北海道を蘇らせた甜菜栽培       大正を駆けた官選知事笠井信一物語⑤

大正を駆けた官選知事笠井信一物語⑤

第5話  甜菜栽培への支援編

舞台は北海道 十勝 
 登場人物  松方正熊、十勝地方の農民、甜菜氏、そして笠井信一


笠井信一は、大正8年(1919)4月から大正10年(1921)5月まで北海道庁長官として勤務した。
当時の北海道、人口は236万人。 過酷な自然条件の中で開拓農業者が苦闘している状況を見る笠井であったが、やがて北海道の地勢ならではの作物甜菜栽培の重要性に着目し、この栽培を強力に支援して行く。

北海道の開拓と移民

開拓使による最初の移民政策は、政府募集の移民を送り込んで定住させるというものであった。
また、新規移民に米、銭、農具などを与える移民扶助の規定を設けた。だが費用のわりに効果が薄かったので、明治5年(1872年)には募集や新規移民優遇をやめ、既に定着した移民への援助に切り替えた。
明治6年(1873年)に、政府は北方警備と開拓とを兼任させる屯田兵制を開始した。初期の移民には東北地方からの士族移民の比重が大きかった。後には人口が多い平民が主流になり、その出身地は東北と北陸とが多くなった。

北海道の開拓は、大まかに言うと「囚人使役」、「屯田兵開拓」、「移住民開拓」の3ステップで進められた。屯田兵・移住民の入植をすすめるため、基幹道路の開削・兵屋建設などに、樺戸・空知・釧路集治監の囚人労働が投入されたのである。幌内炭山、跡佐登硫黄山などの開発にも安価な労働力として使用された。

北海道農業の歴史

北海道農業の開発は、その当初から国家事業として始められた。しかし、アメリカや西ヨーロッパ、本州の気象や土壌条件と微妙に異なる北海道の自然特性のため、これまでの農業を単純に適用することが難しく、この地の自然が許容する農法の定着までには、かなりの試行錯誤を必要とした

北海道と甜菜

西欧に追いつくことを最大の目標にした明治政府は、農業の近代化にも力を入れ、亜麻や大麦など西洋作物の種子を輸入しては、東京開墾局で試作させていました。甜菜もその一つです。
当時大々的な開拓を図っていた北海道で、栽培を試みることにしましたが、いくら気候が似ている北海道といっても、そううまくはいきませんでした。

転機となったのは、明治11年フランスのパリで開かれた万国博覧会です。
明治政府からパリ万博に派遣された勧農局長松方正義(後に総理大臣)は、西欧諸国での甜菜糖業の隆盛を目の当たりにし、日本への本格的な導入を決意しました。

帰国した松方は甜菜糖業の導入に奔走し、北海道の紋別(現在の伊達市)に官営の製糖工場が建設され、明治14年の1月に操業を開始しました。
この官営工場は、やがて民間に移管され、道庁などの保護を受けながら営業を続けましたが、農業・工業の両面で技術が未熟だったため、明治29年には事業を放棄し、解散する羽目に陥りました。
十勝の甜菜栽培は軌道に乗り、冷害に強い寒冷地作物として定着、今日の農業確立の道が開かれた。

大正8年、農試十勝支場で優良種子は改良されたとはいえ、一般農家に普及するには至らず、輸入種子が多く高価であった。そのため甜菜糖業を安定発展させるには耕作奨励と共に、その基礎となる優良種子を確保する必要があった。

十勝(とかち)で復活

甜菜糖事業が再び歴史の舞台に登場するのは、大正8年のことです。
北海道に甜菜を導入しようとした松方正義の夢は破れましたが、その子息松方正熊は帝国製糖社長として、甜菜糖業の企業化を企画、機が熟するのを待っていました。

また、台湾で実績を積んだ糖業資本も、北海道・朝鮮・満州の甜菜糖業に強い関心を示しました。
第一次大戦の戦勝国として、日本経済は活気を呈したことを受け、大正8年と9年に相次いで甜菜糖事業の新会社が設立されました。
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北海道製糖
松方正熊が興した北海道製糖と、旧日本甜菜製糖の2社です。
両社は、それぞれ十勝国の帯広と清水に工場を建設し、操業を開始しました。
甜菜糖業は約20年ぶりに復活しましたが、期待に反し現実は厳しく、両社とも創業直後から早くも経営難に陥るなど、苦難の道を歩みました。
後に両社は実質的に合併して、現在の日本甜菜製糖に受け継がれています。


日本甜菜製糖株式会社
大正8(1919)年資本金1,000万円で、帯広を本社とする北海道製糖株式会社が川西村に製糖工場を、翌9(1920)年には清水村に日本甜菜製糖株式会社(後に明治製糖に合併)が創立されました。
両会社自身も大面積の農場を直営して原料の供給を図るとともに、十勝を中心とする農家に甜菜耕作を奨励しました。

本町は北海道製糖の区域でしたが、大正13(1924)年の両社協定により十勝鉄道(北糖専用軽便鉄道)沿線以外の地域が明治製糖の区域に移り、本町に駐在所をおいて耕作奨励とビート買入れに当たりました。

