逞しかった常磐炭鉱の町…ヤマの喜びと悲しみの幾年月

地方記者の原稿録10

地方記者の原稿録」シリーズは、一朝日新聞地方記者が、送稿続けた戦前:戦中:戦後の地方発ニュ-ス原稿を今あらためて読み直し、平和を願い平和を壊され、しかし確実に生きていく地方の市民生活の一コマを少しでも窺うことが出来ればと発信するものです。

6 昭和28年5月~33年7月  福島県平通信局時代 


石炭列車増配を要求   活気づいてきた常磐地

常磐地区の石炭の動きは9月に入ってから活気づき、東部石炭協会への速報によると15日までの送石量は15万4千トンで、石炭協会では1日50両から60両1個列車42車の増配を近く鉄道当局に陳情する。
湯本駅、綴駅など早くも石炭列車が構内いっぱいに並び久しぶりに活況を呈している。

昭和32年  脈打つ産業  炭

石炭はいくら掘っても間に合わぬ好況。
常磐炭鉱90山で32年度出炭は約470トンを超える勢い。
常磐炭鉱始まって以来のことという。新春のヤマは坑の内外ともに明るい活気に満ちている。
古河好間炭鉱の坑内地下2千メートル、採炭の最先端切羽に突入する先山夫たちのたくましさに日本産業の真骨頂を見た。「写真は切羽に挑む削岩機と先山夫たち」…省略

昭和30年 採炭夫6人の遺体収容  鹿島鉱の落盤事故
   60メートルに及び全国例がない規模の落盤か


常磐炭鉱鹿島鉱の落盤事故で犠牲になった採炭夫6人の遺体は14日朝7時47分見つからなかった4人の遺体が掘り出されようやく6人全員の収容を終わった。
4人は引き立てから15メートル手前のところで一緒に下敷きになっていた。
悲しみにむせび泣く家族に迎えられた。
16日午後3時から鹿島会館で大越社長が施主になり合同葬が執り行われる。
落盤は67メートルに渡る全国でも例のない大規模なものだった。
現場は坑口から3、896メートル奥で落盤坑程67メートルで特に奥の37メートルが全面的落盤だった。
平労働基準監督署では原因調査が決まり次第6人の家族に労災保険金を支払う予定。
1名当り平均賃金1、000日分でおよそ93万円を今月中に支払うという。

昭和30年 炭鉱の人妻や娘60人を売り飛ばす 勿来で主犯逮捕 

炭鉱の不況で生活に困ったヤマの家庭の主婦や娘達30人を東京や埼玉県の赤線区域に売り込んでいた大掛かりな人身売買事件が明るみになった25日、勿来署では、勿来町無職坪井義衛(53)を逮捕した。さらに26日には同市無職浜野源五郎(56)を逮捕。

調べによると二人が東京方面の特殊飲食店に世話した女性は60人にのぼった。
女性たちは三松炭鉱はじめ大昭炭鉱などを整理退職された労務者の妻や娘でほとんどが1万円から2万円の前借金欲しさに特殊飲食店を承知で身を売ったという。
この辺に長い間知られずにいた事情がありそう。

逃げ帰った妻の話では「お客さんさえとれば1月で1万円から2万円にはなるとのことだったが、働いても1銭も残らない仕組みであるのが分かって逃げてきた」残されていた夫は4日間は一睡も出来なかった。
子どもも毎晩なきこれほど切なかったことはなかった。妻が逃げ帰ったらさっそく前借金を返せ返せと坪井が取り立てに来て泥棒呼びたてされ火箸を投げられた」と語った。

古川勿来市長談「大東炭鉱は経営者の能力がない問題だ。失業対策の枠を件に陳情した。人身売買は風紀上も、社会不安上からも大きな社会問題であり、経営者も炭鉱を私有財産と考え労働者に十分な責任を持ってない場合も多い。労働者の生活対策を民生、労働各方面から講じなければならない」

昭和31年 14人中毒死 常磐炭鉱磐崎鉱 戦後3度目の大惨事

常磐炭鉱磐崎鉱中部第一斜坑の排気坑で7日午前3時半頃排気が自然発火した。
落盤で煙とガスが排気坑に出ず坑内に逆流したもの。
このため奥の切羽で働いていた3番方坑夫22人がガス中毒で倒れた。午前8時過ぎまでに全員が運び出されたが、うち14人は窒息死亡した。
他の8人は同炭鉱病院に収容され、2週間か1週間で退院出来る模様。
排気坑道の石炭壁が自然発火したのが原因とのことで、深さ4百メートルで気圧も高く坑道の石炭壁が自然発するのは全国的にもここだけだという。
炭質の調査を依頼し警戒をもっとすべきとの批判も出ている。

