時津風部屋は昭和21年11月9日、世紀の大横綱双葉山が引退したその日にスタートした栄光の部屋だった

時津風部屋は昭和21年11月9日、世紀の大横綱双葉山が引退したその日にスタートした

相撲界が揺れている。朝青龍騒動、時津風部屋暴行騒動どちらも横綱に関わりのある相撲協会核心部分の問題である。
そこで時津風部屋を創設した世紀の大横綱双葉山をあらためて見直してみたい。



講談社発行  石井代蔵著「巨人の素顔 双葉山」を読んで

昭和21年11月19日 世紀の大横綱双葉山が引退した。そして時津風部屋がスタートした。時に双葉34歳。日本中が空襲により廃墟と化していた。物語は双葉山仲間の新聞記者が回顧録風に述べる。


天津の怪童


双葉山は明治45年2月9日大分県宇佐郡の漁村天津に生まれた。11歳の頃から海の仕事に携わった。ある日、イカリを揚げる作業中、右小指を巻揚機にはさまれ泣き叫ぶ暇もなく切断された。船頭として日吉丸を操船していた大正14年6月15日、急な暴風雨に襲われ闇の中に放り出された。偶然近くにいた伝馬船に救助され九死に一生を得た。
この時の体験が後の双葉の人生観「今生きているのは天命、どんな苦難にも辛抱できる不動心」を培った。また船をあやつる体の動きが自然に強靭な足腰を形成させた。
逆にハンデもあった。6歳の時、悪童の吹き矢遊びの矢が彼の右目に突き刺さった。失明同然だった。その後幼少の事故であったので片目の不自由さは感じずに育った。しかし相撲取りになり相手と闘う時始めて隻眼のハンデの不安と恐ろしさに人知れず後々さいなまされることになる。
日吉丸を失い漁師も出来ず息の根を完全に絶たれた一家であったが、彼は泥まみれになり作業員として働く。しかし彼の持って生まれた身長175センチ、体重70キロの体躯は評判を呼びいつか天津の怪童とも呼ばれた。そしてこれを聞きつけた双川喜一大分県警察本部長が相撲に詳しく、彼を立浪部屋に入門の世話をみた。栴檀は双葉から芳し。双葉山の誕生である。

立浪入門、大横綱へ

昭和2年3月大阪場所初土俵。一心不乱に稽古に励んだ。昭和4年三段目、翌年春場所に幕下と順調に出世した。翌6年、十両5枚目。この場所は3勝8敗。右目や小指のこと、体の小さいことなど悩みも多くなる。稽古に明け暮れるしか逃げるところはなかった。
昭和7年、西前頭4枚目へ大躍進。横綱玉錦の太刀持ちとして従う幕内最年少双葉山にこの頃になると人々は注目し始める。昭和10年小結。闘う相手は玉錦、清水川、武蔵山、男女の川等黄金時代屈強の強豪ぞろいだった。弱冠23歳の新鋭にとって巨大な壁だったが、負け続けでも壮烈な相撲をとり鉄傘下を総立ちさせた。負けても相撲が面白くなり、体もこのころ大きくなり、筋肉もついてきた。マムシ、朝鮮人参、オットセイの睾丸など強壮剤を交え酒を飲む

69連勝

昭和11年2.26事件に世の中騒々しい夏場所、双葉山は関脇に昇進しいきなり全勝優勝した。…そしてそれから14年まで…負けなかったのである…全勝優勝が続いた。
負けないまま大関になり、負けないまま横綱に昇進したのだ。相撲開闢以来前例のない快挙に相撲道の模範として相撲協会から異例の表彰を受ける。年2回の大相撲は相撲記事が社会面に移った。空前の相撲人気が到来した。でも彼は勝続けるなど少しも考えなかったという。1番1番ベストを出し無心で闘った。少しも力まず勝負に臨んだ。
しかしやがて連勝とともに満天下がフタバーフタバー、横綱の重圧、体のハンデ、戦局厳しい時代の守護神にも見立てられた…心の不安は次第に大きくなった。ひたすら自分に鞭打つしかない、弱くなる心の動きに対し精神統一のため徐々に信仰の道にのめりこむことになっていく。