この製糖会社の設立は、北海道の農業史に新しい1ページを加えました。
それは単に新しい工業を北海道におこし、北海道の利益を増したというだけでなく、農業に技術的にも経済的にも新しい有利安全な作物を提供したり、農家の子女に間引き、除草、裁頭などの仕事を与え、その子弟に冬期の工場労働を与えて農家を経済的に援助しました。そればかりか北方農業の知識の向上にも役立つことが多かったのです。
例えば工場や農場で働く農家の子弟に機械や大農具の操作を教えたばかりでなく、一般農家に肥料の知識や病害虫の駆除法を教え、輪作の大切さを教えました。会社は農家に種子と肥料や、病害虫駆除の薬品の散布器を与えました。そして指導員を巡回させて関係指導団体と協力して耕作指導に当たりました。

甜菜耕作改良組合の設立と笠井信一

これは必然的に耕作者の間に甜菜耕作改良組合を誕生させ、その育成に役立ちました。
この結果、農家の協同事業に活を与え、農事実行組合、部落会の結成や活動の源泉になりました。さらにビート栽培の茎葉と残滓で乳牛を飼育し、その収入と多量の厩肥で地力の維持が図られました。一方会社は甜菜栽培の普及とともに、栽培農家に乳牛を入れ始めました。本町の酪農の起源は甜菜栽培からともいえるのです。

一方北海道庁では、ときの長官笠井信一が甜菜栽培の持つ重大な意義を認識し、拓殖費から肥料費、種子代に多額な補助を与え、病害虫の駆除予防、農具の購入、甜菜運搬などにも補助し、畜牛購入補助金を与えて府県から多数の牛を入れ、北海道農業は大正10(1921)年前後を契機として輪作経営の一歩を踏み出しました
その伝統は笠井後も北海道政の中で脈々と生かされていくのであった。
道では大正11年12月「北海道甜菜耕作補助規定」を設け、先の明治43年に設定した第1期拓殖計画(15カ年)の中に新たに糖業奨励費(肥料補助、改良農具購入補助、運搬費及び原料損耗補助等)を計上して、甜菜耕作に力を入れるようになった。

当初は、耕作者の甜菜に対する技術は低く、従って耕作意欲は必ずしも積極的ではなく、寒地作物として普及するには、道、会社共に耕作奨励に苦慮し、行政指導で対処することになった。その一環に甜菜耕作改良組合の組織づくりと、会社側では主要現地に原料駐在所又は詰所を設けて、農家の指導に当り、奨励策として会社独自の各種の補助、助成を実施するようになった。

てん菜糖業はしばらくの間中断していましたが、北海道農事試験場では栽培試験を継続しており、大正8年(1919年)には十勝支場で10アール当たりの収量が2.4トンの実績をあげ、北海道に適した作物であることを実証しています。

 
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北海道におけるてん菜の栽培は、初めて栽培された明治から現在に至るまで、幾多の苦難を乗り越え、冷害に強く北海道に適した寒冷地作物として普及奨励され、重厚な助成政策等を受けながら作付面積を順調に拡大し、平成18年には、全道の作付面積は67,400ヘクタール、ヘクタール当たり収量も58.2トンになり、我が国の重要な甘味資源作物として、また、北海道畑作の基幹作物となっている。

日高山脈開拓初期と鉄路

日高山脈開拓初期の記録を読むとアプローチの際に十勝鉄道に乗り、山に入っていく叙述が所々に見うけられる。
この十勝鉄道は、かっては、清水村に工場を持つ日本甜菜製糖と川西村に工場を持つ北海道製糖の原料輸送用の専用鉄道であった。
北海道製糖は、大正8年に帯広ー工場間、大正9年には工場ー戸蔦、藤ー八千代、常盤ー上美生(昭和15年5月廃止)を開通。日本甜菜製糖は、大正10年に清水ー上幌内、熊牛ー南・北熊牛、上幌内ー下幌内を専用鉄道として開通させたが地元住民からの要望が強く、私鉄として発展、北海道製糖線は、十勝鉄道となり、日本甜菜製糖線は大正13年に河西鉄道に転じて一般営業線になった。この2つは昭和21年に合併して営業キロ87.8キロの道内最大の私鉄鉄道となった。

北海道製糖は現在の日本甜菜製糖(日甜)の前身であり、創業八十周年を迎えた日甜の歴史は、そのまま十勝のビート栽培の歴史と重なる。大正十二年には原料ビート搬送のため十勝鉄道を設立、鉄路を敷設してビートだけでなく旅客、貨物輸送も手掛けた。

 「明治期、伊達と札幌に製糖工場が作られたが、原料の確保が難しかったことに加え、輸送手段が整備されず失敗した。北海道製糖はこの二社の失敗を教訓に、ビートに適した十勝で操業し、真っ先に鉄路を敷いた」と日甜帯広事務所の河西征四郎所長は話す。交通網が未発達だった当時、「トテッポ」と呼ばれた十勝鉄道は多くの住民が利用し、地域開拓の面でも大きな功績を残した。

北海道でてん菜が栽培されたのはなぜ?

