坂下門で偲ぶ皇妹和宮降嫁を進めた磐城平藩主安藤信正物語と平城維新秘話

地方記者の原稿録8

地方記者の原稿録」シリーズは、一朝日新聞地方記者が、送稿続けた戦前:戦中:戦後の地方発ニュ-ス原稿を今あらためて読み直し、平和を願い平和を壊され、しかし確実に生きていく地方の市民生活の一コマを少しでも窺うことが出来ればと発信するものです。

6 昭和28年5月~33年7月  福島県平通信局時代 

昭和31年朝日新聞浜通版 福島人文史①…磐城平藩主
安藤信正と坂下門


信正は磐城平藩の十代藩主。
文政2年(1819)11月25日江戸の藩邸で生まれた。
幼名を欽の助と言い、文久2年3月信正と改めた。
弘化4年8月父信由が亡くなって平藩主となった。

嘉永4年寺社奉行見習、安政5年若年寄と進み、万延元年老中として渉外事務を担当するようになる。
桜田門の変で井伊大老が倒れてからは久世広周と並んで幕閣の首位に立った。
信正は井伊大老の遺策をついで皇妹和宮を迎えて将軍家持の夫人とし、崩れようとする幕府の威信の維持に努めた。

当時はプロシアとの条約問題、オランダ人殺害事件、英国公使館襲撃事件など対外関係は未曾有の危機に直面していた。
幕府は廃帝を企てているその証拠が和宮降嫁などど流言が飛び、それを企てているのは信正だという噂が流れ、勤皇の浪士から信正は憎悪のマトになっていた。

こうした情勢から、ついに文久2年(1862年)正月5日、江戸城坂下門下で突如数人の浪士から登城中の老中安藤信正の行列が襲われた

2年前の井伊大老が桜田門で水戸浪士に殺されたばかりだった。
徳川300年の屋台骨が大きく傾く。
背中を刺されたが信正は気丈にも登城したが、政務はとれず、4月に老中を辞した。

旅人の歩みもしはしたゆむらん
村雨そそく花は萩原


この歌は明治元年戊辰の役で奥羽藩に同盟し破れた信正が相馬を経て仙台へ向った道中の作。
明治2年許され、同4年10月8日53歳で波乱の一生を終えた。

今も皇居への出入りは大手門と坂下門の2箇所で行われる。
濃い緑の堀の水はどっしりと威容を写し、門に通じる広い道路にはきれいな玉砂利が敷かれている。
この門、この道、この水、すべてがかって大名たちが威儀をただし登城したころの面影を残し徳川300年の歴史を秘めている。



浜の異聞 維新秘話 信正擁く平城は何故一日で落城したか

明治元年、江戸城無血開城に勢いづく官軍は東北に攻め上った。
藩主安藤信正を擁く幕府軍の重要な拠点だった平城がわずか1日で簡単に落城したのは明治維新の謎の一つだった。
幕府方小名浜陣所所属の目明し若松鉄五郎、誠三郎父子がこの謎を解く鍵だった。
7月13日官軍はたくみに地形を利用してわずか1日で平城を攻撃し落城させた。
平城攻めの前も地形を知らないはずの官軍は、前哨戦勿来の関田でも海を利用した巧妙な作戦で勝利し、両軍の関が原とされた富岡山の戦でも藤原川の藪からの不意打ちで幕府軍は敗走したり、七本松の戦でも砲台を設けたがたちまち官軍に包囲され奪還されている。
一連の巧妙な作戦には誰かが官軍に通じ手引きしたとされていたが今回の県重要文化財専門委員の調査で判明した。

それが幕府方小名浜陣所所属の目明し若松鉄五郎、誠三郎父子だったのである。
明治政府は二人の勲功に対し賞金70両、賞状を与えた。
親子がなぜ幕府をいわば裏切り官軍についたか、スパイ役を演じたか、それは小栗篤三郎の手引らしいことまで分かった。
しかし当時徳川を裏切った訳で世間に遠慮し黙って通してきたらしい。
残された記録でそれをはっきり遺族が知ったが公表する気にもなれなかった。
しかし歴史も経た今、郷土史のお役に立てばとの思いから記録資料を公表したもの。

若松鉄五郎は明治26年70歳で没、誠三郎は昭和2年81歳で没した。

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