未ダ我、木鶏タリエズ

69連勝、そして70連勝目の昭和14年春場所4日目、西前頭3枚目安芸ノ海戦、異常な興奮が国技館を襲った。ゆっくり仰向けに双葉山が倒れたのだ。不敗双葉はついに敗れたのだ
この敗戦で双葉はさらに成長を遂げる。前場所の成績が嘘のように夏場所15戦全勝、翌年春も優勝。しかしこの間、師匠と協会との板ばさみ、力士会長の役職、家庭の悩み、心労も限界に達していた。ついに休場場所も出る。相撲協会の意に反し立浪親方が関西で打つ興行相撲への参加不参加の苦悶。そしてあくまで横綱と相撲道を貫く双葉は親方の興行相撲には参加出来なかった。

昭和16年 双葉山は現役横綱のまま立浪親方との確執のうえついに双葉山道場を設立する。前例がなかったことである。道場は若い力士で溢れた。総勢58人。
太平洋戦争へ時代は移った。17年、18年は全て連続優勝。優勝記録は12回に伸びた。

東京は空襲で相撲どころでなくなる。国技館も無残な形骸をさらす。20年11月 本場所を初めて全休、引退を声明。双葉山時代は敗戦とともに終焉した。最後の土俵入りは露払い横綱照国、太刀持ち横綱羽黒山の両横綱を従えた豪華さ、両国国技館は大観衆で埋まった。時に双葉34歳。続く時津部屋の親方という新しい出発。

双葉山はその後相撲協会理事長として双葉山時代に劣らぬ数々の業績を残した。そしてし昭和43年12月16日永眠した。56歳。

双葉山道場(時津風部屋)力士七則「相撲は国技なり、国史とともに生成し、国運とともに消長す」

本は新聞記者藤井恒男の回顧録、また不世出の囲碁棋士呉清源との交流を通し一人の力士の光と影を描く、いや正確にいえば2人の巨人 双葉山と力道山の光と影。本書の正式名は石井代蔵著「巨人の素顔 双葉山・力道山」である。
ここでは双葉山の影の部分は割愛した。信仰の部分である。力道山については又の機会に感想を記載したい。


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この記事へのコメント

双葉山のライバル・照国萬蔵
2012年06月24日 18:12
史上最年少の23歳4カ月で横綱になったのが、秋田県湯沢市秋ノ宮出身の照国万蔵69連勝を達成した無敵の横綱双葉山と5回対戦し、3勝2敗。全盛期の双葉山が、同じ相手に3敗したのは照国だけだ。地方巡業でも双葉山は照国に敗れた。横綱在位、満10年。三役になってからの勝率は双葉山の86・7%に次ぐ81・3%で歴代2位。強い横綱だ。だが照国は、もともと勝負師ではなかった。争いを好まず、内気で温厚な人柄。力士になるのを嫌い、時間があれば勉強したり、読書するおとなしい少年だった。そんな照国が、父の急死や兄の出征など家族の悲運を乗り越えるため、あえて相撲取りの道に進んだ。自分が堪え忍び、母と弟たちを窮地から救おうとしたのだ。息子を不憫に思う母は猛反対したが、照国は泣いて故郷を後にした。 
 だが優しすぎる照国は駆け出しの頃、相撲が弱く、「力士としてやっていくのは無理だ」と親方に破門された。両国橋で途方に暮れて泣いていた照国に手を差し伸べ、家族のように温かく育ててくれたのが、同郷の幡瀬川だった。故郷の母は照国を祈り、わが身に井戸水を浴びる過酷な「願掛け」を行った。「万蔵を救ってけれ。おらの寿命を縮めてもいいから」と寒中でも体に水をかぶった。照国が大病を患って危篤になった時も、母は一心不乱に看病し息子を救った。
 だが苦労しすぎた母は若くして逝った。照国は「あばぁ。あばぁ」と、亡き母を叫びながら泣いて相撲を取った。病気やケガに苦しみながらも、母を支えに必死に踏ん張り、連続優勝を果たした。照国は故郷の母や家族を支えに、必死に人生を駆け抜けたのだった。照国は語っている。「故郷にいた時が一番の幸せだった」と。貧しくても家族睦まじく、百姓しながら暮らした少年の日が忘れられなかったという。参考…秋田魁新報「秋田が生んだ横綱照国物語」
 
照国ファン
2013年10月05日 09:38
秋田魁新報に連載された『横綱照国物語』が小さな本になりました。本屋さんで立ち読みしていただけたら、と思います。 有限会社 無明舎出版 info@mumyosha.co.jp phone:018-832-5680 fax:018-832-5137


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