米軍日本を初空襲、第一目標は中島飛行機のエンジンだった…地方記者の原稿録⑧⑨

「地方記者の原稿録」シリーズは、一朝日新聞地方記者が、送稿続けた戦前:戦中:戦後の地方発ニュ-ス原稿を今あらためて読み直し、平和を願い平和を壊され、しかし確実に生きていく地方の市民生活の一コマを少しでも窺うことが出来ればと発信するものです。

1、昭和11年~16年 群馬県太田通信部時代 


第8話 昭和12年  中島自慢の暁号満州へ、きのう勇ましく空輸


太田の中島飛行機会社で巨万の研究費を注ぎ、1カ年努力を費やして製作した最新鋭長距離万能輸送機暁号はいよいよ満州航空機会社へ空輸することとなった。尾島の飛行場で中島副社長以下完成まで携わった100余名が見送りに整列、奉天までの空輸役末松飛行士、中尾飛行士設計、松村設計技師と挨拶を交わし、一同暁号に惜別、爆音高く満州へスタートした。
暁号は、航続距離6千m,最高速力330キロ、中島式空冷750馬力という強大ぶり。
300キロまでの荷物が積める。(写真は中島自慢の暁号)



第9話 昭和14年  怒鳴られた専務、根津嘉一郎翁在りし日の面影
             中島飛行場会社本館との因



東武鉄道社長根津嘉一郎氏の跳躍第一歩時代とこれまた大飛躍する中島知久平中島飛行機会社社長誕生前の貴重案な一時期を巡る因縁話を紹介しょう。
根津嘉一郎氏が理事をしていた東京米穀取引所の旧館を改築し太田に移し博物館を建てる計画を持った。しかし出品が少なく断念、旧館は空き家になっていた。
その頃中島知久平大尉は中島飛行機の研究所を建てる計画をたて、この根津さんの空家を借りたいと申し出たところ、東武鉄道の吉野専務に断られてしまった。
中島大尉はあきらめず東武監査役の蓮住代議士に話し、重役会議で出したところ、根津嘉一郎氏は大賛成。先にこれを断った専務が怒鳴られたとのこと。
家賃10円で話はまとまり、その後買収し大飛行機会社と発展した。今を時めく中島飛行機の本館こそあの当時の根津嘉一郎氏の建物である。東武鉄道等設立した交通開拓の偉人と交通最先端を行く中島飛行機生みの親との浅からぬ因縁話である。
(写真は根津翁名残の中島飛行機本館)


米軍機による日本本土空襲、第一目標は中島飛行機のエンジンだった

1、中島飛行機武蔵工場への爆撃

米軍は日本空軍の補給力を全滅するため中島飛行機武蔵製作所を本土編隊爆撃の第一目標とし 昭和19年11月24日の空襲以来、終戦まで10数回の爆撃が行われ爆弾500発が命中し 200余名の殉職者と500名を越える負傷者を出し工場は全く廃墟と化してしまった

武蔵工場とは

中島飛行機株式会社は大正6年12月群馬県太田町に創立された。軍需生産で拡大し続け昭和13年5月には、東京都北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所が増強建設された。

昭和16年11月隣接地に多摩製作所が増設され陸海軍に分かれ生産を行った 昭和18年10月時局の要請により両製作所を合併して武蔵製作所と呼称するに至った。

この間従来の従業員に日本全国からの徴用工員男女動員学徒を加へその総数は5万人に及び日夜生産に励み国内第一の航空発動機工場となった。 

2、中島飛行機太田工場への爆撃  終戦前夜にも猛爆、九死に一生を得た母子

昭和20年2月10日の群馬県太田空襲では、118機のB29により、152人が死亡し、2139人が被災しました。また4月4日もB29約100機が、太田・小泉飛行場を中心とする空襲を行い、大きな被害が生じました。

