民生委員の原点:岡山県済世顧問制度の歴史的意義は公私協働にある。無視され続けた済世顧問制度

平成19年10月24日 神奈川新聞1面 照明灯  民生児童委員改選期に

民生児童委員は無報酬で高齢者宅の巡回や子育て支援を行う。かっては名誉職、今や雑用係。今年制度創設90周年で改選期。どこの町内会でも人選に苦労する。引き受けてがないのも当然で、いっそ報酬を出したらどうか…神奈川新聞照明灯さんは語った。

さてその民生児童委員については、本ブログ7月13日「済世顧問制度と笠井信一」を発信しているが、より詳細に原点である済世顧問制度の意義を照明灯記載を機に再確認したい。
民生委員を神奈川新聞一面照明灯欄で取り上げいただいたが、なにせこの制度発足時にはマスコミは全く関心を示していなかったのである。


時潮社発行  小野修三著「大正期社会行政史研究:公私協働の発端」を読んで


大正5年(1916)5月10日 地方長官会議が開催された。

大隈重信総理大臣訓示演説。一木喜徳郎内務大臣訓示演説。
そこでは都市農村の改良政策が打ち出された。中央政府による挙国一致の必要性から、一個人の働きに依頼せず多数公衆の力によること、多数公衆の力によるとその国は強い。国家進運を挙げていくにはこの多数公衆の手段による他はないという思想である。

5月18には宮中において大正天皇から岡山県下の貧民状態の御下問を岡山県知事笠井信一は拝した。
御下問…地方長官会議が召集された際、宮中に長官たちを招き、御陪食賜る。そのとき御下問が行われる。明治天皇の頃から慣例となっていた。
これに対し各長官は奉答書を差し出す。笠井は岩手県知事の時の御下問には即日奉答書を差し出している。しかしこの時の御下問は、岡山県についての貧民状況、生産物状況、輸出品状況、教育進展度など多岐の内容だった。

岡山県の生産情況などには当然笠井は精通していた。心配ない、大丈夫との自信もあった。しかし急遽実施した岡山県内貧民調査の結果には愕然としたのである。自らの知事としての怠慢、ボンクラぶりを思い知らされたのである。

奉答書を差し出したのは正確に実情調査し深く思索研究した末の10数カ月後であった。
そして非公式の奉答書なるものが、大正6年5月11日岡山県訓令第10号をもって示された。済世顧問設置規定であった。大正6年2月10日開催の地方長官会議で報告され、天皇に内聞された。そして2月26日県下に公表が行われた。


笠井の救世顧問制度発足の下地となる思想、主張


貧困の原因を討究することが救済の先決問題である。社会は共進すべきであって、強者独り進むも劣者多く落伍するとき社会は決して健全でない。不健全の社会に存在する事は回り来て強者の不幸になってしまうのである。けれども今の経済組織は富める者は益々富み、貧しき者は益々窮するように仕組まれている。然らば貧者は救う事の出来ないものであるかなと自問する(救済研究:済世顧問制度の精神)

済世顧問制度による防貧対策手法

貧富格差拡大の構造的原因究明ではなく戸口調査を実施する手法を採用する。ケースに応じた努力の蓄積を重視した。
生活困難住民をこの戸口調査を行い把握し、地元情況を斟酌、それぞれのケースについてそれぞれの改善方策を講じた。この防貧事業を頼むことが出来る有志者、篤志家を済世顧問と名付けたのである。

共同社会の観念
社会構成の必要条件は共同生活という観念にある。世間は相持ち、利害は共通、粗悪品を売り割高に儲ければすなわちお得意はなくなる。我と彼が共に立ち得る様にせざれば我必ず滅ぶ。防貧制度は特にこの点に留意し、貧富、賢愚、精神、物質に渉り相互交渉、相互依存
以て共存共栄を主眼しなければならない。


済世顧問の目的は防貧


救助を要するものに生活資材を恵与するのではなく、自ら働きて自ら支える=自助への援助であり、だから一対一の配慮が必要。
済世顧問制度が発展し済世委員になったのは、数多くの骨惜しみしない活動家望まれたからである。大正11年済世顧問169名、済世委員239名に。

笠井知事の提唱した済世顧問制度は皆から無関心に迎えられた

笠井は政治的に無色を貫き、だから県議会では彼の構想は支持されるのはあり得ぬ事でもあった。手足となるべき県庁内職員からも積極的な支援は得られない状況で、部下職員は笠井が打ち出した新制度に無関心、無協力だったという。
これは成果を上げる上でマイナスだった、しかし笠井は覚悟の上だったのだ。
ジャーナリズムもまったく取り上げることもなかった。徐々に口コミで広がることにはなったが。

では当の済世顧問に推された人々はどうだったか。林甚八顧問は手記に…
「済世制度、社会事業に耳を傾けるものは少なかった」と回顧。
池上長衛門顧問は「地域興隆、教育とか政治に比べ同じ世のためとはいえ消極的面白みのないじめじめ暗いイメージのように市民は捉えていた」と述べている。

歴史的意義

済世顧問制度は笠井の理念によれば、上から押し付けられるのではなく下からの民間自発のものであり、行政はこれと共同作業をなすのである。
この公民、官民という関係が岡山済世顧問制度の歴史的意味であり評価しなければならない事項である。

今日の公私協働という国家福祉の原点、基本枠組みとなっている公私の関係を岡山済世顧問制度は提供しているのである。公私協働のあり方において笠井の構想した済世顧問制度の影響として次の3つのポイントが指摘される。

ポイント1、委嘱される人は私人である。私人が私人を助けるのだから援助行為は国家政策の一環であっても公費支出が不要なのである。

ポイント2、済世顧問の選出決定権は県知事にあること。これは今も民生委員は厚生労働大臣の委嘱に引き継がれている。官によるものである

ポイント3、天皇の国家象徴との関係…地方自治とは国家の政務を行う一つの手段これが自治の本義である点。歴史ある町村地域社会を公、私、官、民の軸で再編成する、多数者に対する自治という名の行政への参加奨励でもあった。
明治40年代に始まる地方改良運動の指導方針=自治の名の下行政への参加奨励=の救済事業における一実践形態であった


私的救済と公的救済を結合するという一地方長官の発想、一地方長官のエネルギにより専ら支えられ、いささか特異な地方制度が岡山県済世顧問制度であったとも言えよう。名称は済世顧問制度であるが地方改良運動にまぎれなく、一層完全な整備が施されていたものである。

我国公私協働の発端は岡山済世顧問制度にあった。大正期にそういう発想をする官僚もいたのである。
現在の福祉思想はなお基本的には助けられるだけでしかない人間への援助を福祉と考えてはいないか。
人は生き、人に生かされ、人を助け、人に助けられる、それが人間の存在の仕方。
この存在連鎖を自覚した時生きがいを感じられる。
誰かの仕事を引き継ぎ、誰かに手渡していることを自覚した時つまり他者とのつながりを理解したとき働きがいを感じられるのである。


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