神風号世界新記録でロンドン訪問…地方記者の原稿録1、中島飛行機と躍進太田

「地方記者の原稿録」シリーズは、一朝日新聞地方記者が、送稿続けた戦前:戦中:戦後の地方発ニュ-ス原稿を今あらためて読み直し、市民生活の歴史の一コマを少しでも窺うことが出来れば発信するものです。

1、昭和11年~16年 群馬県太田通信部時代 


第1話 昭和12年4月10日 神風号世界新記録で日本発ロンドン到着 
                  発動機は太田生まれ  熱狂の太田町


記事

神風が世界新記録に輝いて晴れの英京ロンドン入りの報を待って、太田町では小学児童1800余名は今日10日午後から日の丸と朝日旗を翳して神風万歳の旗行列を行うことになった。町でも神風の発動機生みの親中島飛行機会社の後援を得て今夜から11日夜にかけ祝賀の大提灯行列を挙行する。
出発前神風と飯沼、塚越両鳥人に栄光あれと祈った高山神社と呑龍様にお礼詣りを行


解説


今から60年前、銀色に輝く日本の小形機が大観衆が待ち受けるロンドンのクロイドン飛行場に着陸し、日本初の訪欧記録飛行に成功した。低翼単葉、翼長12メートル、機長8メートル、その名も『神風号』。その快挙は日本はもちろん、世界中をわかせると共に、純国産の傑作機として日本の飛行機が国際舞台にデビューを果たした記念すべき名機です。

航空界として特筆すべきは、朝日新聞社による神風号機の訪欧飛行で、飯沼飛行士、塚越機関士の両氏は4月6日早朝、東京を出発しインド、ローマ、パリー経由で10日午前ロンドン着、15,357Kmを94時間18分を要して無事大飛行(国際記録の樹立)をなし遂げた。この機体は陸軍の九七式司令部偵察機を改造したもので機体は三菱、発動機は中島「寿三型改(550PS)」であった

『神風号』の訪欧記録飛行は、朝日新聞社が英国ジョージ6世の戴冠式のお祝いと欧州各国の親善訪問を兼ねて企画したもので、昭和12年4月6日、午前2時12分4秒、国を挙げての声援に送られ立川飛行場を出発。途中、台湾、アテネ、パリなどを経由し、4月9日午後3時30分、歓呼の渦巻くクロイドン飛行場に到着。全行程15,357kmを実際の飛行時間51時間19分23秒で飛翔し、世界記録を打ち立てたのです。

当時、欧米では飛行機の高性能化もあって記録飛行が盛んで、パリ~東京間を100時間以内で飛んだ飛行機には懸賞金がかけられていたほどでした。実際、ヨーロッパの空の勇士たちが、何回も挑戦しては失敗し、神風号が世界記録を達成する前年にはフランス人飛行士がパリ~東京間の記録樹立を目指して飛び立ったものの、記録達成を目前に九州の山に衝突した例もあります。『神風号』の東京~ロンドン間の記録飛行は、そうした後の大成功だけに世界的な壮挙だったのです。

この訪欧記録飛行により飯沼正明飛行士(当時26才)は一躍英雄となり、大西洋横断飛行を成し遂げ『翼よあれがパリの灯だ』で知られるリンドバーグと共に、名パイロットとして賞賛され、日本の航空技術の名を大いに高めました。
飯沼飛行士の出身地である長野県南安曇郡豊科町の生家には、その偉業を讃える『飯沼飛行士記念館』が設立されており、数々の写真、新聞、遺品などにより『神風号』と飯沼飛行士、塚越機関士の飛行がいかに偉大な快挙だったかをしのぶことができます。また、飯沼飛行士は惜しくも昭和16年12月の南方作戦中に29才の生涯を終えています。


中島飛行機略歴

中島知久平が海軍を退官後、群馬県尾島町(現太田市)に「飛行機研究所」を設立。
1931年(昭和6年): 中島飛行機株式会社と改称
1941年 (昭和16年) 一式戦闘機 「隼」
1940年 (昭和15年) 百式重爆撃機 「呑龍」

太田工場

太田町(現 群馬県太田市)にあった太田製作所は現在の富士重工業群馬製作所本工場であるが、当時東西600m、南北700m余りの20万㎡の大工場で、東側と南側に鉄道の引込み線があり、また南門から南方向へ約1,000mにある専用飛行場まで、完成した機体の翼を広げたまま搬送できる通称「専用道路」があった。(戦後も昭和の時代までは一般に「専用道路」と呼ばれていた)1940年小泉製作所が完成するまでは、陸軍機海軍機ともに、ここで航空機需要の拡大にともない、太田新工場を建設、ここに本社を移転し、旧太田工場を呑竜工場と改称した。昭和12年、資本金を2000万円に増資し、太田工場を太田製作所、東京工場を東京製作所に昇格し、規模を拡大した。

中島飛行機創業者中島知久平

中島飛行機の創業者中島知久平は、明治17年1月17日群馬県尾島の押切村で、農家の父粂吉・母いつの長男として生まれる。弟妹には、喜代一、門吉、乙末平、忠平、絹子、綾子がいた。知久平は、小学校を卒業後太田中学への進学を諦め、軍人を目指し、家業を手伝いながら「専検」(中学校卒業検定試験)を受験するため、夜間塾へ通いながら勉学に励んだ

新しい将来の世界こそ飛行機の研究製作である」と、フランス航空界を視察、大尉になるとアメリカ視察に出向き、飛行機の製作、研究、設備を見学研究するとともに、自らもパイロットの訓練を積み、米国飛行クラブの試験に合格、日本人としては3人目の飛行免状を手にした。

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