なんと昭和20年8月14日終戦前夜にも大空襲を受けた。
この日は私と母もこの空襲に遭遇、自宅から裏の家を通り防空壕に逃げる途中の大きな道で米軍機の機銃掃射に直撃された。
母は機転で近くの穴ぼこに私を背負い突っ伏した。掃射後の土煙の中、母は私に言った。「亜紀雄どこか痛くないか」私は大きく「うん痛くなんかない」と答えた。
何かあると母はこのシーンを語る。爆弾の破片は家の近くに散乱した。叔父はこれで刀を作ったという。翌日終戦。8月14日も15日も群馬県大田町は暑かった。


3、中島飛行機小泉製作所への爆撃


中島飛行機小泉製作所への空襲は、最初は昭和20年2月25日で太田製作所と同日に米国海軍艦載機が来襲し、111発の通常爆弾を投下し43発が東半分の建屋を中心に命中し、組立中の銀河43機に損害がでて、更に治工具に被害が及びその後の銀河の生産が極めて困難となった。また死傷者も21名に及んだ。(右写真は米軍機撮影)2回目は4月3日の夜間でB29が通常爆弾24発と焼夷弾4発を投下し、約半数は工場に命中して板金工場が壊滅的損害を受けた。


なぜ米軍は中島飛行機を第一目標に狙ったか。

B-29が日本を壊滅させるために立てた戦略目標の第一が、中島飛行機のエンジン工場であり、納得するまでしつこく爆撃している。この工場がいかに重要であったかが分かるし、中島の何たるかが理解できる。

中島飛行機のエンジン誉

誉(ほまれ、当時の表記は譽)とは航空機メーカーの中島飛行機が開発した2,000馬力級の航空機用空冷星型エンジンである。
海軍ではNK9K「誉」と呼称され、陸軍ではハ四五と呼称された。

「ものづくりジャパン」の一つの象徴とも言えるだろう.「誉」は18気筒(cylinders)2列配置(twin-row)の星型空冷(radial air-cooled piston)エンジンで、公称馬力は1900hpである.戦場では利用できるガソリンのオクタン価が下がっていたためこれだけの馬力は出せなかったようだが、戦後アメリカに運ばれた、この「誉」を搭載した4式戦闘機「疾風」が、アメリカのハイオクタンのガソリンでテストしたところ、ピストンエンジン戦闘機の中で世界最強と言われるP-51ムスタングよりも速かったというから、その素晴らしさが想像できる.
「誉」はこの疾風の他、海軍機にも採用され、グラマンF6Fと互角といわれた「紫電改」や世界最速艦上偵察機「彩雲」、そして双発の優美な「銀河」にも搭載された.総生産台数は7500台といわれている.

設計はコンパクトにまとめてあるため故障も多く、メンテナンスも楽でなかったといわれているが、ともあれ2千馬力の実用エンジンをもてたことは、戦争の是非を超えて日本人の誇りにすべきだろう.

アメリカ軍関係者の度肝を抜いたのは間違いないだろう。そして、空戦能力のみなら「日本機には勝てない」というのが戦時中からの常識だったので、疾風は実質上の「世界一の戦闘機」という名誉が与えられた。(ムスタングもスピットもメッサーも相手より高い高度からの「一撃離脱」は優れていたが、相手とトコトン絡み合う「空戦」は得意でなかったとされている)

誉搭載機 四式戦闘機  疾風

キ-84甲
エンジン 中島四式 ハ-45 2000hp(海軍名 誉)
全幅 11.30m
全長 9.74m
最大速度 624km/h
航続距離 2500km
武装 12.7mm*2 20mm*2

長距離侵攻も迎撃戦闘も両方こなせる万能機として開発され、重戦でありながら運動性も良く、大東亜決戦機として、戦局打開の切り札として期待された。
昭和19年8月に中国戦線に投入され、P-47やP-51などの米軍の最新鋭機とも互角に戦い、一時は制空権を奪い返す活躍を見せるも、三式戦や、海軍の紫電などと同じくエンジン不調に悩まされ、B-29の本土空襲によって、生産力の低下と共に稼働率が低くなってゆき期待に答えられなかった。