北海道でてん菜の栽培が奨励されたのは、明治政府が北海道の開拓において、冷涼な北海道の自然条件に適した近代的な産業を振興させるため、当時、北アメリカや北ヨーロッパで発展していた産業の一つである製糖企業の育成を企てたことから、てん菜の栽培を奨励したことが始まりです。
日本一、いいえ北海道でしか栽培されていないのがビート。日本名を甜菜(てんさい)といいます。日本一といっても、店先に並ぶことはありません。なぜなら、砂糖の原料として栽培されている野菜だからです。
 苗が畑に定植されるのは4月下旬から5月。春、黒土の畑に並ぶかわいい葉。夏、畑をおおいつくす大きな葉。土の中ではビートがまるまる育っています。収穫時期は10月下旬から11月。畑から直接、製糖工場へ運ばれます。そして、無骨な姿から想像するのは難しいでしょうが、あの真っ白な砂糖に変身するのです。

日本においては、北海道の開拓の歴史と共にテンサイ糖業も発展してきた。特に冷害年を経るごとに栽培面積が増加し、寒冷地作物としての地位を確立してきた。現在、テンサイはバレイショ、豆類、小麦、トウモロコシなどと共に基幹作物の一つになっている。栽培面積は約7万haで、60万t前後の砂糖が生産されている。

本格的な栽培は1918年(大8)より十勝で始まり、その後途切れることなく全道に拡がって行った。テンサイはヨーロッパでも「トレーニングクロップ」と呼ばれているように、トラクターの導入および施肥、防除、農作業の機械化など畑作農業近代化の諸技術はテンサイに始まり、他の作物に普及していった。

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糖価の暴騰によってテンサイが再認識させられたことおよび作物としてのテンサイの有利性

(①深根性作物であり地力を増進させる。
②耐冷性がある。
③土壌改善・施肥技術改善等により一般農業技術改善に役立つ。
④有畜農業に重要な作物など。)が次第に理解されてきたことにより、北海道庁は行政および試験研究の充実を図り作付指導奨励・助成事業を推進した。

年次 作付面積(ha) ha当り収量 (t) 総収量 (t) 歩留 (%) 産糖量(t)
明治23(1890)~明治27(1894) 553 15.15 8,913 3.37 253
大正 9(1920)~大正13(1924) 5,760 11.60 76,926 8.14 6,959


こぼれ話①  札幌ビール園で乾杯

この間、明治21年には、道の援助により札幌に新しい製糖工場が建設されました。
しかし、この製糖工場も紋別の工場と同様に事業としては成り立たず、明治34年には閉鎖されたのです。
以後、細々とした試験研究を除き、甜菜糖業は約20年間にもわたり歴史の表舞台から姿を消してしまいました。
この札幌製糖の工場は、後にビール工場として生まれ変わりました。
これが、現在の札幌観光の定番スポット「サッポロビール園」の前身です。
赤レンガの重厚なたたずまいの中、グイッと飲みほすビールはちょっとほろ苦く、しかし実に爽快です。


こぼれ話② 時代は変わる:隔世の感ある新エネルギーへの夢   食料かエネルギー

三菱商事 <8058> とキリンビール <2503> は19日、北海道十勝地区の燃料用バイオエタノール製造プロジェクトの製造施設建設を受注したと発表した。 ... ホクレンの清水製糖工場構内に年産1万5000キロリットルの製造 ...
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070619-00000152-jij-biz
Yahoo!ニュース - ロイター - 三菱商事とキリンビール、バイオ ...
... は19日、農林水産省によるプロジェクト「バイオ燃料地域利用モデル実証事業」のうち、北海道十勝地区でのプロジェクトに参画すると発表した。 ... ホクレンの清水製糖工場(北海道上川郡)構内に製造設備を建設、2009年3月の稼動を目指す。 ...


5回に渡り官選知事笠井信一の足跡を辿ってみました。
議員より知事の方が権力が使えて仕事のやりがいがあると良く言われます。
県政は産業、福祉、都市整備、教育、民生およそ幅広く知事に人を得るかどうかはその県にとり大きな影響があります。
談合に走り私利私欲の煩悩の虜になり、絶大な権力を悪に使用した例も最近多く見かけてしまう。

今でも夢を運ぶ岩手軽便鉄道、要害の地から航路を開く三陸汽船、困窮者への救済民生委員制度創設、治水堰、極寒冷地での甜菜栽培。
常に県民の生活を考え県政を預かった笠井信一は当時の政治体制では官制知事であった。民主主義の今日、彼は立候補し知事に民衆の支持を得て果たして当選出来たであろうか。このような大きな成果を果たしてなし得たであろうか。その答えは、企業は仕事の出来る人なり、身土不二(土と人は一緒の意味)という言葉にあるのではないか。彼は必ず大きな支持を得て県民の目で大きな仕事を成し遂げたであろう。


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