常磐炭鉱の事故死

昭和25年45人
昭和26年57人
昭和27年44人
昭和28年58人
昭和29年49人
昭和30年55人
この頃全国で約40万人の炭鉱夫が在職

常磐炭鉱…

炭鉱開発神永喜八、片寄平蔵らにより発見された明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸線に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。
これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためである。
しかし硫黄分を多く含有し、純度の低い炭質(低品位炭)という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。

昭和40年代以降ともなると、慢性的なコスト増で産出資源の競争力が失われ、更にマッチ用の燐、化学工業原料や火薬などの用途があった副産物の硫黄資源も、技術革新により石油の脱硫処理から硫黄がより容易に生産されるようになり、市場から駆逐された。
各鉱は採算が次第に悪化。最後まで残った常磐炭砿(後の常磐興産)の所有する鉱山も1976年に閉山し、常磐興産は炭鉱業自体も1985年に撤退している。

常磐ハワイアンセンター:常磐炭鉱のその後

常磐炭田地域の現在常磐興産は、炭鉱の斜陽化による収益の悪化を観光業に転換することで生き残りを図った。

かつては炭鉱の坑道から温泉が湧出し、労働者を悩ませただけでなくいわき湯本温泉を湯枯させてしまったが(1トンの石炭を掘る為に40トンのお湯を廃棄していた)、その温泉を利用して常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)を建設し成功を収めた。

また鉱床をボーリングしていわき湯本温泉の安定した源泉を確保している。さらに地場の大企業である日立製作所関連企業が石炭産業従事者の大部分を吸収し、自治体としての基盤の維持に貢献した。他の産炭地域の人口の激減・地域振興策の失敗による無惨な状況に鑑みれば、奇跡的とすらいえる。

常磐ハワイアンセンター

炭鉱閉山後の事業として1950年代後半、炭鉱の斜陽化により炭鉱事業の収益は悪化しており、新たな事業への展開を余儀なくされた常磐炭鉱(後の常磐興産)では、『日本人が行ってみたい外国ナンバー1』だった「ハワイ」に着目する。

炭砿で厄介物扱いされていた地下から湧き出る豊富な温泉を利用して室内を暖め、「夢の島ハワイ」をイメージしたリゾート施設「常磐ハワイアンセンター」の建設を計画し、1964年に運営子会社として常磐湯本温泉観光株式会社を設立。1966年にオープンとなった。

新たな収益源とすることや、常磐炭鉱の縮小および閉山による離職者の雇用先確保の対策としてプロジェクトが進められたものの、立ち上げる前から社内でも先行きを疑問視する声が強く、炭鉱の最前線にいた社員たちの転身にも根強い反対もあり、「10年続けば御の字」という悲観的な見方すらあった。
最終的には当時の常磐湯本温泉観光社長(常磐炭鉱副社長兼務、後に社長)の中村豊が押し切る形で事業を進めた。

常磐音楽舞踊学院を設立し、自前でフラダンス、ポリネシアンダンスの本格的なダンサーを養成するなど、南国ハワイに拘ったシチュエーションが評判を呼び、さらに高度経済成長を遂げる日本に於いて、海外旅行が自由化されたものの、庶民には海外旅行など高嶺の花という時代であり、手軽に雰囲気を楽しめることなどから人気リゾート施設(この当時には『リゾート』という言葉はなかったが)となり、この事業は成功を収めることになった。

スパリゾートハワイアンズへの転換1990年、総事業費50億円をかけ「スプリングパーク」をオープン、長年親しまれてきた一方、田舎臭いなどという声のあった名称「常磐ハワイアンセンター」を「スパリゾートハワイアンズ」に発展的変更を行い、イメージチェンジを図る。

温泉を利用した5つのテーマパーク、ホテル、ゴルフ場などで構成される。
前身の常磐ハワイアンセンターのコンセプトであった「ハワイ」「南国」に後にブームとなる「温泉」を加えたこと、東京方面からの無料バスによる送迎サービスを行うなどの集客努力などが功を奏し、現在では年間140万人を越える集客まで回復、多くのリピーターも獲得し、他のリゾート施設の苦戦を尻目に健闘を続けており、長寿リゾートテーマパークとして多くの人々に親しまれている。

2005年度には「常磐ハワイアンセンター」時代の1970年(昭和45)以来の年間利用者数150万人の大台を達成した。

昭和40年の炭鉱閉山から「常磐ハワイアンセンター」の誕生を支えた人々の物語が、『フラガール』と題し映画化された(2006年9月23日公開)。

監督:李相日
出演:松雪泰子、豊川悦司、蒼井優、山崎静代(南海キャンディーズ・しずちゃん)、岸部一徳、富司純子
配給:シネカノン
第80回キネマ旬報ベストテン・邦画第1位、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞

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