パリコミューンの100年前、町民自治政府が誕生し整然と行われた…火坂雅志を読む②「新潟樽きぬた」

阿賀野川、信濃川の二筋の大河が交わり、日本海にそそぎ込む河口に開かれた新潟湊。北国第一の、この湊は柳都とも呼ばれ、もう一つの顔が花街の貌であった。

樽きぬたー新潟花柳界独特の囃子の1種。もっぱら酒樽が使われる。空の酒樽を逆さに置き、撥でたたく。しっとりとして柔らかい音色がぽんぽんと響く。
越後追分…魯の音もゆるく聞こえて、船江の春は、かすむ粟島、ねむる佐渡…樽きぬた、三味線、踊りが続く。


47歳の呉服屋商涌井藤四郎は、不況にあえぐ中、容赦なく長岡藩の御用金が課されたことに怒りをあげる商人たちの嘆きを聞いていた。しかし藩と真っ向から対決することは避けたい。
そんな町衆の苦しみをどこ吹く風と検断代の二人中心に料理屋で騒いでいる連中がいる。検断をつとめるのは廻船問屋で、広範な商圏から莫大な利を得、豊富な資本を持ちしかも御用金は免除されている。特権階級である。両検断と長岡藩奉行、米問屋などが町の苦境をよそに腐れきった宴を張っていた…

小学館発行  火坂雅志著「新潟樽きぬた」  202ページ

明和5年(1768)、新潟町の打ちこわしは9月26日、27日の両日起った。
町奉行、町役人らの支配から解き放たれた湊に清新な自由の風が流れた。
涌井藤四郎はしばらく慎むべしと呼びかけた。この自由を一時的に終わらせないよう一定の決まりごとと自制がなにより必要である。

新潟湊63町すべてから2名を集め会合を開いた。騒動は町民一同の総意なり。委細は総代涌井藤四郎にたずねるべし。
まず治安対策、火消したちが巡回する。
次に困窮者の救済、米や豆腐、醤油等の値段を下げた。買占めも厳禁した。質屋の利息も下げ、臨時の質屋も5軒新設した。こうして町民生活の安定を図ったのだ
これらは全て町民が寄り合い話し合い決定していった。封建江戸時代画期的な出来事であった。立役者涌井藤四郎の存在と湊町独特の自治の気風がこれを実現させた。


長岡藩から足軽隊が派遣されてが、彼らの役目は騒擾の鎮圧…しかし町はどこも落ち着き、平穏で以前より治安も良かった。町民は涌井大明神といつしか呼ぶようになった。
各町総代を人望ある者から任命、それそれの下に小頭を置き寄り合いの代表者とした。各町の意見が湊の町政に反映出来た。極めて民主的な仕組みである。

多くの民が苦しみ、一握りの特権階級が甘い汁を吸う。天地の神霊への不忠、先祖への不孝、なんぞこれにしかんや。志ある人思いを致すべし。

11月21日、長岡藩から召喚状が届いた。皆は行くなと言ったが、「新潟湊にはお日和もらいの精神がある」=目先の利を追うより相手の立場を考え思いやりの心をかける、長い目ではこの精神の方が町の繁栄になる=涌井藤四郎は皆に見送られて長岡城へ向かった。

明和7年8月20日、明和騒動の裁きが下った。涌井藤四郎と岩船屋佐次兵衛は打首刑に。
涌井藤四郎の供養は浄泉寺で営まれた。町民ほとんどが冥福を祈ったという。
憚らず蓮の葉に乗る蛙かな。
…兄そんは樽きぬたの音が好きらった。私も芸に明け暮れもう78、もうすぐ兄そんのところに行くすけ、昔のように踊りを見てくんなせ、また言ってくれますかねえ、お雪の樽きぬたが聞きてえねって…

火坂雅志のあとがき
新潟湊騒動は日本史上の一つの奇跡であった。
2か月とはいえ、町民が藩の支配を排除し、自らの手で町の自治を整然と行い得たのだ。
江戸時代唯一の事例であり、パリコミューンの100年前に自治政府が日本の新潟で誕生していたのだ。なぜ…それは湊の持つ公界的性格と無縁ではあるまい。堺湊、酒田湊など豊かな経済力を背景に独自の発展を遂げている。武家政権の下に自治の伝統も脈々と流れていたのだ。政治の世界はこの騒動をもみ消しを図った。しかし花街では代々この事件を語り伝え
古町芸妓の意地と誇りを見せている。不条理な格差社会への挑戦の物語。

火坂雅志…新潟生まれ。越後を舞台にする彼の作品「天地人」は2009年NHK大河ドラマ原作に決定している。


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