中島の飛行機 神風

航空界として特筆すべきは、朝日新聞社による神風号機の訪欧飛行で、飯沼飛行士、塚越機関士の両氏は四月六日早朝、東京を出発しインド、ローマ、パリー経由で十日午前ロンドン着、15,357Kmを94時間18分を要して無事大飛行(国際記録の樹立)をなし遂げた。この機体は陸軍の九七式司令部偵察機を改造したもので機体は三菱、発動機は中島「寿三型改(550PS)」であった。

中島の戦闘機 隼

陸軍からは早くも九七戦を引込脚として最大速度と航続距離を大幅に増大させる新型戦闘機の試作命令が中島1社特命で出された。
これに引き続き小山悌技師らが当たったが、格闘戦を重視する軍の矛盾した要求に開発は苦難の連続であったが、戦局の変化により性能が再評価され、制式化は昭和16年になってようやく決着した。
これが一式戦闘機「隼」キ-43である。

加藤隼戦闘隊


エンジンの音轟々と
隼は征(ゆ)く雲の果て
翼(よく)に輝く日の丸と
胸に描きし赤鷲の
印は我等が戦闘機

世界に誇る荒鷲の
翼伸ばせし幾千里
輝く伝統受け継ぎて
新たに興す大亜細亜
我等は皇軍戦闘隊

重爆撃機呑龍

昭和14年度の機体生産状況は、九四式偵察機、九七式輸送機(AT-2)、九七式戦闘機、九七重爆、九五水偵、九五艦戦、九七艦攻、九○練戦等が昨年から引続き量産され、また、一○○式重爆撃機(キ-49、「呑龍」:右写真)の試作機も8月には完成して、その後制式に採用が決定、これも量産に入り以後790機生産された。また、DC3型輸送機の生産準備にも着手され、これには今春入社された芦沢俊一氏が、現場において準備作業にとりかかられた。しかし、間もなく海軍に服役されたのでその後を小山長吾氏が引継がれた。

中島飛行機会社中島知久平

知久平は、尾島町押切の農家の長男として明治17年(1884)に生まれ、18歳の時に軍人を志して上京し、海軍機関学校を卒業、海軍の軍人となり、大正6年(1917)3月に退官した時は機関大尉でした。海軍時代の知久平は、軍人としての職責を全うする傍ら、アメリカ・フランスで航空機産業の視察・研究を重ね、折からの大戦で大艦巨砲主義を排し、飛行機の重要性を説くようになり、「飛行機を大空に飛ばす」という自身の夢を現実化することになりました。

 知久平は、大正6年5月、海軍を待命のまま尾島町前小屋の養蚕農家の借家に「飛行機研究所」の看板を掲げ、退役が決定した同年12月に、太田町の大光院東の洋館に研究所を移転し、本格的に飛行機の研究・製造を開始しました。当初は、なかなか飛ぶ飛行機の製造は叶わず、大変苦労しましたが、大正8年2月、四型6号機を完成させました。飛ぶ飛行機の完成です。以後、陸・海軍からの大量受注により、中島飛行機は飛躍・発展を遂げ、その生産量・技術とも日本の航空機生産業界の頂点に立ち、太田は「飛行機の町」として広く知られるようになりました。

 また、知久平は昭和5年(1930)以降衆議院議員として連続5回当選し、昭和6年に犬養内閣の商工政務次官に、同12年には近衛内閣の鉄道大臣に、同20年に東久邇内閣の軍需大臣(後の商工大臣)を歴任するなど、中央政界において、その実力をいかんなく発揮しました。

 昭和24年(1949)10月、東久邇内閣での同僚である松村謙三と談笑中、病を得て倒れ、65歳の生涯を閉じました。


現在の太田市と小泉町について、本ブログ9月19日発信で、自動車と電気製品の平和大工場に変貌し、海外から従業員を受け入れその数は日本一の数値となり、外国人労働者率16%!をお伝えした。変われば変わるものである。変わらないものそれは群馬県民のたくましい生産性と開放性、それを見守る群馬の大自然であろう。

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