国内初のジェット旅客機もくせい号消息絶つ…昭和27年4月、静岡県内通信網に異様な緊張走る

地方記者の原稿録」シリーズは、一朝日新聞地方記者が、送稿続けた戦前:戦中:戦後の地方発ニュ-ス原稿を今あらためて読み直し、平和を願い平和を壊され、しかし確実に生きていく地方の市民生活の一コマを少しでも窺うことが出来ればと発信するものです。

5、、昭和26年8月~28年4月 静岡県三島信部時代 



昭和27年4月9日、羽田発福岡行日本航空旅客機「もくせい号」は消息を絶った。
航路に当る静岡県内通信網に異様な緊張が走る。
当初浜名湖西16キロの海上より発見されに無事着陸などの第1報が出され,静岡西部方面の記者軍団に出動命令が…
これは大誤報だった。のちこの誤報が疑心暗鬼を生むことになったのだが。
やがて大島三原山に激突墜落したとの第2報。驚愕の情報だった。 
今度は静岡東部伊豆周辺通信部記者に大島急行の指示が出た。
朝日記者団は大島に上陸したが、三原山への交通手段に窮した。全て捜索に出払っていたのだ。
眼にした最後で最良の手段はラクダだった。直ちに島内のラクダ全てを手配。
記者、機材が無事三原山に向った。
そして国内初の航空事故の凄惨な現場写真を国民が眼にした。
日本航空旅客機もくせい号は前の年10月15日初就航したのだった。国内初のジェット旅客機だった。 

朝日新聞 昭和27年4月11日 死体 御神火茶屋へ   元村のお寺で遺族対面

元村にて金丸(三島)、城田(熱海)、徳永(沼津)、鶴田(下田)記者発
空前の航空機事故となった日本航空旅客機もくせい号の乗客乗員37名の死体は10日午後5時、三原山御神火茶屋に収容された。
悲しみに声も出ない遺族66名、日航松尾専務、航空庁係官などは東海汽船芙蓉丸で大島に急行した。
夜半8時頃元村に到着予定だが、地元では37名の棺を、観音寺、海中寺、金光寺に安置して遺族と対面させるよう準備している。
同夜しめやかやお通夜が営まれる。
大島の島民は9日は遭難を全然知らず、10日午前8時過ぎ、米軍機よりパラシュートが現場付近に降りたのを御神火茶屋の乗馬組合員が発見して初めて事故を知り、警察、消防、村役場に連絡をして大騒ぎになった。ただちに捜索隊が編成され救助に現地に駆けつけた。差木地村の日高医師が全死体の処置を行った。午後2時から消防団人が御神火茶屋に御遺体を運び、更に元村の三寺に移送した。

もくせい号事故異聞

1952年4月9日付けの新聞夕刊上で、日本航空の「もく星号」が浜名湖西の海上に不時着、米軍救助隊により全員救助の報道がなされた。
翌10日、新聞各紙は一転して機体なお発見せずと報じ、米軍も救助報告なしと態度を変えた。
そして10日夕刊で、遭難機、三原山で発見、乗員乗客41名全員死亡の報がなされた。
翌11日には、その飛行機がもともと故障が多かったとか、レーダーがついていなかったためとか報道された。
八幡製鉄社・三木鬼隆、漫談家・大辻司郎ら37人全員死亡。


この事件を詳しく調査した松本清張は、1992年角川書店より「昭和27年日航機「もく星号撃墜事件」を発表。
…日航機もくせい号は三原山に墜落した。直後、「全員救助」と米空軍は発表。誤報か策略か。多数の死亡者の中にダイヤ密売の美女。世を震撼させた事件の真相に迫る長編小説…

…本書が語る米軍機が撃墜したと考えられる説
①当初米軍が発表した墜落場所と実際の墜落場所があまりにも離れていた
②当時の航空機事故年鑑に「もくせい号」事件が記載されていなかった
  つまり、もくせい号事件を忘れさせようという何かの意図が働いていた
③当時、もく星号の近辺を10機の米軍戦闘機が飛行していた
④日本の捜索隊が着いたときには 機体の一部がすでに持ち去られていた
⑤もくせい号の通信を記録していた ジョンソン基地が 最後までパイロットの声が録音されていたテープを隠し続けた
⑥日本政府発表の「もく星号事故調査報告」では 「東京モニター」という機関がもく星号の飛行を記録したことになっているが 現実には「東京モニター」は存在しなかった。これは 日本政府が調査報告を ねつ造した証拠である
このように米軍による撃墜事件であることを米軍、日本政府、マスコミが隠日本国民を騙したのである。


自由国民社発行「口語民法」に学ぶ

第5章  法律行為

第120条 「取消権者」

行為能力の制限によって取り消すことが出来る行為は、制限行為能力者又はその代理人、承継人若しくは同意をするこことができる者に限り、取り消すことができる。

2 詐欺又は脅迫によって取り消すことができる行為は、瑕疵ある意思表示をした者又はその代理人若しくは承継人に限り、取り消すことができる。

この記事へのコメント

棺之爺桶鼠
2017年05月19日 09:33
もく星号遭難事故は、当時4歳であった私の記憶は未だ変わる事無く鮮明である。
ラジオのニュースも聞いてはいたが、それよりも、父が友人である大学の教授と
話していた{この事故は米国の陰謀だ!}との会話が交わされていたことが
強烈な記憶として今もあります。

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