大竹英雄、加藤正夫、石田芳夫等超一流棋士は平塚市立浜岳中学校出身…日本一囲碁の町平塚の何故③

日本放送出版協会発行 木谷美晴著「木谷道場と70人のこどもたち」を読んで

第1章 怪童丸との運命の出会い

信州地獄谷温泉
昭和4年木谷實は信州湯田中上林温泉山間の地獄谷温泉を訪れた。何回かの訪問後の昭和5年1月雪に埋もれた地獄谷温泉に来て、美晴の両親に向かい「ぜひ娘さんをいただきたい」と頭を下げた。木谷は美晴に向かい「嫌なら嫌とはっきり言ってください。それならあきらめます」「争いのない家庭を作りたい」と言った。父も美晴も同意した。当時木谷實は東京日日新聞の企画で10人抜きを達成するなど気鋭の若手棋士として鳴らし怪童丸とさえ呼ばれる後世恐るべき天才児とも言われていた。

新布石
地獄谷温泉では木谷と呉清源9段が対局し、二人で新布石の研究を行ったことでも知られる。囲碁に因縁ある聖地ともなっている。

第2章 苦難の平塚木谷道場
桃浜町の道場
昭和12年木谷一家は平塚に転居して来た。
木谷は自身が沢山の師や先輩にお世話になって今日がある。自分も弟子を育成したいとの強い意志に美晴も賛成する。
自分の子を育てつつ以後多くの内弟子を育てることとなる。
趙南哲、本田幸子、小山嘉代らが入門し自身の子供と一緒の生活が始まる、昭和20年7月16日平塚大空襲、焼夷弾家屋が焼失してしまい、残った物置での生活を余儀なくされた。戦後の混乱、食糧難…自分の子供たちだけでも大変なのに多くの内弟子をその後も引き取る。

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 桃浜町木谷道場跡地には今マンションが建つ  木谷道場跡の碑

内弟子入門相次ぐ
筒井勝美入門、21年加田克司、26年戸沢昭宣、大竹英雄、31年柴田寛二、32年上村邦夫、石田芳夫、、34年加藤正夫、佐藤昌晴、小林千寿、宮沢吾朗などが続々内弟子入門。道場は本当ににぎやかな家となる。常時10人は寝起きし、多い時は23人も。

ソフトボール
学校に通学し午後帰って来て近所でソフトボールに興ずることもあった。夜は囲碁三昧。
羽衣公園が私の自宅近所で近所仲間とソフトを楽しんでいたが時々道場の連中ともここで試合を行った。今思えば大変な子供たちと遊んでいたことになる。3振なしの攻撃型で強かった思い出ばかりだが。本には山登り、海岸で地引網、相撲、カルタなど子供たちが楽しく入門生活を過ごす工夫をご夫婦で考えられていたことが分かり感激。

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  桃浜町羽衣公園 木谷門下生でなくともすぐホームランが出た

美晴の子育て信条
自分の子供も弟子も全て公平
甘やかさない
好き嫌いなしに何でも食べさせる
けんかはいけない

浜岳中学校
1軒からこんなに大勢の子供を通学させたが学校は極めて好意的だった、温かい雰囲気で受け入れていただくとの記載に自分の母校でもあり大変うれしく感じた。開放的な学校だった。

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   大竹、加藤、石田など 後の超一流棋士が学んだ平塚市立浜岳中学校

第3章 四谷道場と花開く才能

昭和36年東京四谷に転居。37年趙治勲が6歳で入門。生まれてからまるまる6年間碁をやってきたとのあいさつ。韓国からの入門、美晴オモニになる。
武宮正樹、小林光一(後に木谷一家の次女禮子と結婚)小林覚、小川誠子など入門。

44年間争いのない家庭どころか70人の子どもを育てた家庭を作った。
怪我や病気に当たるなら、美晴はためらいなく自分の子供を差し出したろうと長女和子と長男健一は今も信じている。70人の子育ては苦労でなく楽しくてたまらなかった母親がいたのである。この本は木谷美晴さんの長女和子さんから頂いた。和子さんは平塚フィルハーモニーを率いて練習場などご苦労していた。文化振興の立場から私ども文化行政推進室はこの話を聞き強力に練習場確保に奔走した。その後研鑽され今や平塚フィルハーモニー演奏会はいつも満員で市民から親しまれる存在になった。お元気な方で美晴さんはこのような明るい前向きな方だったのかなと偲ばれる。


