生き返った裁判員制度、戦前あった陪審制度と同じ過ちは犯さないこと。

生き返った裁判員制度、戦前あった陪審制度と同じ過ちは犯さない。

裁判員制度は日本で1928年(昭和3年)から1943年(昭和18年)まで陪審制度の名で行われていた。
薩長の藩閥政治と軍部の専横から国民の幸福を守るため、司法の国民目線を確保し、国民と司法を近づけ、国民自身の政治を貫くことだった。しかし…


原敬内閣の理想

陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣を除く、すべての大臣に立憲政友会の党員を起用したことから、日本初の本格的政党内閣と言われる。
高等教育の拡充、産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充の「四大政綱」を重要な政策課題と位置付けた。

教育政策では高等教育の拡張に力を入れた。
大正7年(1918年)、原内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が、4450万円の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され可決された。

その計画では官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後この計画はほぼ実現された。これらの官立高等教育機関の大半は、地方都市に分散設置された。

また私立大学では大正9年(1920年)に大学令の厳しい要件にも関わらず、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・國學院大學・同志社大学の旧制大学への昇格が認可され、その後も多くの私立大学が昇格した。

大正時代(1912~1925)、平民宰相と言われた、原敬。陪審制はこの原敬の執念によって実現した制度だ。
なぜ、原敬は陪審制にこだわったのか?span>

原敬内閣が進めた陪審制

原敬は、陪審制を実現することこそが国民の幸福につながると考えていた。
原敬の強い思い。それには当時の原敬の置かれていた政治状況が深く関わっていた。

原敬は、最大政党である立憲政友会の中心人物として政党政治の発展に力を尽くしていた。
しかし、政党勢力を押さえて政治の実権を握っていたのは、薩摩長州出身者を中心とする藩閥勢力による藩閥政治だった。

これに対し、国民に選ばれた者により政治を行うのが原敬の目指しているところだった。そんな原敬に陪審制導入を決意させる事件が起きた。
明治42(1909)年、日糖事件が起きた。贈収賄事件だ。

この事件で、原敬が率いる立憲政友会の議員も逮捕され、取り調べを受けていた。その中には、無実にもかかわらず、厳しい取り調べを受けた議員が多くいた。

原敬は怒りを感じた。原敬は司法省の権力濫用を押さえ、議員の人権と政党の威信を守ろうとした。
司法省の不正を白日の下にさらそうとした。
このとき導入しようとした制度が国民を裁判に参加させようとする陪審制だった。

原敬の陪審制導入には政治家としての緻密な計算があったという。
司法省に対するシビリアンコントロール(一般市民による統制)の確立を目指していた。

大正7(1918)年、原敬は首相に就任した。
具体的に動き出した。
翌年、専門家による審議会を発足させた。陪審制の法律案の作成を指示した。
しかし、会議はいきなり大きな壁に突き当たった。
美濃部達吉が陪審制は憲法違反だと主張した。
大日本帝国憲法第24条、裁判官による裁判。
天皇が任命した管理による裁判を受ける権利の条文のこと。

一般国民による裁判というのは天皇による裁判という原則を崩すことになる、と美濃部達吉は考えた。
これに反論したのが江本実(まこと)だった。
天皇の裁判に誤りが出たら大変なことになる。むしろ、国民にその任を負わすべきだ、と主張した。
原敬は江本論を擁護しながら作業を進めさせた。

大正12(1923)年、陪審法が成立。<睦仁・嘉仁・裕仁> <御名御璽に、嘉仁と裕仁の2つの名前が手書きで書かれている。>

しかし、第95条で、裁判官が陪審員の意見を不当だと思ったときは、他の陪審員を選び、裁判をやり直すことを裁判官に認める、の条文が入った。
これは、最終的な判断は天皇によって認められた裁判官に委ねられたことを示している。
この規定は、大日本帝国憲法のもとで陪審制を実現するためには避けて通れなかったためだ。

陪審制の仕組み

30歳以上の読み書きできる男性の国民の中から、抽選で12人が選ばれた。陪審員が裁くのは殺人や放火などの重大事件だった。
12人の陪審員は、被告に犯罪があったかなかったか、事実の有無を多数決で決定して裁判官に回答する。有罪となった被告の刑の重さは裁判官によって決められた。

