしてくださいました。
 話が横道に外れましたが、先に申しました画学校も1年程しまして改革になり、松年先生は学校を退かれる事になり、その時、私も御一緒に学校を辞めて、それからは専ら松年先生の塾で勉強する事になりました。
松園という号も、その時先生からつけて戴いたものです。

松園の語る遺伝子

考えてみますると私の母も、絵は好きだったものらしく、それが私に伝わっているのかも知れません。
私がまだ子供の時分、私はよく母にねだりまして絵草子を買って貰いましたが、私がねだらなくとも、よく自分から買ってきまして、私に与えて下さいました。

また、その頃四条の通りに夜店の古本屋が出て居りましたが、その中から絵の手本のようなものを時々見受けてきて、私に与えて下さいました。
そして、たまたま、雨の降っている静かな晩など、私と姉が外から帰ってきますと、母が一人で机に向かって、一心にその手本を写している事が時々ございました。
 大体、母の父、私の祖父という人が、美術が好きであったらしく、私が六つの時亡くなりましたが、商用で長崎などに行きますと、よく皿とか壺とかそういう美術品を買い求めてきた事を子供心に覚えて居ります。


松園の語る才能


1890年、第3回内国勧業博覧会に出品した「四季美人図」が英国皇太子コンノート殿下の買上げとなり、彼女は15歳にして1等褒状を受け、「京に天才少女有り」と世間から俄かに注目されるようになった

私が絵筆を執り始めてから、今日まで丁度丸々50年になります。今年67歳になりまするが、この50年間を、私は絵と取組んで参った訳になります。

恩師

開智校で教えて戴いた中島真義先生が、私の描きます絵をいつも褒めて下さりまして、ある時京都中の小学校の連合展覧会に私の絵をお選び下さいまして、その時御褒美に硯を頂戴致しました。
この硯は永年座右に愛用致しまして蓋の金文字がすっかり消えてしまいましたが、幼い私の中に画家を見付け出していろいろ励まして下さいました中島先生の御恩は一生忘れることが出来ません。

松園の語る画風


私は、あまりモデル等は使わない方で、大抵鏡を3枚仕立てまして、娘なら娘の着付を致し、色々の姿勢を自分で致しまして写しとり、ある時は左手で写すなど色々苦心致しまするが、自分自身でございまするから、誰に遠慮気兼ねもなく、得心の行くまでやれます。〈姉妹三人〉もこうして描いたものの一つで、出来上がった時、何となく嬉しゅうございました。

美人画の女文化

初期の作品から晩年の名作にいたる全部に、それは、気稟の清質は通底した資質であり、松園の場合ほど、人品と気品とが玉成の美を遂げている例は、古今にもそう多くはない。

永遠に美しき女を描こうと努めた松園は、「女」の根の悲しみをもよく深く承知しながら、或る「文化」の伝統へ、かたく自身の芸術の根を繋いでいたのである。どんな文化か。それこそは京都の、そして日本の、「女文化」である。
「女文化」とは、ただ女の文化でも女による文化でもない。女の存在を意識せざるをえない文化・女が深い力を持たざるをえない文化の謂いであり、日本の創造の久しい衝動であり推力であった。日本文化史は実に「女文化」の消長の上にあり、日本の近代・現代は松園と一葉の登場を機に、第何期かの「女文化」達成へ、堂々と歩みだしたのである。

松園:転換と成長 

昭和九年二月に松園は母仲子を喪っている。まさに、死なれたのである。
しかもその死に供養するかのように松園は久しいスランプから地力で這い上がって、みごとな『母子』を描き『青眉』を描いて画境を転換して行った。

松園また綺麗事のただの美人画から脱却の姿勢を、かけがえない「母」というほんものの「美人」の死に刺激され、意識しはじめた。
ただ立ち姿を、なにの背景もなくしっとりと清らかに描いてみせた昭和10年の『天保歌妓』は、時代おくれな趣向の画題をふみ越えて成った、まさしく「さりげない傑作」に成っている。

清方は発表されて即座に認め、昭和二24年松園の死を悼んで、繰り返しまた大切に高く再評価した。
清方は、前年の自作『妓女像』に松園が食い入る視線をあててみじろぎもしなかったのを、自身見知っていた。『天保歌妓』が松園無言の、清方へ送った親愛と感謝に満ちた一回答であることも分かっていた。

「昭和」九年、十年以降の画業が俄然ものを言うまで、実に実に久しく待たねばならなかった。
そこが松園評価の要になってくるからだ。
その頃に至ってはっきり松園美人画に飛躍と充実への大きなけじめが見えた。
その要となる繪が『天保歌妓』

鏑木清方こそこの作品を重く重く観て、松園追悼の忘れがたい言葉を、こう残している。
昭和11年秋の発表になる名高い松園の「序の舞」はまことに一代の名品に違いない。
だがその前年に描かれた「天保歌妓」は、後年の夕暮、晩秋など母を描いてしみじみなつかしい佳境を予兆する、さりげない傑作と言えよう


松園が語る眉

私のいままで描いた絵の青眉の女の眉は全部これ母の青眉であると言ってよい。
 青眉の中には私の美しい夢が宿っている。
目は口ほどにものを言い……と言われているが、実は眉ほど目や口以上にもっと内面の情感を如実に表現するものはない。

 うれしいときはその人の眉は悦びの色を帯びて如何にも甦春の花のように美しくひらいているし、哀しいときにはかなしみの色を泛かべて眉の門はふかく閉ざされている。

 目はとじてしまえばそれが何を語っているかは判らないし、口を噤んでしまえば何もきくことは出来ない。
 しかし眉はそのような場合にでも、その人の内面の苦痛や悦びの現象を見てとることが出来るのである。



★平塚市では、昨年市制施行80周年を迎え「市制80周年記念 上村松園と鏑木清方」展を平塚市美術館にて開催した。

期間
2012年7月21日(土)~9月2日(日)
主 催

平塚市美術館
出品協力
東京国立近代美術館


☆宮尾登美子著「序の舞」

上村松園…古来、画家の職は男の独占であって、その中に伍して女として身を立てるのに言うに言われぬ苦労をした。
その一生を描いたのが宮尾登美子の小説『序の舞』(1985年中公文庫刊)である。

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