大竹英雄名人、王座、鶴聖、碁聖
石田芳夫名人、本因坊、天元
小林光一棋聖、名人、碁聖
趙治勲本因坊、鶴聖、十段、名人の四冠を制す。
加藤正夫本因坊、名人、王座
武宮正樹本因坊

昭和50年12月19日木谷實逝去
平成3年6月3日木谷美晴逝去  

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木谷の愛した平塚の海 道場から歩いて10分程で大島、江の島と富士、伊豆、丹沢を望む

囲碁文化振興事業

内弟子は成長し囲碁界のビックタイトルを独占している。オールスター戦で言えばセントラルリーグが全て木谷一門みたいな格好である。日本棋院の理事長に加藤正夫が就任した。
大竹英雄は木谷門下の塾頭格として、後輩の指導などでも評価が高い。
囲碁界を木谷道場が背負っているのである。
その木谷道場が平塚にあったのであった。

この貴重な文化資源を再認識しわが町の再活性化に寄与させていくべきである。
平成7年、新市長に吉野市長が登場し、新施策の一つとして囲碁の木谷道場の再認識を指示され、平塚市博物館で木谷實展が開催された。貴重な関係資料が紹介され衝撃を市民に与えた。
町の中心部紅谷町パールロードでは囲碁100面打ちが開催された。凄い人出だった。
平塚の囲碁の人気がそれこそ再認識され、今後の囲碁を通した街づくりの担当部局が庁内で調整され、我が文化行政推進室に決まった。行政主導から市民主導への時代潮流を受け、平成8年、地域、企業、専門軍団の集合した湘南ひらつか囲碁文化振興実行員会が結成された。実行員会での囲碁を通した地域振興の施策協議が密度濃く行われ、それらは次々に実現した。今や平塚は日本一の囲碁の町となったのである。



余談
文化振興とリーダー


平成7年新市長に就任した吉野市長の指示で全庁の課題点検、業務見直しヒアリンガが始まった。七夕まつりや美術館の見直しなど折からのバブル崩壊、大不況による財政ピンチでもあり徹底的に事業必要度などが分析された。
厳しい態度が職員に伝えられヒアリングを待つ職員は戦々恐々だった。文化行政推進室の持ち込みは文化財団の設立だった。
3億円の出損金が必要で予算化は財政難もあり厳しい状況で他の職員から同情もされた。
又怒られる課が出るぞと。


市長室でのヒアリングでの説明には、文化こそ市の活性化に必要で、今は中央の団体などがリードし指導しているが、地域の公民館で活躍する小グループを大切にする方向転換が望ましい、官と民が同じ立場で展開する財団方式のメリット、3億円のうち、すでに民が1億用意(文化振興基金に積み立て済みだった)してあり、官で2億拠出すれば良いことなど必死に且つ慎重に説明した。
市長の言葉は「これから設立に向け大変でしょうが、ぜひがんばってください、理事や評議員には人材を幅広く登用するよう、実際に活動されている人材は平塚には多くいます。埋もれている。これを発掘して活用出来るように」との指示であった。こうして文化界念願の財団が実現

設立後神奈川県の担当した幹部から「この財政難のご時勢一時無理かと思っていた。平塚の文化への意気込みには感動した。これからも全力で県は支援したい」旨の話を聞いた。

吉野市長さんといつか出張をご一緒したが電車で本を読んでいた。そっと覗くと囲碁定石の本だった。。早稲田大学囲碁部出身、与謝野官房長官も囲碁仲間とのこと。確か日本棋院5段の腕前。絵もたしなむ文化人。歴史への博識度も半端でない、ゴルフはいつも80台。何事にも熱心で向上心が強い。そういえば次の大蔵市長さんも絵をなさり、広報誌にも作品が紹介された。書画への造詣も深いと聞いている。文化に理解ある市長さんを持った平塚市の再活性化が見ものである。


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    Excerpt: 今日は新聞からの話題を。 日経新聞の夕刊「明日への話題」です。 詳しくは新聞をお読みいただく以外ないですけれども 本日の夕刊に登場した 木谷実九段の道場は平塚にありました。 くわしくは このブロ.. Weblog: 社長のつぼやき racked: 2011-12-03 20:05