岡山の母なる川:高梁川の 治水事業に奮闘 大正を駆けた若き官選知事 笠井信一物語④

岡山の治水事業に奮闘  大正の若き官選知事笠井信一物語④

第4話 笠井堰編
   登場人物 岡山の農業者、洪水に苦しめられている周辺住民、笠井信一


笠井信一と岡山

笹井信一は、1864年静岡県富士郡で生まれた。
1892年国家公務員として内務属により山形県参事官、岩手県警務部長、台湾総督府、熊本県、岐阜県書記官を歴任。
1907年岩手県知事(42歳)、この時異数の大抜擢で岩手の財政再建等重責を果たした。
岡山県知事には49歳大正3年(1914)6月着任、大正8年(1919)5年間岡山県第10代官選知事として行政任務を遂行した。大正6年、岡山県令『済世顧問設置規定』を公布。

若きリーダーとして岩手で産業振興:陸上:海上交通に大きな成果を挙げ、財政再建にも貢献した笠井信一は、岡山で福祉に歴史に残る大事業:民生委員の前身済世顧問制度を創設した。「一村その人を得るならば、その村. は安し」と笠井は言いました。 換言すれば、一人の民生委員・児童委員がいれば、その地域の人々の安心がつ. くられる、ということです。 ...

さて為政は治水から…県政は福祉の他懸案は多かった。中でも最大課題であった高梁川治水事業と笠井の関わりを見ることとしよう。

高梁川の水は私たちの命の源!

高梁川(たかはしがわ)は、岡山県西部(備中の国)を流れる高梁川水系の本流で、一級河川。吉井川、旭川と並ぶ岡山三大河川の一つ
鳥取県境の明智峠(標高755m)に近い花見山(標高1,188メートル)の東麓(新見市)を源流とし、高梁市・総社市を経て、県西部地域のほぼ中央を南北に流れ、倉敷市で水島灘に注ぐ。
中国山地に生まれ、吉備の国・倉敷平野・水島工業地帯を育む岡山西部の母なる川である。
                                    
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流域

県下最大の穀倉地域であり、古くから用水地域として開発されてきた高梁川下流三角州地帯に展開している平坦地 明治25,26年の大洪水を契機として明治43年から大正14年まで行われた内務省による第一期改修によって、それまで倉敷市で東西両派川(はせん)に分かれていた東派川を締切り、西派川に統合する大改修を行いました。
その後、廃川(はいせん)となった東派川の廃川地の造成、水島の工業用地土地造成などが行われ現在の高梁川の姿となっています。

地域のあらましと洪水と旱魃の歴史

延享年間(1770年頃)より大正時代までの高梁川の洪水を拾ってみると18回を数える

特に高梁川は川が若く水勢が強いため、川筋が安定した後も洪水による堤防が絶えず沿岸諸村に大きな被害をもたらす事が少なくなかった。
 この記録として、井尻野の隣村である常磐村史の水害史には、明治に入ってからも高梁川は数年おきに氾濫を繰り返した。特に明治26年10月の暴風雨洪水は県下一円の大災害を来し、その上前年の25年7月の災害に倍加された結果その被害は甚大であった。
 被害として死者 423人。負傷者 991人。流失家屋3,342戸等未會有の記録が残っている。 その内、軒か三大河川の内、高梁川水系の被害が最大のようでありました。

江戸時代から明治時代の終わりまでの約300年間にわたる干拓で出来た、倉敷・船穂・玉島など1万数千haの土地を守るため、明治40年から高梁川改修工事が行われました。
それに伴い、それまで11あった取水樋門を1つに統合する形で東西用水が造られました。
石積みの取水・配水樋門や、洋風建築の管理棟、桜並木など、歴史的な土地改良施設や農業用水に触れることで、その役割や大切さを感じることでしょう。

笠井堰とその恩恵

高梁川は江戸時代から明治時代にかけては、東西2つの流れに分かれており、どちらの川もたびたび洪水被害を出していました。
 特に明治25年から27年にかけての大洪水を契機として、高梁川下流の大規模改修工事に着手され、巨大な堤防を築くとともに、東西2本の流れの内、東高梁川が締め切られ、西高梁川の1本に統一することとなりました。
 
また、東高梁川に7箇所、西高梁川に5箇所のあった農業用水の取水口が1箇所にまとめられましたが、取水口は、大正14年に完成し、その当時岡山県知事であった笠井信一氏の名前をもらい「笠井堰」と呼ばれています。
 
治世者として岡山の農民や高梁川河川周辺住民の洪水の恐怖、農業用水不足は日夜頭を悩ましたに相違ない。高梁川流域市町村首長、議員及び自治会等から度重なる必死の陳情に、笠井は大雨が降ると頭から川のことが離れなくなったという。
治水事業には大いに意を用い、その具体化の一つが高梁川笠井堰に見られるのである


「堰」は、必要に応じて流水をせき止めたり、流したりできるよう、川の水量を調節する河川構造物です。

洪水防御(こうずいぼうぎょ)
笠井堰により、川底を深くして、川幅を広げて洪水が安全に流れるように堰を改築しました。

潅漑用水
笠井堰から取水された水は、酒津配水池から、倉敷市や船穂町などの農地(マスカットスタジアム約1,100個分)へと供給され、農業経営の安定に役立っています


環境保全
堰によって水量を調節し、川の生き物たちがすみやすい環境づくりのための流量を確保する役割も果たす。

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これに併せて、11カ所あった取水施設を1つに統合して造られたのが、笠井堰と酒津配水池です。 

酒津配水池は、3.1haの面積があり、笠井堰から取水した用水を貯留したり、沈砂池としての役目があります。これより、6つの用水路に21の樋門により決められた用水量を分配しています。 これらを管理運営するため、大正5年に高梁川東西用水組合を設立し、今年創立90周年を迎えているところです。現在、その組合が入っている管理棟は、この建物は大正14年に建築された近代洋風建築で、岡山県近代化遺産に指定されました。 

疏水の概要・特徴

笠井堰で取水された高梁川の水は、大正13年に完成した取水樋門を通って一旦酒津(さかつ)配水池に貯められ、南北配水樋門から西岸用水、西部用水、南部用水、備前樋用水、倉敷用水、八ヶ郷用水により倉敷市の船穂町などの農地へ供給されている。 この樋門は高梁川東西用水組合の努力によって古くから管理されており、現在は周辺整備も行われ水辺空間を最大限活かすよう配慮されている。15連の南配水樋門をはじめ一連の施設は組合や地域に守られながら住民に安らぎを与えている。

高梁川の水は私たちの命の源!

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笠井堰(かさいぜき)を造った際、12箇所あった取水口が1箇所に統合されましたが、各々取水していた水をこれまでと同じように配分するため、笠井堰で取水した水をいったん配水池に貯めて、樋門からこれまでと同じ量を配分することとしました。樋門の高さを同じにし、幅を変えることでこれまでと同じ量の水を配分するようにしたわけです。
 そしてこの配水池や樋門を管理するため、東西用水組合という組織がつくられました。
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笠井堰から高梁川の流れを分ち、酒津遊水池を経由し、倉敷市西部方面に配水している西部用水路は農業用水としても貴重。
夏には親子達れが水路の流れに身をまかせ、プールでは味わえない爽快そのものの水遊びに興じている。また、こども会連合会の主催で七夕まつりが開催されるなど、清流を体感しながらの交流の場としても利用されている。



次回は一転して北海道における笠井の農業振興活動を予定

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