初の陪審制裁判

昭和3(1928)年10月、初の陪審制による裁判が大分地方裁判所で行われた。
12人の陪審員が裁く側にまわった。
検事が殺人未遂として被告を告訴した。殺人未遂の罪に問われた被告に対し、陪審員は、そもそも殺意はなかったと判断した。

このときの判決文が残っている。主文、被告人を懲役六月に処す。
裁判官は陪審員の意見に従い、そもそも殺意はなかったとして軽い刑罰を選んだ。

原敬の陪審制は順調であるかのように見えたが、そのすぐ後、およそ一ヶ月後、同じ大分の地裁での放火殺人事件の裁判では、陪審員は放火の事実を否定し、被告は無罪と判断した。
しかし、裁判官はこれに納得せず、陪審法第95条を適用した。
裁判官は改めて陪審員を選び直し、裁判をやり直した。

その結果、被告は一転有罪となり、懲役一年の刑が科せられた。

最終的には裁判官の裁きが絶対であることが実際に示されたのだ。
裁判官というお上が最終的には絶対であり、その掌の上で陪審員が意見を述べるという制度だった。

陪審制は、裁かれる被告にも不利な制度でもあった。
陪審裁判を受けた被告は、判決に不服であっても控訴できなかった。
この結果、陪審裁判を受けるべき事件に関わった被告のうち、じつに7割が陪審裁判を辞退し、控訴が出来る他の裁判を選んだという 。

当初、政府が予想していた陪審裁判件数は2600件。
しかし、最も多い昭和4(1929)年でも143件であり、1割にも満たなかった。
その後も激減して、昭和13(1938)年以降は、5件にも満たない数で推移していった。

陪審制はなぜ低迷したのか?

青木教授は、この制度を支える制度に大きな理由があったと考えている。
陪審員に配られた「陪審手引」に注目される箇所がある。

「我が帝国は、萬世一系の天皇がこれを統治し給うことは、今更めて申すまでもないことでありまして、国家の統治権は天皇御一人の総覧せらるる所でありますから、従って国政の総ては天皇の大権に属するものであります。」

ここでは、裁判を含む総ての権利が天皇の大権に属していることを改めて確認している。

陪審制による、国民の裁判への参加は、あくまでも天皇の権威の元で実現できたものだ、というのだ。
陪審制により、裁判が正しく行われると言うことよりも、国民を裁判に参加させること自体が重視された。

結局のところ、裁きはお上のものであるという本質は変わらなかった。

昭和16(1941)年、太平洋戦争が勃発。その後の戦況の悪化は陪審制の運用を困難なものとさせた。
昭和18(1943)年4月、陪審制は停止に追い込まれた。


陪審制の導入により、国民に開かれた裁判にしようとした原敬。
原敬が求めていたのは国民と司法を近づけ、国民自身の政治を守り抜くことだった。

青木教授は、そんな原敬の願いに思いを寄せるとき、陪審制の控訴がその後の日本国民と司法との距離を遠くしてしまったことに、歴史の不条理を感じるという。

80年以上前に、裁判に国民が参加したのは革命的だった
ただ、それが短命に終わったと言うことで、陪審制は失敗だったという見方が出てくる。

そして、それが日本には陪審制は根付かないのだ、とか日本人には陪審制は向いていない、という見方につながっていって、国民と裁判の距離を離れさせてしまった。
革命や改革など、物事には多面性があって、諸刃の剣だ。


裁判員制度


新たに制度化された裁判員制度、しかし調査によって違いがありますが、国民の7~8割が裁判員にはなりたくないと思っている。
非常に残念です。

国や公務員の責任にまかせておいては民主主義社会が作れない。
立法、行政そして三権分立一番重要で一番むずかしい「人が人を裁く場」に主権者である一般の国民が参加すること。
そのことによって、国民が「統治の主体意識」を持ってもらい、社会の実相を判断してもらうことが 裁判員制度の眼目、優れた民主主義思想そのものです。

戦前の原啓内閣が情熱をもって進めた制度陪審制度、大正時代の自由民権運動のスローガンが 「普通選挙の実施」ともう一つ「陪審裁判の要求」がひとつの対となって運動が展開された。
普通選挙権と裁判員制度は民主主義思想そのものだ。選挙に行かない、裁判員制度も嫌がっては本物の民主主義は育たない。
権力と無関心から崩された陪審制度の轍は踏まないことだ。

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