海難と炭鉱…連続する事故…海とやまの町いわき平の昭和20年末期から30年初期…地方記者の原稿録6

地方記者の原稿録」シリーズは、一朝日新聞地方記者が、送稿続けた戦前:戦中:戦後の地方発ニュ-ス原稿を今あらためて読み直し、平和を願い平和を壊され、しかし確実に生きていく地方の市民生活の一コマを少しでも窺うことが出来ればと発信するものです。

6 昭和28年5月~33年7月  福島県平通信局時代 


平市

人口4万5千人であるが、商店街の購買力は30万強と言われ日曜日には町は活況を呈す。
常磐炭鉱と石城7浜という山と海の幸どころ。昭和12年市制施行。
現在のいわき市。

昭和28年朝日新聞「時津、土表の晴れ姿、平で、化粧回しも新しく

待ってました、時津山!郷土フアンの歓声が上がる
羽織袴で土俵に登場した時津関の晴れ姿。
夏場所幕内全勝優勝を記念して新調した時津山の化粧回しを平後援会長関口代議士から受け取ってニッコリ。
5日平市で行われた郷土記念興行、時津山はお礼のあいさつ。
横綱羽黒山の土俵入りでは太刀持ちも果たしてまずはめでたしの平場所だった。


時津山

幼い頃両親が離婚し、祖父母の手によって育てられた。
1940年5月場所に、大坂相撲系統の時津風部屋から初土俵をふんだ。当時の四股名は出身地にちなんだ「平」だったが、のちに時津山と名乗ったのは、時津風出身をあらわしたものである。
1946年11月場所に幕下で7戦全勝で優勝。
新入幕は1949年5月場所、その場所は負け越して一度は十両に陥落したが、すぐに復帰、1950年9月場所に最初の三賞(敢闘賞)を受賞し、幕内力士として定着する。
吊りや矢柄投げという大技を駆使して活躍し、強靱な足腰を誇る若乃花を土俵中央で振り回すほどだったが、それが逆に成績のむらとなってあらわれることもしばしばだった。
このころ同じ立浪部屋で、若羽黒、安念山、北の洋とともに、立浪四天王とよばれ、上位陣をおびやかす存在であり、戦後最強の関脇との呼び声が高かった。
彼の成績で特筆されるのは、1953年5月場所の15戦全勝での幕内最高優勝である。
1955年1月場所には12勝3敗で横綱千代の山との優勝決定戦に出場

海のまち…水産に活気もあったが遭難事故も相次いだ

昭和28年 本県船団が首位  北洋のサケマス漁  水揚げ目標を大幅に上回る


小名浜、江名、四倉、沖の作各港の底引き船8隻は北洋の独航船団に参加して4月末母港を出帆。アッキ島、キスカ島を中心に東北6県、北陸3県、北海道などの85隻との入り乱れサケマス漁に従事しているが、同船団から7月15日県漁協に入った報告によると、現在本県漁獲高は他県を圧し首位を占め今年は優勝旗を持って帰れそうとのこと。特に沖の作港源海丸は全国船1位で水産福島の気勢を上げた。



昭和28年8月2日 漁船「みどり丸」遭難事故 金華山沖で


福島県四倉町の福島県漁業協同組合連合会長鈴木常松氏所有のカツオ漁船「みどり丸」(98t)が、宮城県金華山沖で台風5号に遭いさる2日遭難。連絡を絶ったまま7日になっても消息がなく、第二管区海上保安本部が巡視艇みやけ及びちふりが捜索に当っている。
51人の乗組員の安否がきずかわれている。
同船はさる3月27日四倉港を出港し九州方面でカツオ漁を行っていたがその後漁を追って金華山沖に北上していた。210馬力。漁船としては近代化された優秀な船だった。
乗組員の根本初太郎さん宅では子ども達が「お父さんが今度帰ったら長靴を買ってくれるって言っていたのを待っていたのに…」と妻こうさんが涙ぐみながら語っていた。

昭和29年  第五福丸 乗員16名激浪に飲まれる 

泣き崩れる家族 加藤機関長の死体だけ小名浜港に帰る

底引船第五福丸転覆の悲報に22日小名浜漁港は大騒ぎになった。
漁協所属全漁船31隻が救助に向った。
現場で発見された1死体を収容した金洋丸は風浪のため予定より5時間遅れ23日朝7時小名浜港に入港した。夜通し待ちわびていた加藤機関長の変わり果てた姿に父、母、妹は声を上げ泣き崩れた。
難所と言われる双葉郡沖合では、25年千代丸転覆遭難12名死亡、26年太陽丸沈没遭難44名死亡、28年港勇丸転覆遭難17名死亡と連続して遭難船が出ている。

事故が多いのは同県富岡町の奥にある上岡鉱山の鉄のため船のコンパスが狂うからという。
磁石が効かない難所であるが灯台も塩屋崎灯台と金華山灯台の中間であるため文字とおり暗い海となっている。
同じ理由で釜石沖でも1万トンクラスの船がどっさり眠っているという。

塩屋崎…

山村暮鳥 岬

岬の光り
岬のしたにむらがる魚ら
岬にみち尽き
そら澄み
岬に立てる一本の指

せては返す白波の光。
石城七浜、゛航路の母゛塩屋崎灯台のふもと、なだらかな砂浜に憩う、漁を終えた小船。
秋の暮色静かな詩情をそそるたたずまい。
大正2年から6年にかけ山村暮鳥は平に住んだ。そして美しい石城七浜の感慨を歌に残した。

山村暮鳥  いのり

つりばりぞそらよりたれつ
まぼろしのこがねのうおらさみしらん  さみしらん
そのはりをのみ

らの憂愁を暮鳥はまた青い海底漁に託し歌った。



昭和29年  乗り組みの14名絶望か 第三千代丸消息不明


第三千代丸の船影を見かけたのは4日午後3時頃富岡沖40マイル付近で漁をしていた同町の底引き船明神丸だけでこれが最後だった。
そのころ吹雪と大しけの塩屋崎灯台20マイル沖で第五松丸が小名浜海上保安部の巡視船あさちどりに救助されたが、乗組員の話では「山のような大波に洗われ航行不能になった。もう一波でやられたが危機寸前で助けられた」と恐怖におののいていた。
小名浜漁協では、第五福丸16名、勇丸17名と昨年から底引き船の遭難が相次いでおり、船と運命をともにする大きな犠牲を出し悲痛な空気に包まれている。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック