岩手軽便鉄道創設を彩る宮沢賢治、金田一勝定、笠井信一   大正の若き官選知事笠井信一物語① 

元治元年1864年、今の静岡県富士市に生まれた笠井信一は、江戸、明治、大正、昭和を生きた官僚であり、政治家であった。昭和4年1929年没。
この官選知事の足跡を今日から辿ってみたい。
私は地方行政マンOBとして,中央官僚であるが笠井信一の地域発展に尽力した実績を高く評価している。調査は時間もなくホームページに頼った。いつか時間を掛け、ゆっくりこの人物を見直したい。


第1話 岩手軽便鉄道編
舞台は岩手県。登場人物 宮沢賢治、金田一勝定、笠井信一
明治40年1月から大正2年2月まで笠井信一は官選の岩手県知事であった。


鉄は国家なりと言われるが、明治40年岩手県知事に着任した笠井信一は、この製鉄事業に民間人でまい進している岩手の代表的経済人の田中長兵衛や横山久太郎の活動に大いに感服させられたに違いない。そして折から東北本線が開通することに合わせ、三陸と岩手内部をこの幹線に繋げなくては岩手隆盛さらに明治から大正に移行する新生日本の礎にも釜石の鉄は必要と考えたに違いない。さっそく知事としての活動を開始した。
以下盛岡タイムス社ホームページ「いわての鉄道ものがり」他を参考にまとめました。

岩手軽便鉄道の必要性と開通
岩手軽便鉄道は、明治44年に時の岩手県知事・笠井信一が建設を呼びかけたもので創立委員長として金田一勝定が約1万500株の株式を募集すると、1万6千もの応募があったという。賢治の母方の祖父・宮沢善治も創立委員に名を連ね、350株所有していた。

ただ、岩手軽鉄の株式に人気が集まったのは、かつての鉄道建設ブームの時とは違って、投資目的の人気ではなく、全県血行不良」と報じられるほどに県内、ことに内陸部と海岸部の連絡がむずかしかった現状をなんとかしたいという理由がほとんどであったようである


 岩手軽鉄は難工事のために、建設経費は当初の計画を大幅に上回り、大正2年10月25日に営業を開始するが、区間はわずかに花巻~土沢間の約13キロでしかなかった。
大正4年11月23日に全線が開業するが、ついに急勾配の仙人峠を越すことはできず、この峠を越えて太平洋岸の釜石に行くためには、荷物は索道によって、人は歩いてここを越えるしかなかった(花巻~釜石間が鉄路で結ばれたのは昭和2年10月)。


株式会社岩手軽便鉄道の設立
金田一勝定は、岩手銀行や岩手電気を興した岩手きっての実業家ですが、明治44年(1911)岩手軽鉄道を創立しました。アイヌ研究で有名な金田一京介は勝定の甥です。
この大実業家と岩手県知事笠井信一は岩手の隆盛に向かい互いに意気投合し勝定の事業に大いに支援を行った。こうして政治に笠井信一、実業に金田一勝定、更に横山久太郎等の人を得て岩手懸案の軽便鉄道は実現に向かったのであった。


開通の効果
 軽鉄によって内陸部と海岸部の物資や人の流れが迅速、安全、安価になったことは確かで、全県に及ぼした影響ははかりしれない。
「軽便」という名称や軌道の狭さ、速度の遅さ、あるいは「シグナルとシグナレス」における描かれ方などからマイナー視するむきもあるかもしれないが、岩手軽鉄は岩手県民の誰にとっても有益で、ありがたい路線であったということは忘れられてはならない。span>

時代背景と岩手の事情

大正の時代に入ると、仙人峠にも近代化の波が押し寄せるかのように、大きな変化の時を迎えます。その背景にあるのは、何といっても釜石(大橋)における近代製鉄の発祥と本格的な鉱山開発の開始でありました。江戸末期、盛岡藩士大島高任が大橋の地に洋式高炉を築造して始められた近代製鉄業は、明治に入って官営製鉄所となり、その後一頓挫したものの、民間の釜石鉱山に引き継がれ、明治44年には現在の釜石市鈴子から大橋の間に、鉱石と木炭を運搬するための鉱山鉄道が開通していました。

 他方、遠野側においては、岩手県の内陸部と沿岸を結ぶ鉄道建設の気運の高まりもあって、大正元年、釜石~花巻間を結ばんと計画された岩手軽便鉄道の建設が、まずは花巻から着工され、その後大正4年には花巻から遠野を経て仙人峠(沓掛)までの区間が開通することになりました。

 このように仙人峠をはさんで東西に鉄道の建設が進められる中、大正2年、岩手軽便鉄道株式会社が、仙人峠の遠野側・沓掛と釜石側・大橋の間において、「鉄索」と呼ばれる3.3kmの索道による荷物輸送を開始したことは、これまでの馬の背による荷の輸送に幕を引く出来事となりました。鉄索は、概ね現在のスキー場のリフトのような構造で、荷物の輸送効率をそれまでよりはるかに向上させたものの、風が強いときはしばしば運行を休止することがあったようです。また、人の移動については相変わらず徒歩か駕籠で峠を越えなければなりませんでした

開業当時の1912年(大正元)はまだ大船渡線(一ノ関―盛)も、山田線(盛岡―宮古―釜石)も開通していなかったので、内陸と沿岸を結ぶ唯一の鉄道路線として重要な位置にあった。1913 大正2 10/25 開業 花巻-土沢 12.65km 1914 大正3 4/18 開業 遠野-仙人峠 19.33km


宮沢賢治と銀河鉄道と岩手軽便鉄道
宮沢賢治(岩手県花巻市出身、1896~1933)の代表作の一つ『銀河鉄道の夜』 ――。そこに登場する鉄道のイメージモデルだったといわれるのが、岩手県花巻市から遠野を経て仙人峠(沓掛)方面に通じていた実在の鉄道路線「岩手軽便鉄道」である。 

釜石線の前身である岩手軽便鉄道は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルと言われていることに因む。同じく宮沢賢治の『シグナルとシグナレス』は、東北本線と釜石線の信号機を擬人化し、男女に見立てた恋物語である。また、宮沢賢治が作品中にエスペラント語の単語をよく登場させていたことから、各駅にエスペラントによる愛称が付けられている。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節に、「汽車の音が遠くから聞こえてきて、だんだん高くなり、また低くなって行きました。その昔を聞いているうちに、汽車と同じ調子のチェロのような声でだれかが歌っているような気がしてきました」とある。

  この童話のモデルになったのが、大正から昭和にかけての花巻~仙人峠間65.4キロを走っていた岩手軽便鉄道であったと思っている。宮沢賢治は、時速15キロのマッチ箱みたいな汽車を、超スピードの「宇宙鉄道」にかえて鉄道に夢をかけたのだろう。宮沢賢治は熱烈な鉄道ファンであったようで、鉄道に関する記載がそちこちに残されている。

賢治は、盛岡中学在学中に短歌の創作を始めたが、上級学校への進学が父の許すところとならず、花巻の自宅で悶々としていた大正3年4月、鉄道を詠んだ短歌を数首残している。


 思はずもたどりて来しかこの線路高地に立てど目はなぐさまず
 風ふけば岡の草の穂波立ちて遠き汽車の普もなみだぐましき 
 はだしにて夜の線路をはせ来り汽車に行き違へりその窓明く 
 鉄橋の汽車に夕陽が落ちしとてこ~までペンキ匂ひくるなり 
 停車場のするどき笛にとび立ちて暮れの山河にちらばれる鳥 


これらがどこで詠まれたものか、どこの鉄道を詠んだものかは推定するよりないのだが、「高地」や「岡」、「鉄橋」という言葉があることから、花巻町内の岡の部分を通り、長い鉄橋で瀬川を越えるルートをとっていた岩手軽鉄がモデルであると思われる

もちろん東北本線を詠んだ歌も含まれているかもしれないが、大正3年4月と言えば、岩手軽鉄が開業してからまだ日も浅く、盛岡から花巻に戻ったばかりの賢治には、軽鉄の汽車はことさらに目新しく、まぶしく映ったのではないだろうか。

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次回は釜石製鉄所、三陸汽船編を掲載予定 


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